今年、芥川賞を受賞した高瀬隼子さんが、受賞作『おいしいごはんが食べられますように』で描いたのは“弱い人vs強い人”という構図だ。体が弱く早退しがちな女性と、それをかばう男性上司、そして同じ頭痛持ちなのに言い出せず、残業を引き受ける女性。高瀬さんが描く「頑張って仕事ができてしまう人」の見えない苦しみや弱さとは――。

※一部、小説の結末部分に触れています

社会で正解とされる道を行く男性は、どんな女性を選ぶか

——芥川賞受賞作が増刷を重ね、15万部を突破しました。純文学でありつつ、そこに描かれた人間関係はとてもリアルで「読んでいてゾワゾワする」という感想も多いですね。高瀬さんも一般企業にお勤めだそうですが、どのぐらい経験が反映されているのでしょうか。

作家・高瀬隼子さん。
写真=嶋田礼奈/講談社
作家・高瀬隼子さん。

【高瀬隼子さん(以下、高瀬)】小説の舞台はパッケージデザイン製造会社の埼玉支店で、私自身の勤め先とは違いますし、業種も全くかぶっていません。ただ、私も10年以上、社会人生活をしているので、そこで感じたことは作品に反映できたかなと思います。学生時代と違って、会社という場には「なんでそんなこと言うのか全然わからない」という人たちがいて、おそらく私もそう思われているわけで、同僚という間柄はお互いに理解できない面があるけれど、それは表面には出さないでいる。改めて考えると、不思議な感じがしますよね。

——20代の社員、二谷、押尾、芦川、この3人の関係を通して書きたかったのはどのようなことでしょうか。

【高瀬】この小説は登場人物が先に生まれ、まず男性の二谷から書き始めました。彼はこれまでの人生の中で、自分が好きなものより社会の中で正解とされる方を選んできた。つまり、いい大学に入っていい会社に就職して、今後は結婚して子供を産んでと……。一家の大黒柱としてしっかり働き家庭を支えるのが正解だと思っているんです。その彼がどんな女性を選ぶのだろうと考えたときに、出てきたのが“芦川さん”。芦川は体が弱い人で、一方、押尾は学生時代チアリーダーをやっていた人で弱くはないけど、強いとも言えない。私の友人など、周りにもよくいる、仕事がめっちゃしんどいときでもなんとか頑張って「終電までに帰るわ」と言いながら働いている人たちの集合体から生まれたのが押尾でした。

残業するしんどさより、できない自分が嫌になる

——高瀬さん自身はどうですか? 体がちょっとしんどいときに早退するか残業するかで言うと……。

【高瀬】今は新型コロナウイルスの問題があるので、体調が悪ければすぐ帰るべきですが、以前は熱っぽい気がしても「あと3時間で定時だし、残業したとしても、あと5時間で帰れるから、頭痛薬を飲んでそれが効いてくるまでメールチェックだけしておいて、その後、頑張って資料を作ろう」などと計算しながら仕事を続けていたんですね。本来は帰るべきなのに帰れない。頑張ったほうが気楽で、早退しますと言うほうがしんどいから残ってしまう。比べてみて、残業という労働のしんどさより、自分が「できない」という事実のほうがしんどいというか……。それが良いか悪いかは別として、私も含め、そういう働き方をしていた人は多いのでは。

定時で帰って毎週お菓子を作って職場に持ってくる

——この小説が「怖い」ような感覚をもたらすのは、定時で帰る芦川が、毎週、お菓子を作って職場に持ってくるようになるんですよね。作るのにすごく手間と時間のかかるケーキなどを持ってきてみんなに配り、それが余計に押尾をイライラさせます。

「頑張って働けてしまう人の苦しみを書いてみたいと思った」と高瀬さん。
写真=嶋田礼奈/講談社
「頑張って働けてしまう人の苦しみを書いてみたいと思った」と高瀬さん。

