心の支えだった3匹との別れ
身近な人との永遠の別れはつらいものです。それが、大切な存在であればなおのこと。家族同様に暮らしたペットとの別れも耐えがたいほどつらく、それをきっかけに心身の調子を崩してしまう人もたくさんいます。
私自身も15年間、家族のように暮らしてきた犬を、2020年から翌年までの1年で立て続けに3匹亡くしました。もちろん、悲しみ、涙はこぼしましたが、ペットロスにはなりませんでした。
3匹は、「みるく」という母犬と、彼女が1歳の時に産んだ息子の「ちょこれーと」と娘の「みんと」です。彼女たちは、私がひどいネット中傷に遭って心がすりつぶされるような思いをしていた時も、それが原因で周りの友人や知人が離れていってしまった時も、いつも変わらず私のそばにいてくれました。その存在によって、どれだけ癒やされ、どれだけ救われたことか、言葉で言い表すのは難しいぐらいです。私にとっては本当に家族同然の存在でした。
しかし、犬を飼ったことがある方ならお分かりかと思いますが、ある時期を越えると彼らは急激に年を取るんですよね。あんなに元気で走り回っていたのに、10歳を越えたあたりから急に元気がなくなってしまって。
その日のみるくは具合が悪く、毛ヅヤも何だかよくありません。心配になった私は彼女を病院に預けることにしました。
「虫の知らせ」のあと急変
みるくを置いて病院を去る時には、「元気になって、早く家に帰ろうね」と、声をかけました。
翌日、夕方に病院に迎えにいくことになっていたのですが、虫の知らせがあり、早めに迎えに行こうと車に乗り込んだんです。不思議なことに、そのタイミングで獣医師からみるくが急変したと連絡がありました。病院に駆けつけると、そのままみるくはすーっと息を引き取りました。15歳でした。
あの温かくて、かわいくて、いつも味方をしてくれていた存在が、突如失われてしまう――この喪失感は大きいです。心に穴が空くといいますが、この時の心境はまさにそれでした。みるくを車に乗せても涙しか出てきません。
始まるのは「もっと早く気付いてあげればよかった」「もっとああしてあげたらよかった」といった後悔です。そして、自分を責めてしまう。
みるくのためにも、苦しまない
ペットを失ったことがある方ならどなたでも、似たような経験をしたことがあると思います。しかし、自分を責め続け、そこから抜け出せなくなってしまっては、それこそペットロスになってしまいます。飼い主の心身に何かしらの影響が出て、長く苦しむことは、15年間過ごしたみるくとの時間を否定することになるのでは――? そう思い、みるくのためにお経を唱え、見送るときには次のように話しかけました。
「みるくはかわいくて、とっても大事な存在だった。してあげられなかったこともあったかもしれないし、後悔がないわけではないけれど、お母さんはみるくのことを精いっぱい頑張ったよ。15年は大往生だよ。よく頑張ったね。あなたに会えてよかったです。ありがとう。もう泣かないからね」って。
いなくなった悲しさを伝えるのではなく、15年生き抜いたことを、声に出して褒めてあげたんです。子供たちの面倒をよくみて、私の不在時に留守番もしてくれて。人間には機嫌のいい悪いがありますが、みるくはいつも変わらず私のことを見守ってくれたわけですから。
思い出を「喪失感」ではなく「感謝」の箱へ
もちろん、今でも折に触れて涙は出ます。けれど、つとめて今まで通りに暮らしています。ほんの少しみるくの毛を切らせてもらって、それをビニール袋に入れて、お骨の上に置いて。「今日はこんなことがあったよ」「姿は見えないけど見守ってね」と、生きていた時よりも頻繁ではないかというくらい、普通に話しかけています。
たまに、「ペットのお骨はいつまでそばに置いておいてもいいんでしょうか?」と聞かれることがありますが、そこに明確な決まりはありません。3年でも、5年でも、飼い主の心の切り替えができるまで、そばに置いたらいいと思います。
そして、少しずつ「喪失感」という名の箱に入っていた思い出を、「感謝」の箱に移し替えていきましょう。いきなり感情を切り替える必要はないんです。
ほかの2匹が「喪中症」に
実はみるくが病院で急変した時間、家でちょこれーとが遠吠えしたんです。言葉を持たない者の直観だったのでしょうか。その時、私にも「みるくはもうだめなんだな」と分かりました。
そしてみるくが亡くなった日から、今度はちょこれーとの具合が急激に悪くなっていきました。病院に連れて行くと、先生から「喪中症です」と告げられました。飼い主や家族を喪ったペットが、悲しみのあまり食事もとらなくなり、衰弱することを指すそうです。極端なケースでは死に至ることもあるといいます。
とうとう、ちょこも動けなくなるほど衰弱してしまいました。ところがある日、ふと顔をあげてシッポをバタバタと振ったんです。その時も私は、「みるくが迎えに来たんだな」と思いました。その後、ちょこは静かに倒れて、私が頭をなでながら「よく頑張ったね。もう頑張らなくていいよ」と話しかけると、そのまま眠るように逝ってしまったんです。
いつも一緒にいた母と兄を失ったみんともパニックになり、ほどなくして亡くなりました。具合が悪くなり、病院に連れて行った時、彼女も喪中症だと言われました。
もし、みるくがいなければ、私はその獣医師さんと出会うこともありませんでしたし、「喪中症」という言葉も知らないままだったと思います。そして、喪失感から抜けられないままでいると何が起きるかを、知ることもなかったでしょう。
少しずつ受け入れていけばいい
こうして、3匹の犬が私の元から旅立っていきました。私は犬たちの一生を通して、「生老病死」を学びました。これも仏教の大切な教えの一つで、避けることのできない、生きること、老いること、病気になること、死ぬことという4つの苦しみを指します。
深い悲しみを味わいましたが、今はお供えのお水を換えるたび、「今からお仕事に行ってくるよ」「今度はこの新入りの子を守ってあげてね」などと話しかけています。縁があって15年一緒に居た家族ですから、姿は見えなくても近くにいて、私のことを見守ってくれていると思うからです。
いきなりスパッと、亡くなったペットの存在を切り捨てる必要はないと思います。生きていた時と同じように会話して、そこから少しずつお別れを受け入れる心の準備をしてもいい。
うちは檀家を持たないお寺ですが、お葬式の依頼を受けることがあります。そこでお話しするのが、「お葬式は亡くなった方を送る儀式だけど、残った私たちの心の区切りをつける儀式でもある」ということ。喪失感が一生消えない傷にならないよう、みんなで集まり、故人の話をして、お互い支え合っていきましょう、と。
仏教葬は、とてもよくできていると思います。葬式や初七日があって、四十九日の法要があり、一周忌、三回忌、七回忌と続きます。そういった場に伺うと、遺族の方のお顔や雰囲気が時間の経過で変わっていくのがよく分かります。まさに、時間が薬になって癒やしてくれる「時薬」です。
今月のひとこと
仏教には「共生」という言葉があります。この言葉には、人間だけでなく、すべての生きとし生けるものについて、ご縁があって一緒に生きた時間を大切にしましょうという意味があります。たとえ姿かたちは見えなくても、あなたのペットはきっと近くでみてくれているはず。その時、悲しい顔ばかりしていたら、彼ら・彼女たちも心安らかでいることはできません。
鏡を見て、あなたの一番いい顔で過ごしてみてください。そして、時に感謝の言葉をかけてあげてください。きっと、困りごとが起きた時に助けになってくれるはずです。