忙しい保護者を悩ませるPTAの「ポイント制」を廃止することはできないのか。政治学者の岡田憲治さんは「PTA会長任期中にある程度のスリム化を進めましたが、ポイント制度は残りました。なぜ廃止できないのかと改めて考えてみると、ポイント制がふだん家庭でシャドウ・ワーク(無賃金労働)をしている女性にとって拠り所となっているのではという性別役割分業の問題に行き着きます」という――(2回目/全3回)。

※本稿は、岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。

カレンダーの12日金曜日に、PTAの書き込み
写真=iStock.com/RapidEye
※写真はイメージです

細かいポイントがPTA活動のインセンティブに

多くのPTA経験者、現役員、保護者のみなさんの言うことで、やはりポイント制度を即座に止めてしまうことを躊躇させるのが、「ポイントがなかったら、今いる、見える風景の場所までたどり着けなかったと思う」という正直な振り返りの言葉だ。笑顔で一緒に活動してくれる役員さん、委員さんの中には、少なからず「最初は、ポイント稼がないといけないって焦って、脳内で一、二の足し算ばかりしてたけど、最初にやった活動がとても楽しくて、そのうち『役員もやってもいいかな』なんて思い始めて、気がついたらもうとっくに12ポイント超えてお釣りが来るぐらいになってたんです。今は別にもうポイントなんてどうでもいいです」という人がいるのだ。

だから、ポイント制度には、やってみる、経験してみる、発見してみる、というところまで「引っ張ってくれる」という機能があるのだ。何しろ、子供が入学して、バタバタして、いきなり「PTAですよ! 12ポイント目安です! みんなやってます!」ってプレッシャーをかけられて、え、何それ? やらないといけないんだぁ! 幼稚園の卒対やっと終わったのにまた? でも小学校のは幼稚園とどう違うの? ……という具合に、「何だかそもそもよくわからないんだもん。PTA」という状態にある人たちに、「とにかくやってみると面白いよ」というところまで連れてくるためには、何らかのインセンティブが必要なのかもしれない。

運動会の席取りの優先枠をナッジとして考えたが……

ふとした「こちょこちょ」をすることで、望ましいと思う方向に人を誘導し連れてくる契機のことを、経営学の言葉ではナッジ(nudge)と言う。無理にではなく、ソフトに、それとなく良い方向へ行動を促す策のことだ。会長になった時に、あまりみんなが「このままじゃ、もう役員やる人どんどんいなくなっちゃうし、PTAの活動、浸透してないです!」と心配するので、このシカゴ大学とハーバード大学の先生たちが15年くらい前に発表した「策」を考えてみたりした。

例えば、運動会の朝は、「開門時間」を目指して、かなり早くからパパたちが学校の門の前に席取りのための行列を作っていて、7時の開門と同時に、ダッシュで好位置を取り、シートを敷いて、また眠い顔でぞろぞろ帰って行くという風景が常態化していたので、「役員になると運動会の場所取りをしなくてもテントに役員席を作って優先的に場所取りができます」という「お得」ナッジを作ったらどうか、なんて真面目に提案したのだ。

でも、運動会を朝から終わるまでずーっと観て、他学年の子供の徒競走とかも、声をからして応援して、「今年は20点差で赤組が勝ったね!」なんて、目をキラキラと輝かせている、僕のツレアイみたいな人もいれば、自分の子の徒競走だけ観て、そそくさと帰る人もいる。「運動会の時に良い席で観られる」なんていうのは、一部の人にしか効果がなく、そもそもナッジと呼べるかどうかも曖昧だ。

やはりポイント制は必要悪として残すべきなのか?

そこへ行くと、ポイント制は、どっしりとして安定感があり、そしてじわりじわりと確実に人をPTAに運び込んでくれる。「ポイント」と聞いただけで、体内、脳内の何かがゾワゾワと動き出し、「やらないといけない……の? ……無理っぽいけどみんなやるの? ……マジ時間ないし……。でも12ポイントなんでしょ? え? 義務? 何?」となり、「役員とかマジ無理。でも夏休みのラジオ体操係とかなら、年に4回だし」となって、負担が軽そうな割にポイント率が高い印象の活動が、15人ジャンケンとかになるのだ。

