梱包材としてはもちろん、名刺入れやおもちゃとしても人気の「プチプチ」。杉山彩香さんは、入社時には業務用資材に過ぎなかった商品の可能性を広げ、次々とヒット作を送り出してきた。課長からいきなり取締役に抜擢された経緯とは――。

※プチプチ、はぁとぷち、プッチンロール、プッチンスカットは川上産業の登録商標です

「図々しい」と言われた若手時代

杉山彩香さんが、「プチプチ」で知られる川上産業に入社したのは21歳のとき。以来、ECサイトの立ち上げや新商品の開発、「愛・地球博」への出展、他社とのコラボレーションなどに取り組み、業務用資材のひとつに過ぎなかったプチプチの可能性を大きく広げてきた。

写真提供=川上産業
川上産業 常務取締役 杉山 彩香さん

現在は常務取締役として、全国約500人の従業員を牽引する立場だ。課長、取締役、常務取締役、工場長と、これまで就いたポジションはすべて「女性初」だった。老舗メーカーとあって、特に製造現場である工場は男性が多い。そうした環境の中で、どうキャリアを築いてきたのだろうか。

「若いころは図々しい言われたこともありました。生意気と思われていたと思います。でも、確かにその通りだなと思います。反省はしてもあまり気に病んだりはしませんでした。思ったことをすぐ行動に移すタイプで、そうやって何かを本気で形にしようと思ったらノイズが聞こえてくるのは当たり前。それが刺激や成長の元にもなっていました」

該当職種の社員募集をしていなかったのに応募し即採用

短大卒業後は、在学中に始めたWebデザインの仕事をフリーランスとして続けていたという。だが、1年ほどたったころ、ディレクションやプロデュースもやってみたい、組織に所属してみたいという思いが募り、就職先として「自分が知っているモノをつくっていて、まじめそうな会社」を探し始めた。

杉山さんのLIFE CHART

川上産業の名は、商工会議所の会員企業一覧で見つけた。プチプチの製造販売という業務内容に興味を持ち、さっそく公式サイトをチェック。これならWebデザインの経験でお役に立てるかもしれないと考え、該当職種の社員募集をしていなかったのにも関わらず、すぐに応募のメールを送った。

メールでの応募は同社初のことだったそうだが、結果は即面接からの即採用。入社後は社長室に配属され、秘書業務のかたわら公式サイトの制作を担当することになった。

個人向けプチプチ発売へ

当時の社長は創業家の2代目。1994年に、それまで「エア・バッグ」だった商品名を「プチプチ」に変えて商標登録した人物で、大変なアイデアマンだったという。

「商品名を変えたときは、社内のベテラン社員から『プチプチなんて恥ずかしくて口に出せない』と反発の声が上がったと聞いています。でも、商品が一般の方々にも認知されるようになったのは、このネーミングがあったからこそだと思います」

プリプチ文化研究所所長としても活躍している
プリプチ文化研究所所長としても活躍している(写真提供=川上産業)

2代目社長はその後も「プチプチの日」制定、プチプチの活用事例を集めた「プチプチ文化研究所」の立ち上げなど次々と斬新なアイデアを出し、杉山さんはその実行役になった。同研究所は立ち上げ時こそひっそりとした存在だったそうだが、今ではユーザーへの発信拠点として同社の看板的存在になっている。

キャリアに最初の転機が訪れたのは入社3年目のこと。自ら発案して、社内初のECサイト「プチプチSHOP」を立ち上げたのだ。ネットオークションの普及で、公式サイトに一般のお客様から「発送用にプチプチを少量だけほしい」といった問い合わせが来るようになり、それなら直接個人に販売できる場をつくろうと思い立ったのが始まりだった。

(左)つぶすためだけに開発された「プッチンスカット」(右)プッチンロールはミシン目があり、簡単に切り離せる。
写真提供=川上産業
(左)つぶすためだけに開発された「プッチンスカット」(右)プッチンロールはミシン目があり、簡単に切り離せる。

川上産業は、商品を企業に販売するBtoBで業績を上げてきた会社。個人に直接売るBtoCは初のことだった。営業担当者からは心配や反対の声があがったが、杉山さんは販売代理店の邪魔をするものではないこと、販売対象を個人に絞ることなどをしっかり説明して了解をとりつけ、ついに「プチプチSHOP」をオープンさせた。

