伸びるビジネスマンと普通止まりの人はどこが違うのか。米国公認会計士の午堂登紀雄さんは「伸びる人は戦争で勝つことにこだわり、凡人は戦闘で勝つことにこだわる」という。その心は――。
ノートパソコンに付箋
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伸びる人はいかに手を抜くかを考えるが、凡人はつねに全力投球

優秀な人は「手の抜きどころ」「流していいところ」をわきまえています。それは「この仕事で結果を出すには、どこが重要か」という本質を押さえるということです。

だから、普段は遊んでいるように見えても、「ここが決めポイント」と思えば猛烈にダッシュします。大事な局面ではテキパキ指示を出すものの、それが終わればのんびりしています。

なぜそれができるかというと、つねに仕事の全体像を把握し想像しているからです。全体像というのは、どのタイミングでどういうタスクが発生し、どのタイミングで何を決めるべきかということはもちろん、チーム各人や関係部署の仕事のスピードや得意不得意、あるいは取引先との関係なども含まれます。

そして全体を俯瞰したうえで、「ここの判断が後工程を決める」「ここを乗り越えればあとはラク」「これはさほど影響を与えない」など「この仕事はココを押さえることがポイント」を判断しているのです。

しかし凡人は、自分の仕事のどこが重要でどこが重要でないか、プロジェクトでどの工程が成否を分けるかをあまり考えていません。

完璧主義な人もこういう傾向があり、たとえば文書であればフォントサイズやレイアウトなど、些末なことにまで全力投球します。

それで自分は満足・納得するかもしれませんが、相手や顧客が特に喜ばないとすれば単なる自己満足的な作業であって、付加価値にならないタスクにエネルギーをかけているということです。

もちろん、自分が新人のときなど、すべてに全力投球をしたほうが良い場面もあるでしょう。しかし評価する人が特に気にしない部分まで力を注ぐのは非効率というものです。

プライベートでも手を抜くべきところはしっかり抜く

これは仕事のみならず、プライベートでも同じことが起こります。

たとえば家事は必要ですが、疲れているならちょっとくらい掃除をサボっても特に困らないでしょう。子どもと接する時間が減るぐらいなら、総菜を買ってきて料理の手間を省略した方がいい。

本質的に重要なことは、「家族がいつもゴキゲンでいること」「家族と楽しい時間を持つこと」のはずですから。

そういえば以前「ポテサラ論争」というのがネット上で話題になりましたが(主婦が総菜のポテサラを買おうとしたら、そこに居合わせた見知らぬおっさんに「母親ならポテトサラダぐらい自分で作れ」などと悪態をつかれたという話です)、文明の進化とは、より便利になることですから、惣菜店・テイクアウト・デリバリーという便利なサービスをあえて利用しない手はないでしょう。

あるいは旅行に行ってもぎゅうぎゅうに予定を詰め込んでぐったりするより、疲れたから予定を変更して休憩しようというくらいおおらかなほうが楽しいのではないでしょうか。

これもやはり、「目的」を意識し、「こうすれば楽しい」「こうすれば満足する」というポイントを把握しておくことです。そうすれば、同じ成果でストレスも最小限になるはずです。

伸びる人は不便をチャンスにするが、凡人は不満を漏らす

不便だな、困ったな、面倒くさいな、値段が高いな、などと感じたことがビジネスチャンスになるということは、昔からずっと言われてきたことです。しかしそれを、本当の意味で実践できている人は多くないでしょう。

たとえば深夜のショッピングチャンネルを観ていたら、ルームランナーが激安価格で売っていた。運動不足だから、これを買って運動しようかな。

そこで立ち止まって、自分が会社からの帰宅後に毎日走るという姿をイメージしてみる。疲れて会社から帰ってきた後でもやるだろうか。単調に走っているだけで景色も変わらないのに、続くだろうか。壁に向かって淡々と走っている自分……なんかむなしい……。きっと退屈し、飽きるだろう。そして購入意欲が失せ、テレビのチャンネルを変える。