ということは、結局、「やりたくないけど、やらないとなんか雰囲気的にマズそうだし、ちょっとだけ(本当にちょっとだけ)、まったくなぁーんもやらないのは悪い気もするし……」という感じを前提にすれば、この制度は必要悪なのかもしれない……とまた堂々巡りとなる。

だから、この話は一般論では完結しないのだ。

ポイントのブロックを積み上げる人の手元
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです

PTA活動に生きがいを見いだす専業主婦のママたち

そして、今言えることは、「あたし、ポイント制がなかったらオカケンさんと知り合ってもいないし、絶対PTAなんてやってないし、学校のことももっと全然知らなくて、自分がやったことで人が喜んでくれるなんて、そういうこと毎日の暮らしではとくにないし、だから、あたしが2年も続けて役員を自分からやろうなんて気持ちになったのも、ポイント制のおかげですよぉ」という、副会長の森さんの涙が出るような言葉を抱きしめたくなる。

しかし、ちょっと引っかかるものが残った。

「自分がやったことで人が喜んでくれるなんて、そういうこと毎日の暮らしではとくにないし」……。これは何だ?

僕は、いつも笑顔でちょこまかといろいろと心配をしてくれて、「じゃ、それ朝イチPTA室でコピーして、入学セットに加えておきます!」なんて、とっても面倒臭いことをやってくれる森さんに、会った時には必ず目を見て「あれはありがとう。助ったよ」と言うし、みんなの手の届かないことをしてくれたら、それは役員みんなに伝えている。

でも、あなたは、そして多くのママたちは言うのだ。

頑張ったことを人から感謝されるなんて普段ないから、と。

何でだよ? みんなあんなに喜んでるじゃないか⁉

そんな時、別の近所のママの話がツレアイから伝わってきた。

「ポイントってね、『自分が頑張った印』なんだよ。ミミちゃんママがそう言ってたよ」

え? ママたちよ。あなたたちはどうしていつも、僕が疑う必要もないとしている前提を揺さぶってくるのか?

ポイントは家庭で感謝されず、評価されないママの拠り所

「ママたちの多くは『ポイント制度なんて本末転倒だ』とか、『スリム化の障壁だ』とか、そんな正論はどーでもいいの。ミミちゃんママは『私みたいなジコチューな人間は、ポイントなるべく効率よくゲットして、次は何? って感じ?』って言うわけよ」

「そんな感じかもなぁ」

岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版)
岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版)

「でもね、『ポイントカード見てると、ああ、私頑張ったんだなぁって』って思えるんだって。ポイントって、『頑張った私の自分を褒めてあげるための記録』なんだよ」

でも、どうして自分を褒めるのか?

「ママたち、とくに専業ママたちはね、毎日終わりのない家事をやって、育児もおっつけられて、じゃあ誰かに感謝されてるかって言えば、そんなふうに思えないまま毎日が過ぎていくの。だから、ポイントって、ただの要領目的のものでもないし、ボランティアの大切さをわかっていないわけじゃなくて、自分を慰めるためのものなんだよ。きっと」

家族への貢献は、稼いだ額に比例しない。「誰のおかげで飯を食えると思ってるんだ!」で話を終わらせた自分の父親たちに辟易してきた。一緒に暮らす人間が「その人にとっての切実さの基準」で苦労してギビングしてくれたら、「ありがたい」と伝えるべきだと僕は思う。

「そう思っているママたちは少なからずいると思うよ」とツレアイは教えてくれた。

「誰も褒めてくれないから、ポイントカード見て、私頑張ってんじゃんって思う」

なんとも切ない。

「頑張ってるね」と言われたくて

ポイントカードは、ボランティアの基本を置き忘れた本末転倒システムであり、同時に「頑張っているのに、とくに感謝もされない、するのが当然だと思われている自分を褒めるためのレコード」だった。頑張りの可視化システムだ。

ちゃんとやっている人は、「頑張れ」とあまり言われたくない。なぜなら「もうとっくに頑張っている」からだ。言われたいのは「頑張ってるね」だ。

なるほどと感じ入り、ポイント制度をめぐる話は本当にいろいろだと思い返して、やはりこの問題は「有益なる放置」なのかとため息をついた。

「自分は何者でもない。でも、一生懸命頑張った。それは自分を支えるものの一つだ」

そう考えて生きているのは、ミミちゃんママのようなアラフォーの人たちだけではない。この地で、何十年も前にそれをやり始め、そして今もやっている人たちがたくさんいるのだ。