これに伴って、新商品も企画開発した。プチプチを卓上サイズにして、切り離しやすいようミシン目を入れた「プッチンロール」、ミシン目で切り離すと小さなバッグ状にした「プッチンバッグ」、プチッとつぶす楽しさを味わうためだけの「プッチンスカット」の3種類を用意した。

社内で大型設備投資をどう説得したか

新商品のおかげで今まで直接リーチ出来なかった一般の顧客から直接意見が届くようになり、これを受けて数年後にはハート型の「はぁとぷち」も発売した。ただ、こちらは金型からつくらねばならず、多大な設備投資が必要だった。採算がとれないのでは? という声も上がったが、最初に発売した3種類の売れ行きが好調だったこと、購入者から好評の声が届いていたこと、今までほとんどなかったメディアからの取材実績が説得材料になった。

ラッピング用に喜ばれる「はぁとプチ」
ラッピング用に喜ばれる「はぁとプチ」(写真提供=川上産業)

「自分の主観だけでなく、売り上げやお客様の声という客観的事実を伝えられたのが大きかったと思います。本当に売れるのかと聞かれたときには、絶対売れますって言い切っちゃっていましたね(笑)。『このアイデアを先にライバル企業にやられたら悔しいですよね』とも言いました」

発売後、「はぁとぷち」は見た目のかわいらしさからチョコレートメーカーや化粧品メーカーでも採用され、自らの買い物時に目に触れるようになったほど世の中に拡がった。社内を説得し、工場と何度もやりとりしながら実現させた、最初の成功体験だった。

行動力が評価され「取締役課長」に昇格

次の転機が訪れたのはその翌年。「愛・地球博」内のものづくりパビリオンに出展が決まり、そのプロジェクトリーダーに任命されたのだ。チームメンバーは全国の事業所に散らばる若手社員を中心とした数十名。初めて経験する全社横断プロジェクトに、「私にできるのかな」と不安を覚えた。

「愛・地球博」内のものづくりパビリオンに出展したプチプチだけでつくられたプチプチハウス
「愛・地球博」内のものづくりパビリオンに出展したプチプチだけでつくられたプチプチハウス(写真提供=川上産業)

プチプチハウスは、野外に建設したプチプチだけで出来た家。建設は試行錯誤の連続で、本番までの過程では失敗もたくさんした。なかでも最大の失敗は、根回しに関するものだったという。

「メンバーは全員若手社員だったので、当然上司がいるわけですが、私はその上司たちに根回しするところまで頭が回らなかったんです。その結果、あちこちから『勝手に進めるな』ってクレームが入って……あのときは本当にたくさん怒られました」

だが、この失敗からは、組織の動かし方をはじめ、ディレクションやプロデュースに必要なスキルも学ぶことができた。そんな経験を生かし、翌年には社内外の知恵を結集してプチプチの活用事例をまとめた『プチプチオフィシャルブック』を発売。こうして杉山さんは、自らのアイデアを形にする経験を着実に積み重ねていった。

そして30歳のとき、いきなり取締役に抜擢される。それまでは課長だったため、与えられた肩書きは「取締役課長」。いかに飛び級的な昇格だったかがよくわかる。抜擢の理由は「今まで、これほど躊躇なく行動する人はいなかったから」と推測している。

33歳で常務取締役に

当時も今も、杉山さんのモットーは「まずやってみる」と「乗りかかった船は必ず最後まで乗り切る」。取締役への抜擢は、そうした信条と行動力が評価された結果と言えるだろう。

「驚きましたが、これまで通りやるべきことをやっていこうと、割と落ち着いて受け止めることができました。ただ、全国の事業所や工場を見る立場になるので、視点は高く持っておかなければ。その点にはプレッシャーを感じました」

中国古典を読むようになったのはこのころ。また、社員との間に距離ができないよう、対面で会話する、各々が抱える小さな問題にもしっかり向き合う、技術的にわからないことがあれば現場に直接聞く、といったことも心がけるようになった。

その後、33歳で常務取締役に就任し、30代後半には工場長や総務部長も兼務。実はいちばんしんどかったのは、この工場長時代だったという。製造工場は24時間フル稼働で、約60人いる従業員は男性が多く、年齢もバックグラウンドも違う人々が忙しさに追われながら働いているだけに想定外のトラブルも多かった。

工場現場にやってきた女性初の工場長

名古屋工場にて(写真提供=川上産業)
名古屋工場にて(写真提供=川上産業)

