2021年、島津製作所が若手社員を大阪大学の博士課程に派遣する「REACHラボプロジェクト」をスタートさせた。企業と大学がタッグを組んでこうした試みを行うのは日本初のこと。その狙いとは──。

博士号レベルの高度人材を育てたい

島津製作所は、京都に本社を置く精密機器メーカー。医薬、環境、ライフサイエンスなどの科学技術分野を中心に事業を展開しているだけあって、社員には理系出身者が多く、技術者や研究者は入社時点で修士号を持っている人がほとんどだ。

島津製作所上席理事、大阪大学工学研究科特任教授、大阪大学・島津分析イノベーション協働研究所所長 飯田順子さん(左)、人材開発室室長 妹崎淑恵さん(右)、分析計測事業部、大阪大学博士課程在籍林田桃香さん(中央)。
島津製作所上席理事、大阪大学工学研究科特任教授、大阪大学・島津分析イノベーション協働研究所所長 飯田順子さん(左)、人材開発室室長 妹崎淑恵さん(右)、分析計測事業部、大阪大学博士課程在籍林田桃香さん(中央)。(写真提供=島津製作所)

しかし、その上の博士号レベルに達している人はまだ少数。これは同業他社でも同様で、日本の理系大学院生は修士課程を終えたところで就職することが多いためだという。

こうした現状について、島津製作所の技術部門で上席理事を務める飯田順子さんは「グローバルな共同研究でリーダーシップを発揮するには、修士ではなく博士レベルでないと厳しい」と語る。

「海外、特に欧米の研究機関では、ほとんどの研究者が博士号を持っています。それで初めて一人前というような雰囲気があるので、彼らと対等に議論し研究を進めていくにはやはり博士課程での学びが必要。日本企業には優秀な技術者も多いのに、修士で学びを終えてしまうのは、海外で活躍できる可能性を考えるともったいないなとずっと思っていました」

飯田さん自身は、薬学部を卒業したのち島津製作所に入社。最初の配属先では、質量分析装置を使った分析手法の開発などを担当した。しかし、数年が経つうちに「もっと質量分析の最先端を学びたい」という思いが募っていく。

同時に、海外出張で現地の研究者と意見交換する機会が増えたことから、「彼らと同じレベルで共に研究を進めるにはやはり学位が必要なのでは」と考えるようにもなっていた。

発案者は初の女性部長

25歳のころ博士号を意識しはじめたという飯田さんは、28歳から業務の間に博士号取得に向けた研究を始めた。そして研究に専念するという経験を求めて、2年後にバージニア州立大学への留学という形で思いを叶えた。

発案者の飯田順子さん。20代のころに博士課程で学ぶ道を模索し留学した経験がある。
発案者の飯田順子さん。20代のころに博士課程で学ぶ道を模索し留学した経験がある。(写真提供=島津製作所)

会社に掛け合った末、仕事は復職を前提として1年間休職。この間給与は出なかったわけだが、海外の研究現場を体感できたこと、最先端の学びを得られたこと、そして外から日本や会社を見られたことは大きな収穫になったという。念願の博士号も母校の薬学部から授与され、飯田さんは新たなスタートラインに立った。

2006年には、島津製作所では女性初の部長に就任。科学技術系の企業は、そもそも理工系の女子学生が少ないこともあって女性比率が低いことが多い。同社も例外ではなく、女性管理職比率は今もメーカー平均を下回っている。

新人時代には、労働基準法に基づいた母性保護で、女性への残業規制があった。責任を持ってやり終えたい仕事を途中で男性社員に渡さねばならない場合も多く、悔しい思いをした。会社に「女性の残業規制をなくした上で男女問わず残業を減らす方向へ」と提案したこともあったという。

残業規制や学位取得への道筋など、働く中でぶつかった壁を、飯田さんは自ら会社に働きかけることで乗り越えようとし続けてきたのだ。

「伸ばしたい事業分野の研究室へ」戦略的に派遣

そんな彼女が発案したのが、2021年4月に始まった「REACHラボプロジェクト」だ。これは、島津製作所から30歳前後の若手技術者や研究者を大阪大学の博士課程へ派遣し、大学と一体となって高度グローバル人材を育成しようというものだ。

両者は共同研究講座や「大阪大学・島津分析イノベーション協働研究所」を開設するなど、以前から研究や協業の面で連携を深めてきた。だが、若手の育成を目的にタッグを組むのは今回が初めて。人材開発室室長の妹崎淑恵さんは、「一般的な企業の学位取得制度とは違い、より戦略的に博士号取得を支援していく」と意気込みを語る。

「当社が伸ばしたい事業分野と大阪大学の先生が研究しているテーマとをマッチングして、該当する研究室へ若手社員を派遣します。業務を完全に離れて研究に集中することで知識と人脈を広げてもらい、復社後には博士レベルの研究能力を持ったリーダーとして活躍してもらいたいと思っています」(妹崎さん)

