新型コロナワクチン開発の立役者、カタリン・カリコ氏は約40年間にわたりmRNAワクチンと向き合ってきた。東西冷戦の中で不景気だった母国・ハンガリーでは行き場を失い、渡米しても研究成果はなかなか認められず……。苦難の末にワクチン開発に成功し、授賞式のためハンガリーに帰国した彼女にスパイ疑惑が向けられた――。

※本稿は、増田ユリヤ『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

2021年5月27日、ハンガリーの生化学者で、ドイツのマインツに本拠を置くビオンテック社の副社長であり、メッセンジャーRNA(mRNA)の研究者であるカタリン・カリコ氏が、ハンガリーのブダペストで写真撮影に応じる。
写真=EPA/時事通信フォト
2021年5月27日、ハンガリーの生化学者で、ドイツのマインツに本拠を置くビオンテック社の副社長であり、メッセンジャーRNA(mRNA)の研究者であるカタリン・カリコ氏が、ハンガリーのブダペストで写真撮影に応じる。

RNAの研究室でのカリコ氏の任務

セゲド大学に5年間在籍し、修士課程までおさめたカリコ氏は、1978年、ハンガリー科学アカデミーから奨学金を得て、博士課程としてハンガリー科学アカデミーセゲド生物学研究所の研究室に所属した。それが「RNA研究室」だった。

ちょうどこのころ、世界的に分子生物学が生命科学の分野で主要な位置を占めるようになり、RNAを研究することは、当時の学問の世界基準を究めていくことに等しいものとなっていた。とはいえ、現在のカリコ氏が研究を究めたmRNAは、この当時は存在は明らかになっていたものの、合成することは非常に困難だった。というのも、DNAに書かれたタンパク質の遺伝情報をmRNAに転写する際に必要なRNAポリメラーゼ(酵素)が、精製できていなかったからだ。

そのため、70年代の後半の段階では、3〜4つのヌクレオチド(RNAを構成する分子の結合体)からできた、とても短いRNAフラグメント(断片)しか作ることができなかった。カリコ氏の任務は、このRNAフラグメントの抗ウイルス効果を調べることだった。抗ウイルス剤の調査は、製薬会社にとって関心の高い重要分野のひとつだった。

そのため、このプロジェクトには、キノイン(ハンガリーの製薬会社。1991年、フランスのサノフィに買収される)が資金援助をしてくれた。カリコ氏は仲間の研究者とともに、抗ウイルス効果のあるRNAフラグメントを合成して生成し、それを細胞に送り込む方法を見出すという任務を与えられた。当時の実験条件下では、電子穿孔法でのみRNAフラグメントを細胞内に入れることができた。しかし、それは人間に適用できるものではなかった。思わしい研究結果が出せなかったため、資金援助は間もなく打ち切られた。

しかし、カリコ氏がこの研究室でウイルス関連の研究をし、初めて修飾ヌクレオチドを使用したことは、重要なことだった。

研究費の打ち切り、景気の後退…新天地アメリカへ

これらの研究と同時進行で、カリコ氏は生物学研究所でも、多くの研究プロジェクトに参加するようになった。しかし1980年代に入ると、ハンガリー全体が景気の後退、停滞に陥り、それに伴って、研究活動が進められなくなっていった(ハンガリー・中央統計局資料による)。そのため、研究グループは解散せざるをえなくなった。海外に渡って研究を続けようという仲間たちも多く、カリコ氏自身も「このままでは終われない」と思い悩んだ。結局、セゲド生物学研究所の生物物理学研究室で得られた専門的な経験を強みに、1985年、カリコ氏はアメリカのペンシルべニア州フィラデルフィアに家族で移住して、研究活動を続けた。そこで続けた研究は、セゲドで研究したテーマと関連するものであった。

ワクチン開発成功後の悲劇

新型コロナワクチンの生みの親として、一躍有名になったカリコ氏。その功績が称えられて、ハンガリー本国で数々の賞を受賞したカリコ氏は、2021年5月、授賞式に出席するためハンガリーに一時帰国した。まず会いに行ったのが、高校の恩師トート先生。