【高瀬】私も執筆中は「芦川さん、なんで?」と思っていたんですけど、書き終わって、そこから離れて読み直すと、別に芦川は何も悪いことはしていなくて、体調が悪くて早退するのも当然だし、定時まで働いてプライベートの時間にお菓子を作るのも悪くない。弱い人への攻撃になるのは本意ではありません。しかし、もし自分が押尾の立場になり「今日も残業だな」と思っていたら、絶対イラッとしてしまう。頑張って働けてしまう人、周りから見ると「別に人生、困っているわけじゃないよね」と見える人のそういった苦しみというのは、あまり小説で読んでこなかったので、今回、書いてみたいなと思いました。

手作りの菓子を配る同僚女性にはどう接する?

——実際に芦川のようにタスクやノルマを平等に負担しないのに、家庭的な面をアピールしてくる同僚がいたら、どう対応したらいいのでしょうか。

【高瀬】私なら、手作りケーキをもらったら「わぁ、おいしい」と食べちゃうと思う。社交辞令で「どうやって作っているんですか?」とか率先して言ってしまいますね。そういう自分が嫌いなんですが……。芦川にとって、みんなが喜んでくれるから会社にお菓子を持っていって配るというのは、正しいことなんですよね。だから、具体的にどう対応すればいいのかは、読者の方に教えてほしいぐらいです(笑)。

——そんな“芦川さん”は、仕事ができる押尾や二谷に見下され、押尾は二谷に「芦川さんにいじわるしませんか」と誘いかけるわけですが、実は裏で二谷は芦川と付き合っています。これも“職場あるある”のリアルな人間関係ですね。

【高瀬】社内恋愛って秘密にしている人が多いですよね。男性の心理として、芦川の家庭的アピールは好きじゃないし、むしろムカついているのに、恋人として付き合うということはあるのではないかと。二谷は決して芦川のことを対等に見ていないし、仕事もできないからばかにしているんですけど、「かわいい」と思っている。ちょっと怖いですよね。付き合っている恋人とかパートナーをちょっとばかにするような人の言動を今まで見聞きしてきたので、「でも、一緒にはいられるんだな」と不思議に思いながら、そんな関係性を書きました。

弱くて守ってもらえる女に“できる女”は負けるのか

——頑張って残業する“強い”押尾は二谷に気があって一緒にご飯を食べに行く関係になっていましたが、女性としては選ばれなかったので、“弱い”芦川に負けたということに?

【高瀬】押尾は二谷のような男性に選ばれなくてよかったと思いますよ(笑)。ちゃんとお互いに尊敬できて対等な関係をつくれる別のパートナーを捜したほうがいい。この会社の上司たちも芦川をかばう一方だったので、押尾が最後に下した決断も正解だったと思います。

——ここに出てくる男性の上司たちも古い体質の人が多いですね。男性社員が芦川の飲んだペットボトルを勝手に口にし“間接キス”してしまうというセクハラも描かれています。

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)
高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)

【高瀬】それも私が直接見たわけではないのですが、世間ではそういうこともあるらしいです。私が社会人になった12年前は、同級生たちが「早く結婚したほうがいいよ」と言われるなんて話はよく聞きましたし、自分たちが20代前半の頃はそういった発言に言い返せなかったんですよね。現在は少し改善されたとはいえ、まだまだセクハラはなくなっていないと思います。私も34歳になり経験を積んだので、自分より若い人がそういう目に遭っている場合は、「そういうことは言わないほうがいいですよ」と横から言うようにしています。

——高瀬さんが前に書かれた2作はまた違う題材でしたが、本作の会社員生活の描写がとても面白かったので、また会社の話を書いてもらえたらうれしいです。

【高瀬】ありがとうございます。次の作品は職場を舞台にするかはわかりませんが、世の中に会社員として働いている人は大勢いるので、登場人物が会社員という設定は今後も出てくると思います。「この人の会社はどんなところなのかな」ということを考えながら、これからも書いていきたいです。