数十年来の親交のある隣人が、「物盗られ妄想」で怒鳴り込んでくるようになった。どう対応すればいいのか。天台宗の僧侶、髙橋美清さんは「いくら昔は良い関係だったとしても、こじれてしまった縁に対する執着心は、捨てたほうがいい。私は『縁切り』の儀式を提案した」という――。

「縁」には「良縁」と「悪縁」がある

私たちはよく「ご縁」という言葉を口にします。人にも物にも使えますし、「ご縁がありますね」と言えば人間関係が丸く収まったりもする便利な言葉だと思います。

天台宗僧侶の髙橋美清さん
天台宗僧侶の髙橋美清さん(撮影=プレジデントオンライン編集部)

一方で、縁には「悪縁」というあまり好ましくない縁もあります。これを断ち切ることを「縁切り」と言います。

私の元にも、さまざまな縁切りを望む方がいらっしゃいます。一番多いのは、付き合っている男性と、暴力を振るうなどの理由から別れたいと願う女性からの依頼。親御さんから、「うちの娘が付き合っているボーイフレンドに問題があり、いくら忠告をしても親の言うことを聞かないので縁を切ってほしい」といった依頼もあります。

若い時分の恋愛は、頭に血が上ってしまい、親からのアドバイスがなかなか聞けないもの。ところが、私のような第三者がそこに入ると、事態を客観視できるようになるのか、娘さんも冷静になって話を聞いてくれるようになったりします。

とはいえ、縁切りが望まれる場面は、恋愛関係に限ったことではありません。

人が変わってしまったお隣さん

以前、京都の古い町並みに住む方からこんな依頼がありました。

その一帯は昔から住んでいる方ばかりのエリアで、依頼者のAさんも、お隣に住む独り暮らしの年上の女性と何十年来のお付き合いがあったそうです。両家の境界にあるブロック塀は顔が出るぐらいの高さで、お互いに庭掃除などをしていて目が合うと挨拶をしたり、お互いの家を訪れて、お茶を飲みながら会話を楽しむような仲でした。

ところが、20年、30年……と時が流れ、お隣さんが80代に差し掛かったあたりから、異変が起きはじめました。

優しくていい人だったお隣さんが、なんでもないことで突然怒りだすようになったというのです。いきなり怒鳴りつけられて、「何か気に障ることでもあったのでしょうか?」と聞くと、「あんたの家はうるさい!」と言うのだそうです。

だけど、Aさんはいつもと変わらない暮らし方をしていて、特にうるさくした覚えはなく、騒音と言われても心当たりがありません。そのころから、「あれが気に食わない」「これが気に食わない」といっては、お隣さんがAさんの家の敷地に入ってきたり、家に上がり込んで苦情を言ったりするようになったそうです。

「物盗られ妄想」で怒鳴り込み

話を聞いていて、「もしかして、お隣さんは認知症が始まったのではないか?」と思いました。私にも似た状況の親戚がいて、後に「○○が盗まれた」といった、認知症の典型的な症状の一つである「物盗られ妄想」が始まったからです。

案の定、Aさんのお隣さんも、「ウチに置いてあった財布がない。あんたが取ったんだろう?」と言い出しました。物盗られ妄想です。最初のうちは、認知症の対応方法を調べて、「それは困りましたね」と共感し、一緒に財布を探したりしていました。しかし、家に上がり込んでくる頻度もあがり、その度に騒ぎ立てるので、自宅作業をしているAさんは仕事もできません。

遠くに住んでいる、お隣さんの息子さんに話をして、来てもらったこともありました。しかし、実際に母親がAさんの家に怒鳴り込んでいるところを見たわけではない息子さんは、身内びいきもあってかAさんの話に懐疑的。根本的な解決には至りませんでした。

「だったら、お隣さんの言動を録画しておいたら?」とAさんに話しましたが、彼女は優しくて、「昔はいい関係だったから」「本当は優しい人だから」と、なかなか思い切った行動ができない様子です。そのうちAさんも、気分が落ち込んで抑うつ状態になり、薬に頼るようになりました。やがて、家の窓を開けるのも怖いと思うようになったといいます。心身ともに弱っているところに、家まで来て騒ぎ立てるお隣さんをどうすることもできず、警察を呼んだこともあったそうです。

