男社会の壁にもめげず平常心で仕事に従事
「母が体育教師で、女性もフルタイムで働いて当たり前という家庭で育ちました。私も根っからの体育会系。男性が多い職場のほうがサバサバしていて向いていると思い、この業界を選びました」と語るのは建築資材メーカー勤務の園部雅子さん。
飛び込んだ仕事場はおもに住宅の建築現場。入社当時は験を担ぐ大工たちに女性の立ち入りを嫌がられることもあった。そんなときも園部さんは穏やかに「では、外に出てきてもらえますか」と声をかけ、事なきを得たという。気負わず一本筋がとおった姿勢で、結果を残してきた。
入社1年目で先輩から優良な取引先を引き継がせてもらった。初の担当を持つが、複雑な問題があると前任者に相談が行ってしまい、ふがいなさに悩んだ。当時は女性営業が珍しかったことも起因していた。
「どうしたら先輩に相談が行かなくなるだろう、何が足りないのかと悶々とし、担当者として信用を得られるように努力しました」
入社4年目には、今でも忘れられない大きな失敗も経験した。3階建て住宅の1階に寸法が違う柱材を入れてしまったのだ。ピンチを救ってくれたのは、日頃お世話になっていた大工だった。
「2階の梁から上をジャッキで上げて1階の柱を入れ替えてもらいました。この助けがなかったら追加費用含め大変な損害になっていたと思います。納品前の確認はもちろんですが、人のつながりこそ大事なのだと痛感しました」
岐路では力まず自分に正直に。激務と私生活を両立
キャリアは順調だったが、29歳を境にライフイベントに関わる女性特有のハードルが次々と現れる。
「転勤の内示後に夫と知り合い、転勤を断ったこともありました。非常に悩みましたが、このときは私生活を優先しました」
その1年後、初めてマネジャーに就任。実力も実績も足りないうえ、部下には先輩が含まれるという心苦しい状況だった。
「リーマンショックの影響で住宅業界は厳しい時期でしたが、何とか新規顧客をつかみ、結果を出さなくてはと必死でした」
ところが、就任後1年で妊娠し産休に。復帰後は時短勤務でもあり、営業課員として子育てと両立しようと思っていたが、再びマネジャーに抜てき。初めての育児と管理職の仕事を両立する激動の日々を経て、数年後には2人目を妊娠した。
「妊娠8カ月のときトラブル現場で取引先の人に『車で休んでいたほうがいいよ』と気遣っていただき、やさしい言葉に涙があふれたことがありました。職場で泣くなんて……緊張の糸が切れた感覚でした」
営業課員時代は自分の仕事に集中すれば評価されたが、管理職となると部署としての達成目標があり、責任は重い。上司への報告や部下の相談対応、新人教育もあり、仕事の量は桁違いだった。
「2人の子育てと仕事で毎日が精いっぱいでした。先を見据えて仕事をする立場だったけれど、非常に難しかったですね。幸いにも上司が『会社全員で子育てしよう』と協力的な雰囲気をつくってくれて精神的に救われましたし、課のメンバーや関係各所、お客様にも助けられました」
目が回る忙しさの中、仕事に打ち込む園部さんの昇進は止まらない。
「さすがに部長職はお断りしました。でも先輩に『昇進の話はサラリーマン冥利に尽きる。やってみてできなかったら無理だと言えばいい』と諭され、それもそうだなと」
“専業主婦の妻がいる男性と同じ動きはできないからこそ、自分流を貫きたい”
だが、リーダーシップといい、交渉力といい、後任部長としてバトンを受け取るには、前任者と実力が違いすぎると、悩む日々が続いた。
「先輩社員は専業主婦の妻がいる人が多く、仕事に全力投球できますが、私に同じ動きは困難。自分流でいいと割り切りました。相談しやすく、問題があればみんなで解決し、業績を伸ばしていける雰囲気をつくろう、と考えることにしたんです」
今や営業本部長の園部さん、自分は寮母さん的存在だと語る。
「女性らしい目線のリーダーがいてもいいと思います。若い女性たちには、差し出されたポジションに臆せず挑戦してほしいですね」
仕事を愛し、自然体で150人の部下を率いる姿は、頼れる女性リーダーの存在感を放っていた。
ポラテック
1978年生まれ、茨城県出身。教育学部卒業後、2001年に住宅メーカー、ポラスグループの中で住宅の建築や構造材などの木材加工を行う、ポラテックに入社。プレカット事業部の営業課に配属される。08年、都内営業所のマネジャーに昇進。産休・育休を経て、11年本社へ異動。再度マネジャーに抜てき。18年、プレカット事業部部長に昇格。20年、本部長に昇進し部下150人を率いて現在に至る。