そこへ、女性初の工場長として赴任。

赴任先は最初が名古屋工場、次が栃木工場で、いずれも単身赴任だった。ミッションは、製造が需要に追いついていない現状を立て直すこと。不慣れな環境で、日々起こる問題を解決しながらモチベーションを上げるという難問に、心身をすり減らす日々が始まった。

「赴任したてのころは、私に立て直せるのかと、とても不安でした。でも、お客様に迷惑をかけないようきちんと製品を供給したい、現場の皆が疲弊せずに働ける環境をつくりたい、その一心でがんばりました」

毎日工場内を2万歩以上歩いた

「現場には当初、女性の工場長に立て直しなんて無理だろうという思いもあったのではないでしょうか」

だが、最終的には「意外にやるなと思ってくれたみたい」と笑いながら振り返る。

「製品を作って出荷する、という当社の源泉の部分に関われ、それを毎日あたり前のように取組んでいるみなさんからは逆に多くのことを学ばせていただきました」

栃木工場長時代
栃木工場長時代(写真提供=川上産業)

現場を立て直すうえで、いちばん大事にしたのは「鼓舞」だった。毎日2万歩以上も工場内を歩いて、現場の仕事が顧客や会社にとっていかに重要かを皆に伝えて回った。プチプチグッズが雑誌に載ればその誌面を見せ、商品に対する世間の反響をフィードバックするよう心がけた。

「あなたの仕事は重要だよ、認められているよって伝えることが大事だと思ったんです。中には、そういった声掛けでモチベーションが上がって仕事への取り組み方がガラッと変わった人もいました」

工場で皆と一緒に働いた経験は、その後の商品開発やマーケティングにも大きく役立った。原料と製品のバランスを考えて戦略を練れるようになったうえ、製造現場とのやりとりも仲間同士のようにスムーズに進むようになった。

仕事と同じくらいガッツリ取り組んでいる「ライフワーク」

キャリアを振り返れば、公式サイト制作から始まって、ECサイト開設、商品開発、広報、経営、総務、工場長と幅広い領域を経験してきた。30代後半には、2代目社長から3代目社長への事業承継もプロジェクトメンバーの一員として成しとげた。会社は、入社当時と比べると売り上げも社員数も約2倍に成長した。

持ち前の行動力は今も健在で、日々新しい刺激や出会いを求めて前進を続けている。社内外から新プロジェクトを持ち込まれることも多く、「動き続けているから声がかかるのかな」とうれしそうに語る。

動き続ける姿勢はプライベートでも変わらない。20代後半からずっと、日本を拠点にアジア各国にて11か国語を駆使した音楽ライブをするバンドのスタッフを務めてきた。彼らの音楽や活動に共鳴し、ときには海外ツアーにも帯同してきたという。

今月開催した音楽フェス
写真提供=杉山さん
今月開催した音楽フェス

こうした活動は、今では中国や東南アジアにおける音楽交流プロジェクトにまで発展。杉山さんはそのまとめ役の1人であり、近年では日本で開催されるベトナムフェスティバルやチャイナフェスティバル、中国や東南アジアでの各都市で開催されるはジャパンフェスティバルの実行委員も務めている。

「アジアに関する活動は私のライフワーク。仕事と同じぐらいガッツリ本気で取り組んでいます。それぞれが互いの原動力にもストレス発散の場にもなっていて、私にとってはどちらも欠かせないもの。両方があるからこそうまく回っていると実感しています」

仕事にも、生活の糧以上の意義を見出していると語る杉山さん。現在は、現社長が強く打ち出している「脱炭素経営」の一翼を担っているほか、女性リーダーの育成にも取り組んでいる。今後も自分のモットーを大切に、仕事とライフワークの両面で新たな道を切り拓いていく。

■役員の素顔に迫るQ&A
写真提供=川上産業

Q 好きな言葉
まずやってみる
鼓舞
「できない理由を考えるよりも、まずやってみることを心がけています。また、自分や部下のモチベーションを上げる意味で『鼓舞』することを大事にしています」

Q 愛読書
孫子の兵法
菜根譚
「いずれも中国古典で、人の動かし方や自分の心のあり方などを学びました」

Q 趣味
アジアと音楽をテーマにした交流プロジェクト、バンド活動

Q Favorite Item
プチプチ 名刺入れ