天台宗の僧侶、髙橋美清さんのところには「思春期の子どもが親と口を利かなくなった。何を考えているか分からない」という相談が持ち込まれることも多い。髙橋さんは「生きとし生けるものはすべて移り変わり、子どもも成長する。小さい時の、何でも話してくれたころの子どもと、今の子どもを比べてはいけない」という――。
天台宗僧侶の髙橋美清さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
天台宗僧侶の髙橋美清さん

いつからわからなくなってしまったのか

以前、高校生の息子を持つお母さんから、「息子(仮にAくんとしましょう)が友達とケンカをしてケガをさせてしまった。話しかけても押し黙った状態が何日も続き、何を考えているか分からない」と相談を受けたことがあります。私はこういった場合、子どもから親はどう見えているか、はたまた親は子どもをどう見ているか、必ず両者から話を聞くようにしています。

相手に聞かれては話しにくいこともあるでしょうから、なるべく個別に話を聞くようにも心がけています。そして、「子どもが何を考えているか分からない」という親にはまず、「それはいつからですか?」と聞いています。すると、大抵のお母さんは考え込んでしまい、「小学生のころはいろいろ話してくれたのですが……」で止まってしまう。すぐに答えられる人の方がまれです。

相手の視点に立ち、原因を探る

「子どもの気持ちがいつから分からなくなったのか、その起点が分かればわだかまりを溶かすヒントになるのでは?」と考えた私が使ったのは、人との関わり方を説いた仏教の教え「四摂法ししょうぼう」のひとつ「同事どうじ」です。

僧侶は悩み事について相談を受けることが多いのですが、ある時、尊敬する和尚さまから「人の話を聞く時は『同事』が大切。ただ漫然と聞くのではなく、ひたすら相手の視点に立って聞くことです」とアドバイスをいただき、それを実践しています。同事には、「自分を抑えて相手と同じ心・境遇に自分自身の視点を移し、相手に接しなさい」という意味があります。

まず、お母さんにAくんが生まれた日のこと、幼稚園の行事や思い出、小学校に入学したてのころ……と、順を追って昔の話をしてもらい、お母さんと同じ視点に立ってAくんのことを考えてみました。そしてAくんにも、同じように小さいころまでさかのぼって、じっくり話を聞きました。すると、「このあたりから、両者に距離ができたのでは?」ということがわかってきました。Aくんの場合は野球に原因がありそうでした。

「弟はレギュラーになれたのに」

Aくんは小学生の時、お母さんに強く勧められて、弟と一緒に地元の野球チームに入りました。しかし、そもそも野球が好きではなく、やりたかったわけでもないAくん、なかなか練習に身が入りません。一方のお母さんには、「息子には野球を通して体力をつけ、身体能力を高めたり、他人と協力して目標を達成する喜びを知ってほしい」という思いがありました。

そのうち、Aくんはレギュラー争いに敗れることが続き、「もうやりたくない」と口にしました。しかし、「スポーツはよいことだ」と思っているお母さんは、「もっと頑張れないの?」と励まします。

Aくんはそのことを、いつも責められているように感じていたほか、「弟はレギュラーになれたのに」と比べられることにも傷ついていました。やがてAくんは練習に行かなくなり、結局、中学半ばでチームをやめてしまったのです。

その後も、お母さんは野球で活躍する弟を熱心に応援。家族間の話題は弟の野球が中心になりました。Aくんはその時の気持ちを、「親の関心がすべて弟に向けられて、見放されたような気持ちになった」といいます。友達とケンカしてケガをさせてしまったのも、そうしたイライラが募り、自制心が利きにくくなったことに一端があったようです。

小さい時は何でも話してくれたのに

話を聞くうち、実はAくん、野球をやめたころから、殻に閉じこもるようになっていたことが分かってきました。両親が話しかけても無視したり、部屋に閉じこもって食事の時も出てこなかったり、朝起こそうとしても起きて来なかったりしたそうです。

こうした変化についてお母さんは、さほど気にしていなかったようです。「同じ屋根の下に住んでいて、毎日顔は見ているので、子どものことはわかっているつもりだった」と。ところが、友達にケガをさせたことについて話し合おうとしたところ、それがかなわなかったことから、「子どものころはあんなにかわいくて、何でも話してくれた息子が、ろくに口も利かなくなってしまった」と急に心配になってきたようです。