「いい人だった」思い続けると縁が切れない

引っ越すわけにもいかないAさんは、ひとまずブロック塀を高くしました。庭に出たとき、お隣さんと顔を合わせないで済むようにしたのです。お金はかかりましたが、一時的に気がラクになったそうです。でも、やはりAさんの気持ちはザワついたままでした。

高い塀があって、相手を目にすることがなくなっても、心の中の塀がないために、相手に対する思いが行ったり来たりしてしまうからです。

そこで、私がAさんのお宅にお邪魔して「縁切り」の儀式を行うことになりました。

家を建てる時に地鎮祭を行いますよね。土地の神様にその土地を使う許可をいただき、工事中に障りが無いよう工事の安全をお願いする儀式です。隣同士の縁切りの場合も、土地の神様にお願いをします。私はAさんとお隣さんの敷地の境界に塩とお酒をまいて「結界」をはり、彼女にこう伝えました。

「お隣のおばあちゃんはもう引っ越したものと思って、自分の心の中の思い出なども一切合切流し去ってください。今まで縁があってお隣さんと楽しい時間を送ってきたのだから、その時間に対しては『ありがとう』の気持ちを添えて送ってください」と。

酷なようですが、「あの人はいい人だったな」と思い続けるうちは縁が切れません。思いを持っていることが原因となって、縁が続いてしまうという結果になる。“因”が断ち切れないと“結果”が付いてくるのです。これが、「因果」です。

「雨とともに流れた」と考える

儀式を行った翌日、大雨が降って、私がまいた塩やお酒が流れてしまったそうです。「仏さまがあなたを見ていて、あなたの嫌な思いを雨ですっきり流してくれたんじゃないの? きれいごとを言うわけじゃないけれど、そう考えるとすっきりするでしょう?」と伝えました。

それを聞いたAさんは、完全に吹っ切れたわけではなさそうでしたが、以前よりは割り切った対応ができるようになったそうです。お隣さんから無茶なことを言われた場合は、自分で対応しようとせず、無視したり、警察や自治体の相談窓口などの第三者に対応を任せたりするようになったといいます。そしてそれから1年ほど経ち、いまではAさんもすっかり元気になっています。

縁切りの儀式を執り行うには、僧侶や神職の人が必要になります。しかし、一般の人であっても、できることはあります。それは、縁を切りたい相手と会わないこと、その存在を心に留め置かないこと。これが「縁切り」の基本です。

恋愛を例にとるとわかりやすいのですが、どんなに周りが「縁を切れ」と言っても、自分が見限らない限り、相手との関係は終わりません。それと一緒です。

今月のひとこと
今月のひとこと

Aさんはこれまで、隣に住んだ「縁」を大切にしながら、「四無量心しむりょうしん」を持ってお隣さんに接してこられました。それはとても尊いことです。

「四無量心」とは、「幸せに生きて行くために、常に4つの広い心を持って過ごしなさい」という仏教の教えのことです。4つの広い心は、「慈悲じひ喜捨きしゃ」を指します。

持つべき4つの心のひとつ目は、「慈」の心です。親が子を思うように利害損得を離れて和やかに接しなさいという意味です。ふたつ目は「悲」の心。ここには、悲しい思いやつらい思いをしている方がいたら、その立場になって考える思いやりを持ちなさいという意味があります。

3つ目が「喜」で、相手が喜んだり、楽しんだりしている時に、ともに笑い合える温かな心を持ちなさいという意味。4つ目の「捨」は、他人の失敗を笑ったり、成功や楽しんでいる様子をねたんだり、誰かに何かをして見返りを求めたりするような、執着心を全て捨てなさいということです。

相手のつらいことや悲しいことはともに引き受け、自分の喜びは分かち与える。これが本当の慈悲の心です。慈悲の心を持った人が増えれば、誰もが幸せに生きられる明るい世の中になることでしょう。

しかし、人間関係は時を経るにつれ、変わってゆくものです。一時は「慈悲喜捨」の心を持って接することで、よい関係が築けていたとしても、自分を攻撃してくる人を、無理に受け入れる必要はありません。こじれてしまった縁に固執することで、自分の人生に支障を来すのはもったいない話です。

四無量心のうちの「捨」は、本来は、ねたみやそねみの気持ちを捨てるという意味です。しかし、自分を守るためにも、こじれてしまった「縁」に対する“執着心”は捨て、これまでのご縁に感謝しながらも、離れる勇気を持っていただきたいと思います。