肝心な皇位の安定継承への検討は棚上げ
今年12月6日、政府は皇室制度のあり方を議論する有識者会議(清家篤座長)を開き、報告書の骨子案を了承した。7月以来しばらく中断していたが、11月30日から再開した。秋篠宮家のご長女、眞子さまのご結婚と渡米を待っていたかのようなタイミングだった。3月から12回にわたって会合を重ねてきた同会議も、いよいよ大詰めを迎える。
しかし残念ながら、同会議が本来果たすべきだった課題には、一切手を付けないまま幕を閉じることになりそうだ。
報告書の骨子に示された、軸となる皇室の危機打開への「具体的方策」は、以下の2案。
①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能にすること。
②皇族には認められていない養子縁組を可能とし、(国民の中の)皇統に属する男系の男子を皇族とすること。
他に、③(国民の中の)皇統に属する男系の男子を法律により直接、皇族とする案があるものの、あくまで上記2案がうまくいかなかった時の予備的な位置付けだ。
しかし、これらはどれも、目先の「皇族数確保」を取り繕うことを狙った方策にすぎない。
国会決議を無視してテーマをすり替え
そもそも、同会議が設置されたのはなぜか。上皇陛下のご退位を可能にした皇室典範特例法の附帯決議において、政府が「安定的な皇位継承を可能にするための諸課題」「女性宮家の創設等」について、「速やかに」検討すべきことを要請されたのに応えるためだった。だから、同会議の正式名称は「『天皇の退位等に関する皇室典範特例法に対する附帯決議』に関する有識者会議」となっている。
にもかかわらず、国会から求められた肝心な皇位の安定継承のための検討を棚上げにし、附帯決議には全く言及されていない「皇族数確保」という別のテーマにすり替えて、問題解決の“先延ばし”を図ろうとしている。とても誠実な態度とは言えないだろう。
法令に基づかない政府の私的諮問機関にすぎない同会議が、国民の代表機関である国会の決議をないがしろにすることは、民主主義の原則に照らして首をかしげざるをえない。同会議の設置目的と存在意義を、自ら否定する振る舞いではあるまいか。
しかも、同会議が示した上記2案はどちらも、目先だけの「皇族数確保」策としてさえ無理筋で現実味が乏しい。この点について、少し立ち入って吟味しよう。
皇族と国民が1つの世帯を営むという“無理”
まず①について。
先の附帯決議では「女性宮家の創設」を検討課題として名指ししていた。ここで想定されている“女性宮家”とは、内親王・女王がご結婚後も皇族の身分を保持されるのはもちろん、男性宮家と同じくご本人が当主となり、配偶者やお子様も皇族の身分を取得できるというプランだ。
ところが、①はそうではない。配偶者やお子様は国民の身分とされている。皇族と国民が1つの世帯を営み、内親王・女王は皇族として皇統譜に登録され、配偶者やお子様は国民として戸籍に登録されるという、前代未聞の世帯が登場することになる。あまりにも奇妙なプランではあるまいか。
その場合、ご結婚に当たって皇室会議の同意を必要とするのか、どうか。
憲法上、結婚は「両性の合意のみ」に基づく(24条1項)。だが、天皇及び男性皇族のご結婚に際しては、配偶者もお子様も皇族の身分になるため、例外的に皇室会議の同意を必要とする(皇室典範10条)。
よって、配偶者やお子様が皇族の身分にならない場合は、憲法の例外とするのは無理がある。しかし、引き続き皇族の身分を保持される内親王・女王のご結婚について、皇室会議が全く関与できないという制度は、不安が伴うのを否定できない。
つまり、皇族と国民が1つの世帯を営むというプラン自体に、無理があるということだ。
不自然な制度で、女性皇族の結婚は困難に
しかも、配偶者やお子様が国民であれば、憲法が国民に保障する政治・経済・宗教などについての活動の自由は当然、保持することになる。
しかし、そのことと、憲法で「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」(1条)「国政に関する権能を有しない」(4条1項)とされている天皇及び皇室のお立場との整合性は、保てるだろうか。
皇族の身分にとどまられる内親王・女王の配偶者やお子様の政治・経済・宗教上の活動などが、皇室と全く無縁なものと受け取られることは、およそ想定しにくい。そうすると、天皇・皇室の憲法上のお立場を損なうおそれが生じる。
だが一方、そのことを理由に、国民である配偶者やお子様の自由を妨げ、権利を制約することは、憲法違反になってしまう。
さらに、このような不自然な制度の下では、申し訳ない話ながら、愛子殿下をはじめとする内親王・女王方のご結婚それ自体が、極めて困難になると予想される。
以上のように考えると、①は制度としてとても採用できないだろう。
「門地による差別」で憲法違反に
では②はどうか。