カリコ氏の恩師トート先生に取材する筆者
カリコ氏の恩師トート先生に取材する筆者。(写真=YouTubeチャンネル池上彰と増田ユリヤのYouTube学園』より)

恩師を大切にしている彼女らしい行動だなと感心させられていたところに、思わぬ情報が飛び込んできた。

出る杭は打たれる、ということなのだろうか。ちょうどカリコ氏がハンガリー科学アカデミーセゲド生物学研究所で博士課程に進んだころ、まだ社会主義体制下にあったハンガリーでカリコ氏がエージェントに採用されていた記録がある、という情報がSNSやハンガリーの一部右派系メディアで出回っていたというのだ。ここでいうエージェントとは、国家の秘密業務で働く者、つまりスパイのことである。もともとこの情報は、1945〜90年にかけてのセゲドの国家保安庁のネットワークに属した人をリストアップした本に掲載されていたものだという。同書は2017年に出版されたもので、編集者自身も元国家保安庁の幹部だった。

この本によると、カリコ氏は1978年10月31日にエージェントとして採用された。

コード名(スパイ活動する際の別名)は、ジョルト・レンジェルという男性名だった。

1985年からは休職扱いになっていて、これはカリコ氏が渡米した年にあたる。

新型コロナウイルスのワクチンバイアル
写真=iStock.com/franckreporter
※写真はイメージです

思わぬ質問に、カリコ氏はどう答えたか

こうした報道に対して、ハンガリーの非政権系メディアTelex.huがカリコ氏に質問を投げかけた。これを受けてカリコ氏は、書面で回答をしている。

「1978年に、セゲド生物学研究所の研究員助手として働き始めた時、当局から接触があり、エージェント採用を受けずにはいられない状況になったのは事実です。

当局からは、父が1956年のハンガリー事件に参加したことを『罪深い過去』として持ち出され、もしエージェント採用を受けなければ、私の研究活動をできなくしてやると脅迫されました。父は1957年に執行猶予付きの懲役刑を言い渡され、職場は解雇となり、その後4年間は仕事に就けませんでした。当局のシステムがどのようなものかをそれで知っていたので、恐ろしかった。ですから、採用関連の書類に署名をしました。

しかしその後、私自身が誰かについて報告書を書いたことは一度もありませんでした。誰かを傷つけたこともありません。研究活動を続けるために、国をあとにするしかありませんでした。

過去36年間、私は人々の病気の治癒のために研究活動を行ってきました。私の研究を台無しにされることもなければ、私自身が自分の目標から外れることもありませんでした。

この回答をもって、本件は終わったこととします」

逃げも隠れもしない彼女の強さ

私自身は、カリコ氏にインタビューをしたあとで、この件について知ったので、本人に確認をしたわけではないが、逃げも隠れもせず、事実を淡々と伝える姿勢がいかにもカリコ氏らしいと頷きながら彼女のこの回答を読んだ。そして、そのことを裏付けるいくつかの記録があることも確認した。

増田ユリヤ『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』(ポプラ新書)
増田ユリヤ『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』(ポプラ新書)

まず、国家安全保障サービス記録保管所には、カリコ氏の採用記録はあるが(前述の本ではこれを使用)、カリコ氏が書いた報告書の記録はない。

また、Telex.huによると、情報提供者に採用されたという事実だけをもって、国家の諜報ネットワークのアクティブな要員だったとは言えないという。「アクティブ」というのは、報告(文書)をしていた人たちである。大学や研究所など学術界では、採用に署名した後でも、報告をしなかった人は少なくない。

ハンガリーで著名な歴史研究家クリスティアーン・ウングヴァーリ氏によると、このように過去に関する情報が明らかになっても、自分でそれを認める人は非常に稀だそうだ。一方、1985年の米国移住後にも活動していたという一部の憶測については、カリコ氏はきっぱりと否定している。もし活動していたら、それが記録保管所に残っているはずだとした。なお、1945〜89年の社会主義体制下にエージェントとして採用された人は16〜20万人にのぼり、カリコ氏が採用される前は、7000人のアクティブ要員がいたという(以上、euronews.comによる)。