11月10日、改めて首相に選出された自民党の岸田総裁は、会見で給与を引き上げた企業を支援する賃上げ税制を強化し、賃上げを後押しする方針を伝えた。これで本当に賃金は上昇するのか。代々木ゼミナールの人気講師・蔭山克秀さんが解説する――。
コインが積みあがっていく給与のイメージ
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岸田首相はハト派の政策通「宏池会」出身

記念すべき第100代内閣総理大臣に任命された岸田文雄首相は「聞く力」を売りとする調整型の政治家です。つまり、民意を無視して突っ走る突破型の政治家とは違い、ちゃんと国民の声に耳を傾け、国民の不満や疑問に対しても丁寧に説明し、納得してもらう努力をすると約束しています。

岸田首相は岸田派の領袖ですが、岸田派といえば「宏池会」。そう、あの「所得倍増計画」でおなじみの池田勇人元首相が1957年に立ち上げた、日本で最も古い派閥です。宏池会といえば、池田勇人・大平正芳・鈴木善幸・宮澤喜一らの総理経験者に加え、野党時代に自民党総裁となった河野洋平に谷垣禎一、さらには「加藤の乱」で、当時の森喜朗総理に反旗を翻した加藤紘一など、そうそうたる面々を輩出していますが、彼らに共通するイメージは「リベラルで物腰の柔らかいハト派の政策通」。これが宏池会のカラーです。

宏池会に政策通が多いのは官僚出身者が多いためですが、ではなぜ官僚出身者が多いのか? それは宏池会の創設者・池田勇人と大きくかかわりがあります。

池田勇人は国会議員になる前、大蔵省の事務次官でした。そんな彼が政界入りしたきっかけは、吉田茂の誘いでした。自らも外務官僚出身で政界に味方のいなかった吉田茂は、池田勇人や佐藤栄作など将来有望な官僚たちに声をかけて政界入りさせ、自分の周りを腹心で固めていきました。いわゆる「吉田学校」です。その後、池田は佐藤栄作と吉田学校を分け合う形で派閥を形成し、池田派は宏池会、佐藤派は周山会となっていったのです。こういう流れで、宏池会は官僚が集まる派閥になりました。岸田首相は官僚出身ではありませんが、経済に明るく数字に強い池田勇人の流れをくむ宏池会で鍛えられて強くなり、今や相当な政策通として知られています。

「所得倍増計画」と「令和版所得倍増計画」の違い

その岸田首相が、池田勇人を彷彿とさせる懐かしいネーミングの政策を打ち出しました。「令和版所得倍増計画」です。ただこれを説明する前に、まずは本家・池田勇人の「所得倍増計画」を見てみましょう。

池田勇人の所得倍増計画は、1961年から70年までの10年間で、GNP(国民総生産)を2倍にするというもの。その達成のために、重化学工業や社会資本整備に、どんどん予算をつぎ込み、同時に低金利で企業融資を行える環境も整えました。その前提となったのが、軍事コストのかからない国柄です。「軍事費を節約して、経済で身を立てる」は、まさに池田の師・吉田茂が夢見た「通商国家・日本」の姿です(加えて、宏池会がハト派たるゆえんでもあります)。この軍事費の安さのおかげでGNP増加に集中投資でき、その甲斐あってGNPは、わずか4年で約2倍に、10年で約4倍にまで増やすことができたのです。

積み上げたコインの上に、それぞれGNPのアルファベット
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これに対し、岸田首相の「令和版所得倍増計画」は考え方がだいぶ違います。本当にGNPや所得を2倍にするのではなく、簡単に言うと、企業に賃上げを促すことで、経済成長が国民全体の豊かさに直結する形をめざすというものです。つまりアベノミクス以降見られるような、一部の大企業だけが富を独占する状況を改め、賃上げ促進税制(従業員給与を引き上げた企業への税制優遇)を強化して「分厚い中間層を復活」させ、「成長と分配の好循環」を実現しようというものです。

これを政策の目玉とするとは、非常に興味深いです。なぜならこれ、安倍内閣でも同種のこと(=所得拡大促進税制)をやり、うまくいかなかったからです。

岸田首相は、当然そのことを知っています。ということは、何かいい修正案があるのでしょう。一国の総理が、まさか手ぶらで大風呂敷を広げたとは思えません。ちなみに、安倍元首相がやったような法人税制の優遇だけでは大企業にしか恩恵はなく(法人税は赤字の中小企業には課税されないから)、それだけでは「分厚い中間層」はつくれないはずです。日本人の給料が上がり中間層が潤うかどうかは正直未知数としか言いようがないですが、岸田首相がそこをどう修正するのか、その手腕に大いに期待しましょう。

アベノミクスを踏襲しつつも修正

岸田首相は、アベノミクスを「踏襲しつつも修正する」と明言しています。アベノミクスは、大企業を軸とした民間活力にテコ入れする「新自由主義路線」で経済低迷から抜け出しつつ、大胆な金融政策で通貨を増やしてデフレ脱却をめざすことを基本戦略としていました。その成果は上々で、失業率や求人倍率など各種指標は改善し、不動産価格も株価も大いに上がりましたが、今思えばかなり「目線が上向き」になっていました。

どういうことかというと、アベノミクスの狙いは、新自由主義という“弱肉強食”を選択することで、まず強者(大企業や富裕層)に潤ってもらい、そこからの「トリクルダウン」(利益などの「したたり落ち」)で全体を潤していくという戦略でしたが、実際にトリクルダウンは起きなかったのです。

つまり大企業の利益は、大企業の下にがっちりとため置かれ、中間層以下にはいつまで経っても勝利の雫はしたたり落ちてこなかったのです。そして、それを長期間継続した結果、経済指標は全体的に改善したものの、デフレは続き、社会の格差はますます拡大してしまったのです。

分配は政府が促していくしかない

そう考えると、市場に任せればすべてうまくいくという新自由主義的な発想には限界があったのかもしれません。つまり「成長はできても、分配はままならない」という限界です。実際アベノミクスでは、日本経済を成長軌道に乗せることはできたものの、期待された大企業から中間層以下への分配(トリクルダウン)は起こらなかったわけですから。ならば分配は今後、政府が促していこう……どうやらこれが、岸田首相が「アベノミクスを踏襲しつつも修正」しようとする理由のようです。

日の丸を見上げる人々のシルエット
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ただ、岸田首相がアベノミクスを踏襲するのは、総裁選の際、安倍・麻生のいわゆる「2A」の支持を得たからという可能性も否定できません。そのせいか最近の岸田首相の発言は、リベラルな宏池会とは思えないほど強めの言動(二階幹事長下ろし、在任中に憲法改正をめざしたい、中国には毅然きぜんとした態度で、北朝鮮問題で韓国の協力は必要だが原理原則は決して曲げずに)が目立ちます。

「いい人に政治はできるか」「無味無臭」などと、保守系紙に辛辣しんらつに書かれることの多い岸田首相、無理がたたって破綻しなければいいのですが……。