「援助に慣れきっているアフリカの人々と、ビジネスで対等に向き合いたかった」と語るのは、アフリカの貧困問題改善をめざすスタートアップ企業の代表・萩生田愛さん。ケニア産のバラに魅せられ、ケニアの女性たちを応援しようとたった1人で起業。都心に2軒の実店舗を構えるまでには、社内の人間関係で深く悩んだ時期もあったという――。
ケニアのバラ農園で働く女性
写真提供=Asante
ケニアのバラ農園では約2000人が働いており、その9割近くが女性だ。

ケニアで出合ったバラに一目ぼれ

アメリカの大学で国際関係を学び、アフリカの貧困問題(※1)に強い関心をもった萩生田愛さんは、いつかアフリカに関わり、問題を解決する側の人間になりたいと思っていた。

卒業後、帰国して日本の大手製薬会社に就職。そこでWHOと関わるプロジェクトを通して、心に秘めていたアフリカへの情熱が再燃した。

(※1)アフリカの貧困問題:世界銀行が定義する国際貧困ラインは、1日当たり1.90ドル以下で暮らす層であり、2015年では世界人口の10%がこれにあたる。そのうち半数以上が、アフリカのサハラ砂漠以南地域で生活しており、この地域の貧困率は、2015年時点で41.1%に上る(出典:世界銀行「国際貧困ラインに基づく地域別貧困率(2015年)」)

萩生田愛さん
写真提供=Asante
アフリカのバラ販売事業を手掛ける萩生田愛さん。

「寝ても覚めてもアフリカのことが頭を離れず、7年勤めた会社を辞め、ケニアに行きました。NGOのボランティアとして貧困地域で学校建設に携わったのですが、箱ができても親に仕事がないと子どもは学校に通えません。現地の人たちは海外からの援助に慣れてしまっており、援助だけでは貧困問題は解決できない現実に直面しました。自分は何のためにキャリアを放り出し、恋人と別れてまでアフリカに来たのか……と、悶々とする日々でした」

無力感に悩み続けていたある日、ナイロビの街角でこれまで見たことがない赤やオレンジのグラデーションやマーブルの大きな花が目に留まった。

「店の人に聞いたら『バラだよ、見たことないの?』と言われて、驚きました。部屋に飾り、その後、仕事で地方に行ったため3週間ぐらい放置したのですが、生命力が強く、アパートに戻ったら枯れずに美しいまま咲いていたんです。『見て! すばらしいバラでしょう』と、日本の家族や友人に見せてあげたくなりました」

グラデーションが美しいケニアのバラ
写真提供=Asante
グラデーションが美しいケニアのバラ。

ケニアは赤道直下で日照時間が長く標高も高いためバラの栽培に適している。アフリカのバラの輸出先は主にヨーロッパで、日本へはほとんど輸出されていなかった。さらに調べてみると、バラ農園の労働者のほとんどが女性だということもわかった。

「このバラをフェアトレードで売ればケニアの女性たちを応援できる。彼女たちにはきちんとした報酬を、日本の女性には美しいアフリカのバラを提供しよう、これなら“ウィン・ウィン”で、私ができることはコレだ! と、夢中になりました」

起業のコツはまず動き、周囲の人をどんどん巻き込むこと

帰国後、2012年の6月に事業を開始。ケニア滞在中のご縁で、女性の雇用や地域のCSR活動にも積極的な農園主と出会い、そこから2500本のバラを輸入した。イベントで売ると評判は上々だったが、赤字を出した。

代々木公園のイベントで初めて輸入したバラを売る萩生田さん
代々木公園のイベントで初めて輸入したバラを売る。(写真提供=Asante)

「生花の在庫を持つのはハイリスク、そこでオンラインショップで営業することにしました。注文と同時に代金をもらい、そのぶんだけ仕入れれば在庫も廃棄もありません。このビジネスモデルなら運転資金も最小限。無理しないスモールスタートが長続きのコツだと考えました」

自分の給料も取れないほどのローリターンだったが、ローコストも徹底し、広告宣伝費をかけない代わりにほぼ毎日、自ら多種多様な会合に参加してPR活動を展開した。

「大学時代アフリカの貧困問題を知るきっかけになった模擬国連に参加したのも、実は打ち上げパーティーがおもしろそうだったからという不純な動機(笑)。私は人に会うのが大好きなんです。異業種交流会やランチ会、朝食会に至るまで、ありとあらゆる集まりにバラと名刺を持って行き、バラの魅力と事業のミッションをアピールしました。広告費を使うよりデザインや包装にお金を回したかったし、共感してくれるファンを直接開拓したかったからです。

ケニアのバラは大輪で色が鮮やか。写真映えするし、フェアトレードは社会的意義もあるのでSNS向きです。贈った人も、もらった人も誰かに伝えたくなって、ネットで拡散しやすいコンテンツだということも功を奏したのだと思います」

