「女性が多い職場」で生じる人手不足
「初めて保育業界に入ったとき、圧倒的な課題として感じたことは、女性が多い職場であること。一般企業であれば、女性社員が妊娠や出産などで休むときは、男性社員や若い社員がカバーしますが、女性ばかりだとそれができない。子育て中の女性が多いと、ふだんの業務も時間帯によっては、どうしても人が足りなくなってしまうのです」
そう話すのは、社会福祉法人風の森を統括する野上美希さん。自身は工学部出身の典型的なリケジョ。大学卒業後はシンクタンクに約4年、人材紹介業に約6年務め、妊娠を機に、夫の実家の家業である学校法人野上学園久我山幼稚園の経営に参画した。
参画後は小学生のための民間学童や幼稚園の預かり保育の充実、さらに社会福祉法人を立ち上げ、認可保育園を開園した。2園開いたところで、外資系IT企業の営業として働いていた夫の巌さんも経営に加わり、現在6園を運営している。
「子育てしながらやれる仕事ではない」と多くの人が考えている
IT業界に長くいた巌さんは、保育業界の人手不足の原因は、働き方にあると考えた。
「保育の仕事は、その場にいないと成り立たない仕事ですから、先生自身の子どもが熱を出したからといって、リモートワークで対応しようとか、来週はちょっと頑張ろうといったフレキシブルな働き方ができません。でも子どもがいれば、突発的なイベントが起こるのは当たり前。そういうときに園としてこまかくバックアップ体制をとらないと、先生同士の人間関係がギスギスすることになってしまいます」
残業が多い、休憩がとりにくいという環境は、もともとの業界の課題としてあった。
「先生たちは事務仕事で残業することもありましたし、行事の前は残って準備することも多かった。なにより日中は、子どもといっしょに給食を食べて休憩もとらず、そのまま事務仕事をして……と、ノンストップで働く先生がほとんどでした。保育というのは、一人の保育士が何人もの子どもに関わりながら、一人ひとりの興味関心を探ったり、安全管理をしたり、ずっと気を張って過ごす仕事です。そこで休憩がないと、どうしても疲れてイライラしてしまう……。先生自身のメンタルの状態は保育に大きく関わるので、そこは改善しなければいけないと感じました」(美希さん)
大人だけの職場なら、ある程度、自分で息抜きの時間をとることができるが、保育の現場では、ちょっと目を離したすきに子どもがケガをすることがあるため、気を許せる時間が少ない。
しかしながら、休憩がなかなか取れないことは常態化していて、それが問題であることすら気づいていない保育士も多かったという。
「そういった働き方を続けていくと、やはり自分のライフチェンジのタイミングで挫折してしまうんです。子育てをしながらやれる仕事ではない、と産後は退職したり、パートに切り替えて勤務時間を減らしたり、そういった働き方にシフトせざるを得ないんですね」(美希さん)
頼りにしていた園長の退職
美希さんが働き方改革の必要性を痛切に感じたのは、立ち上げから一緒にやってきた保育園一園目の園長が辞めていったときだったという。
「すごく信頼して、二人三脚でやってきた職員でしたが、ご縁があって結婚して、すぐに妊娠しました。妊娠中は何とか頑張っていましたが、いよいよ出産となったときに、やはり子育てしながら園長という責任のある仕事はできない、と辞めてしまったのです。そのときに私たちは、園長であろうと、一スタッフであろうと、働き続けられる組織にしていかないといけないと痛感したんです」
実は園長が出産を機に辞めるのは「業界あるある」だという。
「どうやら、2011年に起こった3.11の東日本大震災の時に保育士をしていた方は特に心配されていることがわかりました。わが子を迎えに行かないといけないというシチュエーションで、園長は園児の親全員が迎えに来ないと自分は帰れない。そういった大きな事件や事故があったときに、園長は絶対に外せないとなると、真面目で責任感のある人ほど、子育てしながらではできないという結論になります。ある意味、誠意ある発想ですが反面、そのためにすべてのキャリアを捨てるのはもったいないということもあって、我々としても、そこの課題にしっかりと向き合わないと、業界として発展していかないと強く感じました。子どものいる園長は、保護者の気持ちがよくわかるなど強みがたくさんあるのに、そこで辞めてしまうのは損失ですから」(巌さん)