幼いころの子どもと今の子どもに線引きを

子どものころは「聞いて、聞いて!」とまとわりつき、何でも話してくれた息子がろくに口を利いてくれなくなった――。お母さんの不安も分かりますが、思春期の子どもは親の知らない所でどんどん社会と接点を持っていきます。

そして、ひと時も止まらず、成長していきます。時は過去には戻りません。この世のものはすべて移りゆくもの、まさに諸行無常しょぎょうむじょうです。親の方は、子どもの小さい時の姿をよく覚えているので、つい「前はもっと話してくれたのに」「聞いたことにはちゃんと答えていたのに」と、今の様子と比べてしまいます。「それが成長なのだ」と頭ではわかっていても、やはり目の前の子どもが変わっていくことに、不安を感じることがあるかもしれません。お母さんには、「心の中の思い出をきちんと整理して、幼く、素直だったころの子どもと、今目の前にいる子どもをきちんと線引きすること。そして、比較しないことよ」とお話しました。

以前、ある教育関係者からこんな話を聞きました。「人見知りは、よりよく生きるために必要なものです。赤ちゃんも8カ月ぐらいから最初の人見知りが始まります。もし、今までおとなしく抱っこされていた赤ちゃんが、あなたが抱き上げた途端大泣きしてしまったとしても落ち込まないでください。『この子も少しずつ成長しているんだな』と思って喜んであげてください」と。

子どもの気持ちは全部分からないくらいが当たり前

私はお母さんにこの話をしてから、「Aくんも成長して親離れが始まっているということ。『何を考えているのか分からない』と不安がっていても、息子への苦手意識が育ってしまうだけ。お母さんもあまり頑張りすぎず、『息子の気持ちなんて、全部分からなくて当たり前』ぐらいのスタンスで、肩の力を抜いて」と伝えました。

その一方で、「子どもの小さな変化、特に悩み事を抱えているといった変化には、気づいてあげられるようにしてほしい。親には素直になれなくても、私のような他人には素直に話せることもありますから、第三者に入ってもらうのも手ですよ」と伝えました。

友達にケガをさせてしまったのは良くないことです。しかし、Aくんが親から見放されたように感じて寂しさを抱えていたことも事実です。お母さんにとっても、成長していく息子とこれからどう向き合っていくか、考えるよい機会になったのではないかと思います。

一時的に距離を置いてみることも

その後、Aくんとお母さんの距離が縮まるこんな出来事もありました。しばらくたって、お母さんに病気が見つかり、2週間ほど入院することになったのです。最初は息子たちの食事の用意などを心配してためらっていたお母さんですが、私は「何よりも自分の体が第一だし、きっとお互い勉強になるから」と入院を勧めました。

お母さんが入院している最中、Aくんは私に電話をよこしてこう言いました。「家事って大変なんですね。ただ座っていてもごはんは出てこないし、洗濯や掃除もしなきゃならないし……」。お母さんのありがたみが分かったでしょう、と言う私に、Aくんは素直に「よく分かりました」と答えました。

このように、親子のあいだでお互いの気持ちが分からなくなった時、一時的に距離を置いてみるのもひとつの手だと思います。

物理的に距離を取るのが難しい場合は、「自分の尺度だけで子どもに接していないか?」と、視点を変えてみるのも手です。昭和を生きた今の親世代と、平成・令和を生きる子ども世代とでは、考え方や常識とされることもまるで違ってきているからです。

自分がよいと思っている価値観を曲げて、異なる価値観の相手を認めることは難しいものです。それが自分より若い世代、例えば子どもが言う事であれば、すんなり認めることは余計に難しいかもしれません。しかし、自分がよいと考えるその価値観は単なる「思い込み」であるかもしれず、そのロックを外せば、新たな視点の獲得に繋がります。それに、若い世代から学ぶことは案外多いものです。

今月のひとこと
今月の一言

「慈悲」と聞くと、困っている人や苦しんでいる人に優しくする情け深い態度をイメージしますが、仏教用語では菩薩が衆生を憐れむ心、楽を与える「慈」と苦を除く「悲」を指します。なかでも「慈」は、親が子どもを思う慈しみの気持ちからきています。

子どもが成長するにつれ、彼・彼女らの視界は開け、知識も増え、親とは異なる自分の尺度が生まれてきます。親子の関係性が変わっていくのは自然の摂理です。ですから干渉しすぎることなく、慈悲の心をもって、一歩離れてお子さんを見守り、導いてあげてほしいと思います。