自身が悩んだ経験から若手を支援

選抜された社員は大学院入試を経て、大阪大学の「REACHラボ」に在籍。ここで指導教員や大学院生らとともに研究を行い、2~3年かけて博士号取得を目指していく。入学金や授業料などはすべて会社負担で、派遣中は社員が確実に成果を出せるよう協働研究所が伴走するなど支援も手厚い。

こうした仕組みになったのは、発案者の飯田さんが、若手がさまざまな経験をしやすい環境をつくりたいと考えていたからでもある。

「以前から社内には、優秀な若手は積極的に異動させて色々な部署を経験させようという方針がありました。でも現実的には、優秀な若手は部署が手離したがらない。違う環境を経験して成長したいという若手は多いので、何とかしたいなと思っていたんです」

では会社が大学院に派遣して、新しい環境で最先端の研究に触れる機会をつくってはどうか。そう思いついたとき、真っ先に浮かんだのが以前から連携していた大阪大学だったという。もともと飯田さんは協働研究所の所長でもあり、大学の研究者やその研究テーマについてもよく知っていた。

大阪大学には、島津製作所がこれから伸ばしたいと考えている事業分野を研究している先生がたくさんいる。なのに、その先生たちと共同研究やディスカッションをする機会を得られるのは、かなり高いレベルの知識を持った社員だけ。まだそのレベルに達していない若手を送り込む仕組みをつくれば、高度人材育成や自社の発展に、引いては日本の科学技術発展につながるのでは──。

話はとんとん拍子に進んだ

この考えを大阪大学に話したところ、大学側は大賛成。以前から技術者や研究者の育成に貢献したいと考えてはいたが、どう具現化すればいいか迷っていたというのだ。飯田さんが打診したのは2020年の夏、プロジェクトが実現したのは翌春。このスピード感を見れば、両者の思いがいかに合致していたかがよくわかる。

「成長したいと思ったらどんどん成長できる、学びたいと思ったらすぐ実現できる。そんな道筋を、意欲ある若手につくってあげたかったんです。今思えば、自分が学位を取りたいと考えたときに方法がわからなくて苦労したからかもしれないですね」(飯田さん)

加えて、事業の発展につなげるための仕組みもしっかりとつくられている。社員に学んでもらうのは、あくまでも島津製作所の事業戦略にのっとった分野。そのため、研究テーマは事業部をはじめ経営戦略室や技術推進部などが一緒になって検討し、その上で大学と相談して決めていくという。

派遣した社員に期待するのは、グローバルな共同研究の成果を事業や製品に反映し、社会に還元すること。同社としては、この一連の流れを通して企業理念である「科学技術で社会に貢献する」を実現したい考えだ。

記念すべき第1号

2021年4月からは、トライアルとして1名が大阪大学薬学研究科の博士課程に派遣されている。研究対象は、島津製作所が研究開発の重要テーマと位置づけている「核酸医薬品の分析」だ。

記念すべき第1号となったのは、入社3年目の林田桃香さん。理学部の修士課程を終えたのち同社に入社し、分析計測事業部の研究職に就いた。院生時代に博士課程へ進まなかったのは、「企業に入ることで、いま自分が持っている専門性と社会の実情を照らし合わせたかったから」と語る。

しかし働くうちに、修士課程で研究したDNAや核酸などのバイオサイエンスと、仕事現場で学んだ質量分析の知見を融合したいという思いがふくらんだ。

「バイオサイエンス+機器分析のプロになりたい、そのために一度職場を離れて学問としてしっかり学びたいと思うようになったんです」(林田さん)

当時はまだREACHラボプロジェクトがスタートする前。林田さんもまた飯田さんと同じように、学ぶための道を模索した。博士号をとりたい、でもどうすればと悩み、「母校の大学院に戻ろうかと思っている」と上司に相談もした。

そこへ同プロジェクトの話が持ち上がり、上司の推薦によって第1号に決定。現在は会社を離れ、大阪大学のREACHラボで、核酸医薬の品質管理工程における分析手法を研究している。

研究室に入って約半年が経った今、林田さんは「学生時代にいたラボに比べて教授陣も学生数も多く、いろんな研究が同時に、すごいスピードで進んでいる」と驚きを語る。議論のレベルも想像以上に高く、毎日が刺激的だという。今後3年は学問に集中し、復社後には研究成果を生かして核酸の分野で新たな価値をつくり出していくつもりだ。

男女問わず「意欲ある若手」を派遣していく

林田さんに続く人材についても、社内公募を準備している。選抜基準は男女関係なく「意欲ある若手」で、今後5年間で10名ほどの派遣を目指す。研究テーマは医薬だけでなく、AIや情報科学、人文系、さらには複数の学問領域にまたがる学際分野にも広げていく予定だ。

飯田さんは「グローバルに活躍できる高度人材を育て、まだ答えのない課題に対して正解を出していくこと。それが当社や日本の成長につながるはず」と力を込める。

島津製作所と大阪大学の挑戦はまだまだ続いていく。日本は科学技術大国と言われるが、グローバルに戦える技術者や研究者を今後どう育成していくか、悩んでいる大学や企業は多い。REACHラボプロジェクトは、そうした課題に対するひとつの解になり得るのではないだろうか。