死ぬまで仕事をしていたい。2年前に股関節を骨折したときは引退が頭をよぎったというが、「休んでいるほうが疲れる」と仕事に復帰した。戦前から店頭に立ち、世界最高齢の薬剤師としてギネスに登録される比留間榮子さんが働き続ける理由は何か。そこにあったのは使命感でもやりがいでもなく、とても素朴な、けれどもずっと大切にしてきた“ある思い”だった――。

紛れもない現役の薬剤師

2年前に骨折をして入院生活を送った榮子さんは、リハビリの末、店頭にカムバックし、ヒルマ薬局の“看板娘”として仕事を再開した。

股関節を骨折し、2年間休んだあと仕事に復帰した比留間榮子さん。
撮影=市来朋久
股関節を骨折し、2年間休んだあと仕事に復帰した比留間榮子さん。

ギネスに載った看板娘といっても、決して単なる看板ではない。パソコンを操って常に薬に関する最新の情報を仕入れ、オンラインで薬剤師の勉強会にも参加している。紛れもなく、現役の薬剤師なのである。

榮子さんがヒルマ薬局の伝統である顧客との相談業務を75年以上もの長きにわたって継続してきた秘訣は何なのだろうか。

榮子さん流の「人との距離の取り方」を物語る、興味深いエピソードがある。

店内に響いた怒声

それは、ヒルマ薬局がひどく混雑した、ある夕方のことだった。

処方箋の中には調剤に手間のかかるものがある。たとえば難病などで、数十種類もの薬を飲む場合、朝・昼・夕の1日3回分をまとめて用意すると受け付けてから手渡すまでに長時間かかってしまうのだ。待つのが嫌な人の場合、午前中に処方箋を出して夕方取りに来ることもあるが、夕方は夕方で受け取りの人で混雑する。

「何ですぐに出せないんだ!」

店内に怒声が響いた。

榮子さんが声の主に目を向けると、それは高齢の男性だった。男性は一声怒鳴ったかと思うと、プイと店を出て行ってしまった。

普通なら「怒らせてしまったな」で終わりだろうが、榮子さんの対応はまるで違った。

男性が語りだした意外な事情

事前に記入してもらう問診票で男性の住所を確認すると、閉店後、その男性を訪ねることにしたのである。男性の住居は、都営三田線の終点近くにある団地であった。

今も印象に残るお客さんとのエピソードを話してくれた榮子さん。
今も印象に残るお客さんとのエピソードを話してくれた榮子さん。(撮影=市来朋久)

「もう暗くなってしまってお部屋を探すのが大変でしたけれど、なんとか探し当てて、ドアを開けてもらいました。申し訳なかったって謝ろうと思ったら、言い訳はいいってドアを閉められそうになったんで、ちょっと待ってくださいって、杖を挟んで閉まらないようにしたんです(笑)」

榮子さんが、お詫びを言いながらお店の状況を縷々説明すると、男性の怒りは徐々に収まっていった。そして、意外な事情を話し始めたのである。

「さっきは済みませんでした。実は、数カ月前に妻を亡くしまして、それまで妻がみんなやってくれていたこと、台所だ、買い物だ、掃除だ、洗濯だって、全部自分でやらなくてはならなくなって、薬の受け取りも自分で行かなくちゃならない。そういうことが重なって、ついカッとなっちゃってね」

独居の男性は、追い詰められていたのだ。

「怒った私のところに、わざわざ謝りに来てくれて嬉しいよ」

最後は感謝の言葉までもらって、榮子さんは引き上げてきた。

「私も気持ちがせいせいしたし、行ったかいがありましたよ」

こんなことでお客さんを怒らせてはいけない

「ちょっとしたおせっかい」を超えるようなことはしないはずの榮子さんが、なぜこの時は、これほど大胆な行動に出たのだろうか。

>比留間榮子『時間はくすり』(サンマーク出版)
比留間榮子『時間はくすり』(サンマーク出版)

「ちゃんとわかってほしいという思い、それに、お店とお客様を大切にしたいという思いですね。過去にはもっとたくさんいろいろなことがあったけれど、こんなことでお客様を怒らせちゃいけないと思ったら、必ず出向きましたよ」

恐れずに自分の思うところを相手に伝え、過干渉の一歩手前まで相手の人生に踏み込むことが、相手の孤独を癒やす場合もある。

ヒルマ薬局の暖簾をくぐる人たちが求めているのは、あるいは、そんな“適度な干渉”なのかもしれない。

孫とともに2号店に立つ

一緒に薬局を経営する家族とも、うまく関係を築いてきている。

実を言うと、榮子さんの長男は、2号店に当たるこの小豆沢店をオープンした直後、脳溢血で倒れている。集中治療室で1カ月にわたる治療を受け、なんとか一命はとりとめたものの、以来、池袋にある本店の階上の自宅で寝たきりの生活を送っている。倒れたとき、ふたりの息子(榮子さんの孫)は、まだ中学生だった。

孫の康二郎さんと。
撮影=市来朋久
孫の康二郎さんと。

そもそも榮子さんは本店の仕事をしていたが、長男が倒れてしばらく経った後、小豆沢店を担当するようになり、本店は長男の妻の公子さんが見ることになった。心理的な葛藤を引き起こしそうなシチュエーションではある。

「公子とはたまに行ったり来たりはしていたんだけど、ある日、孫たちが学校から帰ってきて、ただいまーって言うのを聞いて、ああ、私が本店にいちゃいけないんだなって思ったんです」

どういう意味だろう?

「だって普通だったら、ただいまーの後、お母さんは? って聞くでしょう」

その一言がないことに気がついて、榮子さんは本店と支店を入れ替わることにした。それも面と向かって相談をして取り決めたことではなく、自然にそうなっていったのだという。

「公子と孫の健太郎が本店を見て、康二郎が私とこっちにいますけれど、あんたあっちに行きなさい、こっちに行きなさいって言ったことはないんです。相談してどうこうってことじゃなくて、うちは自然にこんなふうになってますね。思えば、何かにつけて強く主張をするようなことはしてこなかったですね」

応援したくなるおばあちゃん

一緒に仕事をしている康二郎さんは、榮子さんのことをどんな人物だと思っているのだろうか。

「家族の応援がなかったら、さすがにこの年まではやってこられなかったと思います。じゃあ、なぜ応援したくなるのかといったら、おばあちゃんの、死ぬまで仕事をしたいという軸がまったくブレないからだと思います」

比留間榮子さん
撮影=市来朋久

なぜ、死ぬまで仕事をしたいのか。榮子さんの人生観が聞きたい。

「人生観なんて……あんまり深く考えてない(笑)。ただ毎日毎日をこうやって過ごせることが一番幸せじゃないですか。何か、出来事があって暮らしているほど恐ろしいことはないですからね」

「出来事があって暮らしている」というのは、不自然な言い回しだと思った。しかし、後になって、「出来事」が「戦争」を意味するのではないかと気づいたとき、榮子さんが大切に守り続けてきたものがはっきりと見えた気がした。