ここまでは「賢い消費者」としての判断です。不要な買い物をしない、企業のカモにならないためにも必要な姿勢です。

消費者目線で終わらず、さらにその先を考える

しかし優秀な人は、さらにその次を考えます。

そのルームランナーで自分がそう感じるということは、きっと多くの人もそうやって挫折するだろう。ではどうしたら続けられるだろうか。

たとえば3Dゴーグルをかけて走ると、ジャングルや秘境を走っている映像が出るシステムを考える。方向を変えると映像も方向が変わり、走るスピードを速くすると、映像が流れるスピードも速くなる。あるいはアドベンチャーゲームにしてもいい。

空や宇宙を飛んでいるような映像、洞窟を探検している映像、川下りをする映像が、ジョギングとともに動けば、きっと楽しく続けられるのではないだろうか……。

そうやって、仕事だけではなく何事に対しても不便や不満の解決策を考える姿勢は、問題解決思考そのものです。

それだけではなく、洗濯ネットなど主婦の発明品の多くは日常の不便を解決したものであることを考えると、ビジネスチャンスにもなるということがわかります。

伸びる人は戦争で勝つことにこだわり、凡人は戦闘で勝つことにこだわる

戦争では、相手の攻撃を受けて自陣営の態勢が崩れたとき、立て直しのため一時撤退という判断がなされることがあります。

仮に局地戦で負けても、兵力をより重要な戦闘に再配置するとか、作戦を練り直して再攻撃するなど、「戦争に勝つ」という最終目的のために作戦本部が戦局全体を見据えた上で決断します。

そしてこれは仕事でも同じで、自分の提案を通すために、あるいはより大きな取引につなげるために、あえてこの取引では相手の条件を飲んでおくとか、今回の議論ではあえて負けておくという判断もあるでしょう。

つまり、自分の本当の狙いや目的を達成するには、「一時撤退」「局地戦で負けておく」も戦略のひとつだということです。

しかし凡人はこういう判断が苦手です。プライドが邪魔し、感情で判断するからです。

自分よりも年下の指示に従うのは、自分が小物のような感じがして嫌だ。相手の条件を飲むのはくやしい。議論に負けるのは腹立たしい。自分から頭を下げるのはプライドが許さない。といった感情に支配されるからです。

予約のない客がやってきたら

たとえばホテルのフロントの仕事。

予約リストにない客がやってきたとします。フロントは当然「お客様のお名前ではご予約は承っておりませんが……」と答えるでしょう。

しかしその客も「いや、予約したはずだ」と主張します。

それでもう一度予約台帳を見なおしても、やはりない。「やはり承っていないようですが……」と答えるしかないようにも思えます。

するとその客は「ほら、このメールを見てよ……あっ、月を間違えてた! スミマセン……」

ホテルのカウンター
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つまり間違えていたのは客だったのですが、優秀なフロントは満室でもなければこんな対応をすることはありません。

「申し訳ございません、私どもの手違いかもしれません。すぐにお部屋をご用意させていただきますので、少々お待ちください」

なぜなら、ホテルの目的は宿泊客を増やすこと、リピーターを増やすことのはずだからです。

ここで「ふふん、私が間違えるはずはないだろう」などと自分の自尊心を優先させ、どちらが正しいかを議論することに意味はないことがおわかりいただけると思います。

にもかかわらず、「自分は正しい、間違っているのは相手」という態度を押し通せば、自分の正しさを証明した代償に、客を一人失うことになります。

つまり、予約のやりとりという局地戦ではこちらの言い分を引っ込めて一時退却し、この客の部屋を手配することで追加の売上を取る、という戦争に勝つわけです。

感情を排し、「今この局面で、自分は負けておくべきか、あるいは勝つべきか」を冷静に判断する度量をつけることもまあ、目的達成力の強さにつながるのではないでしょうか。

伸びる人はANDで思考するが、凡人はORで思考する

憲法9条の改正には賛成でしょうか、それとも反対でしょうか。あるいは、いわゆる「ブラック企業」と呼ばれる企業は絶対悪だと考えているでしょうか。企業の英語公用語化には賛成か、それとも反対か……。

