「秋篠宮殿下に最も近いジャーナリスト」
ジャーナリストで毎日新聞客員編集委員の江森敬治氏が先頃、『秋篠宮』(小学館)を刊行された。江森氏は現在、秋篠宮殿下に最も近い位置にいるジャーナリストと見られている。
同氏の奥様が学習院大学経済学部の副手を務めていた頃、秋篠宮妃紀子殿下のご尊父、川嶋辰彦教授(当時)の研究室で資料整理の手伝いなどをしていた。その関係で、奥様は紀子妃殿下が秋篠宮殿下と結婚される前から顔見知りだったという。同氏と奥様の結婚の際にも、川嶋教授に仲人を依頼していた。
その後、江森氏が初めて秋篠宮殿下にお会いしたのは平成3年(1991年)で、それ以来、30年以上にわたって交流があるという。
私は随分前に、皇室をテーマにした雑誌の座談会で江森氏とご一緒した記憶がある(文藝春秋から出ていた月刊誌『諸君!』だっただろうか)。
このたび、出版社から本書を恵送いただいて、ただちに読了した。大きな反響を呼んでおかしくない企画だ。何しろ、平成29年(2017年)から令和4年(2022年)にかけて合計37回も、直接、秋篠宮殿下ご本人に取材を重ね、殿下の「本音」を引き出したというのだから。
しかし残念ながら、いささか期待外れの印象が強い。
おもな不満は2点ある。その1点は、せっかく“特権的に”数多くの取材の機会を与えられながら、お尋ねすべき重要な事項について、真正面からご真意に迫る姿勢がいささか弱いこと。2点目としては、取材や執筆に際して、あらかじめ十分に詰めておくべき関連知識の整理が手薄に感じられることだ。
即位するつもりがあるなら、取材は受けなかった
それはともかく、このような書物が刊行されることは、僭越ながら私がかねて推測している「秋篠宮殿下は即位されるおつもりがない」との見通しを、あらためて裏づける事実だろう。なぜなら、他の一般皇族と違って、次の天皇になられるべき方であれば、個人的な人間関係はともあれ、特定のジャーナリストの取材だけを特権的に受け付けたり、ましてその取材内容が今回のような形で公刊されたりすることは、「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」とされる天皇の地位が“最大限の公共性”を帯びる事実に照らして、差し控えられるのが常識的判断だと考えられるからだ。
やはり即位されるおつもりはない
現に、平成29年(2017年)12月、江森氏が「皇嗣(その時点で皇位継承順位が第1位の皇族)就任の儀式」(立皇嗣の礼)を行った方が良いという政府の考え方について尋ねると、「『どうでしょうかね』彼(秋篠宮殿下)は考える振りを見せた。だが、明確な回答はなかった」(37ページ)という。
また、平成31年(2019年)2月に同氏が「(同年=令和元年)5月から皇嗣殿下となられます。皇嗣殿下としての心構えや決意を教えてください」という、普通に予想される質問をした時、秋篠宮殿下は「『うーん』と、しばらく考えていたが、求めていた答えは返ってこなかった」。重ねて質問をしてやっと返ってきた回答は、「象徴天皇制を担うのは、あくまでも天皇であり、私は兄を支える、助けることに徹するのではないでしょうか」(128~129ページ)というもの。
こうした答え方は、ご本人が自らの即位を考えておられないことの表れではないだろうか。
天皇陛下よりわずか5歳お若いだけの秋篠宮殿下が、ご高齢での即位辞退のご意向を示されたと報じられたのは、この取材の2カ月後だった(朝日新聞デジタル、平成31年〔2019年〕4月20日20時20分配信)。しかし、その後の取材でも、この報道の真偽や殿下ご自身のご本意について、江森氏がストレートにお尋ねした様子が見えない。
秋篠宮殿下が、「皇太子(皇太弟)」という“次の天皇になられる”ことが確定している地位を示す称号を辞退され、その時点で皇位継承順位が第1位であることを示す一般的呼称にすぎない「皇嗣」を名乗ることになり、「秋篠宮」という傍系の皇族であることを示す宮号をあえて維持された事実も、即位されるお考えがないからこそ、と受け取れる。しかし、同氏はその点について「宮内庁関係者」に質問したのみで(132ページ)、殿下ご本人には直接、質問をぶつけていないようだ。事柄の重大さを考えると、少し不思議な気がする。
いずれにせよ、この本を読むかぎり、私の推測を訂正しなければならない理由は見いだせなかった。
第1章に、眞子さまのご結婚をめぐる内幕
一般の読者が最も注目するのは、秋篠宮家のご長女、眞子さまと小室圭氏のご結婚をめぐる“内幕”かもしれない。本書でも、そのテーマが第1章(!)に据えられている。
秋篠宮殿下の基本的なお考えは「憲法には『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する』と書かれています。私は立場上、憲法を守らなくてはいけません。ですから、2人が結婚したい以上、結婚は駄目だと言えません」(24ページ)ということ。このことは、すでに公表されている殿下の記者会見の内容からも知られていた。それ自体は至ってまっとうなご姿勢と言える。