まず国基準の1.5倍に人員を増加
これらを改善するには、人を増やすしかない。まず保育士の人数を国基準の1.5倍まで引き上げた。
「人を増やしたことで、全員が休憩をとれる、残業をしない、有休がとれる状態に変わっていきました。特に休憩室はカフェっぽくして、子どもと接しない休憩時間を60分しっかりとるようにする。お昼に休憩をとるようになって、先生たちは『午後、全然疲れない』と言いますね。休憩中に仮眠をとる先生も多いですが、それだけで午後の生産性が格段に違ってくるようです」(美希さん)
もちろん園長もスタッフと同じように働き、同じように休む。そうした働き方改革を進めていくうちに、スタッフに大きな変化が見え始めた。
元園長たちの“経歴隠し”が判明
「なんと『実は前の園では園長でした』という輝かしいキャリアを隠してしまう先生が複数いたんです(笑)。ふつうなら『マネジメントやっていました』ってアピールしますよね。我々も新園を立ち上げる時は、必ず新しい園長をアサインしますが、園長をやっていたと言ったらやらされるリスクがあるから、園長経験があっても、それをひた隠しにしていたんです。それぐらい園長は負担が大きいと敬遠されていた。
でも実は、園長でなければできないとされてきた仕事も、教えればできるものが多かったんです。園長の仕事も、一スタッフの仕事も、その多くを同列に扱って見直しをしたことで、だったら園長をやってもいいと思ってもらえるようになったのかなと思います」(巌さん)
非常時には子どもがいる人が優先的に帰れるシステムに
さらに非常時の「帰れるリスト」も作成した。
「非常時には、園長もスタッフも立場に関係なく、子どものいる人は優先的に帰れるリストをつくりました。それで子どものいない人から不満が出るかなと思ったら、意外にない。一般企業では、子どものいる人は定時に帰り、若い人は夜遅くまで働きがちですが、ここではふだんからみんなが同じように働いて、若い先生にも残業はさせません。平時に割を食っているという実態がないので、非常時は助けてあげたいと思ってもらえるようです」(巌さん)
若いうちは残業も厭わず働き、子どもができるなどライフスタイルの変化によって働き方を変える方法では、「長時間働ける人」に業務のしわ寄せがいって不公平感が生じる。野上さんたちは、長時間働ける若手にも同様に残業を禁じることで、不公平が出ないようになった。また若い先生たちは、豊富なプライベートの時間を使い、ダンスや役者、ベビーシッター、英会話講師など、副業に励む人も多く、それが保育の仕事にも活かされているという。
事務仕事のICT化で生産性をアップ
働き方改革のもう一つのカギになったのが、ICT化による生産性の向上だ。
「保育士は、とにかく事務仕事が膨大。連絡帳をはじめ、子ども一人ひとりの午睡チェックや行事記録、会議録など、ありとあらゆる書類の提出を要求されるため、その書類づくりが際限ないんです。これらを手書きでやっていたところをパソコン、タブレット、スマートフォンで入力するようにして生産性を高めていきました。それだけでなく、保育士とは別に事務の職員を配置したことで、先生たちへの負担が大幅に減りました」(美希さん)
国基準の1.5倍に人を増やすことと事務仕事のICT化の両輪で、働き方改革に取り組んだことが功を奏し、これまでの課題のほとんどが改善されたという。
しかし、どの業界でもそうだが、大改革には必ず抵抗勢力があらわれる。
「休憩して生産性を高めて残業なしにしましょうというと、最初のうちは、ベテラン先生の中には『休憩を入れずに自分のペースでやりたい』という人もいましたね。またうちは連絡帳のアプリ化をわりと早く導入して、とてもよかったので、杉並区の園長会で勧めたら『そんなのを入れて、親がもっとスマホを見るようになったらどうするんだ』と。なるほど、そういうことまで考えるんですねと思いました」(巌さん)
ベテラン先生にしろ、他の園の園長にしろ、いずれも徐々に改心する人が多かったという。新しいやり方を取り入れることで、目に見えて生産性が上がってきたからだ。
独自の手法で人員を2倍に引き上げ
さらに2年前には、人数を国基準の2倍まで増やした。