凡人は、「善か悪か」「白か黒か」「イエスかノーか」「賛成か反対か」という判断軸しか持っていません。これを二元論的思考と呼びますが、彼らは自分の考えと違うことには過剰に反発します。

しかし現実には、二元論的に白黒をはっきり決められることよりも、どちらとも判断のつかないグレーなことのほうが多いものです。

たとえば憲法9条の改正を戦争法案であると一切拒否する人もいますが、反対に戦争の抑止力になるという主張もあります。

ブラック企業問題も、現実には過去にブラック的な働き方をしてきた人がいま社会の中で活躍している現実をどう捉えるでしょうか。

日本を支える起業家のほとんどは若かりし頃、寝食を忘れて仕事に没頭してきた人ばかりです。そう考えると、ブラック的な労働環境は「ハイパー人材養成スクール」という考え方ができなくもありません。

あるいはヤマト運輸。彼らは当初、「郵便物は郵便局しか行ってはならない」という郵便事業法を犯してまで宅配ビジネスに参入して新しい市場と利便性を創り出し、そして法律まで変えさせました。

「法律違反は悪だ」と考えている人に、彼らのような配便事業のアイデアを思いつくことができたでしょうか。

正しさは状況によって変わる

以前、こんな話を聞いたことがあります。

地下鉄の中で、3人の子どもが走り回って騒いでいました。しかし、その父親とおぼしき男性は、下を向いたままほったらかしにしていました。

見かねた隣の女性が、「お子さんが騒いでいるのに注意しないのは良くないですよ。みんな迷惑していますから。」とこっそりと耳打ちをしました。

その男性はハッと顔を上げ、こう答えました。「すみません、気が付きませんで。さっき妻が病院で亡くなり、混乱していたんです」

それを聞いた女性は絶句し、「無責任な父親と、わがままな子ども」という印象が、「妻に死なれて呆然としている夫と、母の死を理解できないかわいそうな子どもたち」という評価に変わったのです。

自分の目の前の状況と、自分の勝手な倫理観で判断し、他人をどうこう言うことが、どれほど愚かなことかがわかります。

少し話がそれましたが、そもそも「正しさ」「正義」「善悪」「正誤」というのは状況や立場によって変わるものだ、ということを紹介したかったからです。

そしてそれを理解するには、自分の頭で考え、相手の主張の裏側を想像して行間を補ったりする必要があるわけで、そのためには、感情を排し、自分の価値観は脇において、客観的な視点で考える必要があります。

しかしそれは面倒くさい。他人の意見の根拠なんて考えたくもない。自分の意見が正しい。自分は間違っていない。だから自分とは違う人は間違っている。自分は変わる必要はない。相手が変わるべきだ。

結果として、他人の意見を尊重することなく、自分の感覚だけで結論を出したがる、というわけです。

コロナ禍のマスク警察や自粛警察がこれに当てはまります。

ではこれがなぜ仕事に影響するかというと、「代案」「よりレベルアップさせる案」「組み合わせる」という柔軟な発想ができなくなるからです。

たとえばA案とB案のどちらが良いか、なんていう短絡的な発想をするのではなく、両方の良い部分を組み合わせて第3の案にすることがあるでしょう。

交渉や問題解決でも、双方の言い分を受け入れて、落とし所を探すと思います。

しかし二元論にとらわれた思考停止人間は「それはダメ」「それはOK」という短絡的な発想しかできないため、成果もそれなりに終わるというわけです。

つまり仕事ができる人は「それもアリ」というANDで発想する一方、凡人は「どちらか」というORで発想する傾向があるという話です。