ただし、当事者の気持ちが最優先されるべきことはもちろんであっても、お2人のご結婚に対してご両親が(促進的であれ、その逆であれ)一切タッチできない、ということではなかったはずだ。
明らかになった、父と娘の行き違い
平成29年(2017年)5月16日のNHKのご婚約内定をめぐるスクープについて、秋篠宮殿下ご自身のリークという報道があった。これについて江森氏が秋篠宮殿下にお尋ねしたのに対し、キッパリと否定された上で「できれば、早く訂正したいですよ」(31ページ)とおっしゃった。
だが、宮内庁を通して訂正を申し入れられた様子はなく、スクープ通りご婚約内定の記者会見が行われた(同年9月3日)。こうした経緯は、いささか釈然としないものを感じさせる。
平成30年(2018年)4月より前の時点で、秋篠宮殿下は週刊誌が報じた小室氏のご母堂をめぐる“金銭トラブル”なるもの(ご母堂の元婚約者という人物は後に「貸したお金ではなかった」と認めたようだ)について、小室家の責任で解決するように求めておられたという。
「2人の結婚は、国民に祝福してもらえる結婚でなくてはいけません。そのためには、小室家側がきちんと説明し、国民に納得してもらう必要があります。今のままだと(一般の結納に当たる)納采の儀は行えません」という考え方だ(49ページ)。しかしその時点で、果たして小室母子だけで“火消し”できる状態だったかどうか。
結局、その難しい“宿題”に解決の糸口が見えないまま、小室氏から海外への留学の意向が伝えられる。これに対し、秋篠宮殿下は「どうするのだろうと思って……」(51ページ)と途方に暮れられたようだ。
しかし、その海外留学は眞子さまが小室氏に強く求められたことだった。それは、令和3年(2021年)10月26日のお2人の婚姻届けが提出された後の記者会見で、明らかになった。
同じ宮邸に住んでおられた父と娘の間に、どうしてこのような行き違いが生じたのだろうか。今回の顚末が結果的に、秋篠宮家だけでなく、天皇陛下にもご迷惑を及ぼし、皇室そのものに寄せる国民の信頼と敬愛の気持ち損ないかねない事態を招いてしまっただけに、残念でならない。
江森氏の“奇妙な私見”
本書では、天皇や皇族方の人権や自由について、問題提起を試みている(第5章)。これはもちろん大切なテーマだ。しかし、憲法をめぐる基礎的な学説整理をしないまま、特定の憲法学者(故・奥平康弘氏)の意見だけを振り回しているように見えるのは、残念だ。これについて、機会があれば私なりの整理の仕方を披露したい。
それよりも、憲法について秋篠宮殿下のお考えを紹介しつつ、奇妙な私見を開陳されているのが、気になる。
憲法に関する初歩的な“誤読”
〈天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う〉
彼(秋篠宮殿下)は憲法99条を踏まえながら、私にこのように話したことがある。
『皇族は天皇に準じる立場なので、この条文通り、憲法を尊重し擁護しなければなりません』
この言葉を聞いて私の頭は、すかさず反応した。ということは、首相や大臣たち、それに国会議員たちは『憲法を改正します』と、軽々しく発言してはならないはずだ。逆に、『私たちは憲法を守ります。改正はしません』と、国民に対して宣言すべきところなのではないか(229ページ)
これは、憲法改正に賛成か反対か、改正するならどんな改正か、という政治的立場には関わりなく、憲法条文の初歩的な“誤読”と言うほかない。
憲法の尊重擁護義務というのは、当たり前ながら、憲法「改正」条項(第96条)も含めて“尊重し擁護する”ということ。だから、憲法改正条項に定める要件を逸脱した場合はもちろん許されないが、そうでなければ「改正はしません」という立場とは直接、結びつかない。
それどころか、憲法の改正は、衆参両院の3分の2以上の賛成で、「国会」が「発議」することが求められている(同条第1項)。そうであれば、「国会議員」が憲法改正に関与することは、憲法それ自体の“要請”ですらある。
天皇およびそれに「準じる立場」の皇族が憲法改正に関わることができないのは、第99条に抵触するからではない。そうではなく、何よりも「国政に関する権能を有しない」(第4条1項)からであり、さらに「日本国民統合の象徴」(第1条)たる地位にふさわしくないからに他ならない。
この本には、政治的偏向に基づくと思われるこの種の的外れな記述がやや目につく。思想・信条はもちろん書き手の自由だ。しかし、そのことが殿下への取材の仕方や、ご発言の受け止め方、取材内容の取捨選択などに何らかのバイアスをもたらしていないか、少し心配になる。
近頃刊行された皇室関係の図書では、成城大学教授・森暢平氏の『天皇家の恋愛』(中公新書)の方がよほど有益だろう(もちろん、その立論にすべて賛同するわけではないが)。