「保育の質を上げるには、子ども一人ひとりについて、その子にどんな課題があり、そのためにどう環境を整えるか、といった先生同士の話し合いが非常に重要ですが、1.5倍だと、どうしてもそこに時間が割きづらくて。2倍まで引き上げることで、そういう時間がとれるようになりました。すると先生たちが、前向きに保育をとらえるようになり、保育の質が格段に上がってきたんです」(美希さん)
気になるのは人件費だ。いったいどうやって捻出しているのだろうか。その方法は、いくつかあるという。
「まず事務作業にかかっていたコストをICT化で圧縮することで、その分を人件費に回します。そして補助金ですね。東京都のキャリアアップ補助や杉並区の採用加算など、自治体が用意している補助金をしっかりと請求する。さらにプラスアルファで事業をやっていくことです。たとえば小学生の職場体験や産前産後の親の支援等、補助金が出るので、教育プログラムとして予算を組む。中高生のボランティアの対応にも力を入れています」(美希さん)
工夫次第で人件費は、まかなえるということだ。ならば、どこの園でもできそうだが……。
「そもそも採用できないというケースが相当多いと思います。我々は開園当初から働き方を改革していき、それをうまく発信していったことで『働きやすい園で働きたい』という方に定期的にご応募いただいてきました。業界全体としては、人手不足ですが、ありがたいことに、うちはその点では全く問題ありません。採用については、年々楽になっているという感じですね」(巌さん)
2022年の採用倍率は、新卒が7.4倍、中途は13倍
「やはり保育士になる人は、子どものために保育をしたいという気持ちが強い人が多いんです。でも、ぎりぎりの人数だと、大人主体の保育になったり、保育以外の業務に忙殺されたりして、保育が楽しめなくなってしまう人が多いようです。ですから、うちに中途で入った人からは『初めて保育を楽しめています』『子どもたちをもっと伸ばしてあげたい』など、仕事に対して意欲的な声がよく聞かれます」(美希さん)
その結果、産休・育休後の復職率は2年連続100%だ。
新卒は月給24万円+家賃補助8万2000円+ボーナスの待遇
保育業界は採用だけでなく、賃金が低いという問題も考えられるが、実態はどうなのだろうか。
「うちの月給は大卒で24万9000円、短大卒で24万2000円。これに東京都から8万2000円の家賃補助が出ます。またボーナスも年3カ月分。年度末にも業績によって別途ボーナスが出ることがありますし、定昇として毎年何千円かずつ上がっていきます。決して高い金額ではありませんが、一般企業に比べて安いこともないのではないでしょうか。
以前は給与もこれより5万円ぐらい少なく、家賃補助もありませんでしたが、だんだんと処遇改善されて、ようやくここまできました。大手企業の部長の給料まで上がることはありませんが、現場職の給与として見たときに、家賃補助込みとはいえ33万円が毎年数千円ずつ上がっていくことを考えると、給与が安いから敬遠する仕事でもないかなという気がします。頑張れば、ちゃんと安定した生活があって、子どもが育てられて、という給料はもらえるわけです」(巌さん)
これが、「正社員は残業が前提」という働き方が残っていると、やむなくパートに切り替えるなどで待遇がおのずと下がることになる。残業なし、休憩あり、有休がしっかりとれることが「正社員の当たり前」となっているからこそ、フルタイムで働き続けることができ、この待遇が維持されていく。
資格保有者の3分の2を占める「潜在保育士」
「働き方改革に真剣に取り組めば、保育士にとっても、法人にとっても、よい結果が待っている」と美希さんはいう。
「今、保育士登録をしていながら働いていない“潜在保育士”といわれる人が、資格保持者全体の3分の2もいます。3分の2もの保育士さんが、この業界では働けないと思っているわけです。この3分の2が戻ってきてくれれば、採用の課題がなくなる。業界全体としてはボトムアップしていけると思っています」
日本の未来をつくる大事な仕事だからこそ、保育業界の働き方の見直しは急務ではないかと、美希さんは力を込める。
「私たちは今後、障害児など特徴のある子の受け入れにもチャレンジしていきたいと考えています。待機児童問題の次の段階、一人ひとりの子どもにとっての保育の質を上げていく段階を力強く進めていきたいと思います」