評判が広がるにつれ、萩生田さんの周りにはバラに魅せられた多くのファンが集まってきた。ファンにとどまらず、経営や実務など苦手分野を手伝ってくれる仲間も現れ、会社は次第に大きくなっていった。2015年には広尾に実店舗も開店。当初はリスクのある実店舗営業に消極的だったが、事業を拡大すればケニアの農園で働く人たちの収入が増え、アフリカの貧困問題を改善するという目的に一歩近づくのだと勇気を振り絞り、踏み切った。

「AFRIKA ROSE」広尾店開店当時。
写真提供=Asante
「AFRIKA ROSE」広尾店開店当時。

「開店資金はクラウドファンディングで調達しました。金額よりも仲間が欲しかったので、出資者にペンキ塗りまで手伝ってもらい、みんなで店をつくりました。アフリカのバラを軸にしてそこに人が集まるコミュニティーができ、新しいことやワクワクすること、社会問題の解決につながる活動が生まれることが大事だと考えていました」

そんなに私が嫌いなら、みんな辞めちゃえばいい!

好調な事業の裏側で、2018年に萩生田さんが第1子を出産した直後から社内の人間関係が不安定になった。スタートアップの社長によくある無理な働き方で経営を維持してきたことが裏目に出たのだ。せめて3カ月と思っていた産休もたった1カ月半で切り上げてしまった。

六本木ヒルズ内にある2号店
写真提供=Asante
六本木ヒルズ内にある2号店。

「自分がいないと会社が回らない現実にがくぜんとしました。子育て中の女性が24時間働くなんて無理。心身ともにCEOと新米ママの重圧に耐えかねました。『社長だから休めないなんておかしい! なんとかしなくちゃ』と焦り、スタッフとの間もギクシャク……『こんなことなら会社を売却するほうが全員のためでは』とまで思い詰めました。特に2019年に六本木ヒルズに2号店を出店した頃の私の精神状態は最悪……『そんなに私のことが嫌いなら、みんな辞めちゃえばいいじゃない』と言ってしまったことも。今はこどもも持ったことで人生が豊かになったし、事業をするうえでも子どもたちの未来や環境のことを真剣に考えるようになり、産んでよかったと心から思っています。でも当時は、産後うつ状態寸前で、周囲の人の気持ちを考える余裕がなかったんだと思います」

みんながやりたいことをする、サステナブルな会社に

スタートアップの創業期には強いリーダーが必要だった。しかしライフイベントの壁に阻まれ、社長主導型の組織のままでは会社が立ち行かなくなった。

「これからは私の意見だけではなく、みんながフラットに意見を出し合って進めていく形に変える必要がありました。社長主導型を止め、自律分散型の組織に移行するために、ホラクラシー(※2)の専門家に経営参加してもらい、経営上の数字や給与体系のオープン化、権力構造の解体など、抜本的な構造改革をしました」

(※2)ホラクラシー:自律的なグループに決定権を分散させることで、それぞれのグループが能動的に活動できるようになる組織管理システム

今では、16名のスタッフが平等に意見を言い、おのおのがやりたいことを事業化していく組織に変化しつつあるという。たとえばコロナ禍で世界のバラ園が危機的状況にあることから、アフリカのケニア以外の地域、南米のコロンビアやエチオピア、日本のバラ農家からも花を仕入れる“ワールドローズ”というプロジェクトや、バラの空輸時に出るCO2の総量に対して植林を進めるカーボン・オフセットなど、環境に配慮したアクションもスタッフ発信で進んでいる。

創業から10年。萩生田さんがたった1人で始めた「アフリカの花屋」は、多くの人の力を巻き込みながらみんなで前進し、社会に小さな変化を起こしてきた。

アフリカの農園の女性従業員たちには、シングルマザーも多い
写真提供=Asante
アフリカの農園の女性従業員たちには、シングルマザーも多い。

ひたむきにアフリカのバラを販売し続け、売り上げはコロナ禍でも創業時の10倍以上に伸びた。契約するアフリカ・ケニアのバラ農園の従業員は9割が女性だ。シングルマザーも多いが平均勤続年数は長く、マネジャークラスになるとかなりの収入を得られるという。

「ケニアの農園従業員のなかには、子どもを寄宿学校に通わせている母親もいます。女性の収入増は子どもの教育レベル向上に直結するので、ケニアの人たちに貢献できていると思っています」

そう語る萩生田さんだが、2022年の3月をもって「AFRIKA ROSE」を展開するAsante代表を辞するのだという。

「もうAFRIKA ROSE=萩生田愛というフェーズは終わっているのです。会社には残るし、事業は存続させますが、私が得意なのは経営よりも、新しい何かを立ち上げること。本当のサステナブルって、まず自分を生かすことが第一。自分も他人も幸せになってこそ、物事を長く続けられるのだと考えるからです」

10代で抱いた使命を30代で形にし、改革を追う萩生田愛さん。次の10年もその先も、新たな道なき道を進んでいくに違いない。