こちらはより一層、無理筋だろう。何しろ、戸籍に登録される国民の中から、特定の血筋の者(皇統に属する男系の男子)だけが、養子縁組によって皇族の身分を取得できるという、特別待遇を与えられることになるからだ。憲法の国民平等の原則に反すると言わねばならない。
憲法14条1項に以下のような規定がある。
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」
この条文に照らすと、②は国民の中の「皇統に属する男系の男子」のみに養子縁組を認め、それ以外の国民には認めないという、「門地(家柄・家格)による差別」に該当するだろう。
このことは、同会議のヒアリングに応じた憲法学者で東大大学院教授の宍戸常寿氏が、既に指摘しておられた(令和3年5月10日)。
「法律(皇室典範や特例法)等で、養子たりうる資格を皇統に属する(皇族でない)男系男子に限定するならば……一般国民の中で門地による差別に該当するおそれがある」と。
養子縁組は現実的なのか
同会議でも、この問題は自覚されているようだ。役人らしい婉曲的な表現ながら、事務局の「調査・研究」には次のような記述が見られる。
「法律の明文で規定する以上は、養子となり得る者として規定される国民と他の国民との間の平等感の問題はあるのではないか」
それを回避するために、恒久措置はあえて執らず、「個別の養子縁組の機会を捉えて養子縁組を可能とする立法を行う」という苦肉の策も、選択肢の1つに挙げている。「あくまで養子縁組を行う意思の合致した特定の当事者のみが対象となることから、国民の間における平等感の問題は生じないのではないか」というのだ。
しかし、仮に「特定の当事者」の間で「養子縁組を行う意思が合致した」としても、養子にする相手が「皇統に属する男系の男子」でない場合はどうするか。あらかじめ「皇統……」という限定を設けるなら、やはり(「平等感」という主観の問題ではなく)客観的に「門地による差別」に該当すると言う他ない。
しかし、逆にその限定を設けなければ、「皇統」に属さない任意の人物(「男子」に限定すれば“国民”の間での扱いである以上、それも「性別による差別」に当たる)が養子縁組によって皇族の身分を取得できる制度になってしまう。
さらに、法律に欠かせない「一般性」(不特定多数の人に対して、不特定多数の事案に適用される)の観点からも、個別の養子縁組のためだけの立法措置は認めがたいだろう。
そもそも、養子縁組に応じる宮家や国民男性を期待できるか、という問題もある。
会議が袋小路に入り込んだワケ
①②はどちらも妥当性を欠き、実現可能性の点でも疑問がある。
さらに、それらの方策では、秋篠宮家のご長男、悠仁親王殿下のご結婚相手が必ず男子を生まなければ、これまでの皇統による皇位の継承が行き詰まってしまう事態は、何ら改善されない。ご結婚相手にとって想像を絶するような重圧を放置したままでは、ご結婚のハードルが絶望的に高くなってしまいかねない。
同会議は、どうしてこのような袋小路に入り込んでしまったのか。理由ははっきりしている。冒頭に述べたように、自らに与えられた皇位の安定継承への方策を探るという、本来の課題から逃げ出してしまったからに他ならない。
長く「男系」による継承を支えてきた側室制度がなくなり、天皇・皇族の正妻以外の女性から生まれた子(非嫡出子・非嫡系)には継承資格が認められなくなった。にもかかわらず、明治以来の「男系男子」という窮屈な継承資格の縛りだけは、相変わらず維持している。それこそが皇位継承の将来を危ういものにしている。
つまり、現在の皇室典範のルールのあり方そのものが問題の根源なのだ。
「女性天皇」「女系天皇」なしに安定継承は望めない
それなのに、同会議は見直されるべきルールを前提にした現在の継承順序を「ゆるがせにしてはならない」(7月の中間整理)などと決めつけて、自縄自縛に陥ってしまった。
しかし、皇位継承順位第1位の秋篠宮殿下は天皇陛下よりわずか5歳お若いだけで、ご高齢での即位を辞退される可能性について自ら言及されたことも報じられており、宮内庁もそれを否定していない。法的にもそれは可能なので(皇室典範3条。園部逸夫氏『皇室法概論』)、継承順序が変更される可能性は、制度改正とは関係なく、現にあるのだ。
皇位の安定継承を目指すならば、女性天皇・女系天皇を可能にする皇室典範の改正に踏み出す以外に、進むべき道はないはずだ。小泉純一郎内閣に設けられた「皇室典範に関する有識者会議」の報告書の結論は以下の通りだった。
「皇位継承資格を女子や女系の皇族に拡大することが必要であるとの判断に達した」
「我が国の将来を考えると、皇位の安定的な継承を維持するためには、女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と。
今回了承された骨子を基に正式な報告書が政府に提出されると、やがて舞台は国会へと移っていく。そこでどこまで本筋の議論に立ち戻ることができるか。国会の真価が問われる。