PR担当者としてマットレスのエアウィーヴや鍋のバーミキュラをヒット商品に押し上げるのに貢献し、32歳でPR会社を起業した笹木郁乃さん。工学部を首席で卒業したリケジョが「PRのプロ」になるまでの、波乱万丈の道のりとは――。

PRの力で人の役に立ちたい

笹木さんが社長を務める「LITA」は、企業や起業家、広報担当者を広く支援するPR会社。企業向けのPR代行事業と並行して、今までに4000人以上もの経営者や個人事業主、広報担当者に自身のPRスキルを伝えてきた。また、主宰する「PR塾」は、5年間連続満席で開講している。

LITA代表取締役 笹木 郁乃さん(写真提供=LITA)
LITA代表取締役 笹木 郁乃さん(写真提供=LITA)

PRは広告とは違い、自社の商品やサービスを記事やニュースに取り上げてもらうことを目的とするもの。PRが功を奏してテレビ番組などで取り上げられると、まったく無名だった商品が一夜にして大ヒット商品に化けることもある。笹木さんも、独立前には2つのメーカーでこの「魔法」を起こしてきた。

「その魔法を体験できたことが、私がPRの仕事にハマったきっかけでもあります。商品の売り上げが伸びれば、それによって幸せな人が増えることもある。そう気づいて以来、PRの力で人の役に立ちたい、誰かを幸せにしたいと思い続けてきました」

父親がうつ病で退職し、貧しい家庭で育つ

4人兄弟の次女として生まれ、貧しかったがのびのび育つ。
4人兄弟の次女として生まれ、貧しかったがのびのび育つ。(写真提供=LITA)

こうした思いが形作られたのは幼少期の経験にあるという。サラリーマンの父と専業主婦の母の間に、4人兄弟の次女として生まれた笹木さん。父親がうつ病で退職したこともあり、家庭は貧しかった。それでも雰囲気は温かく、「やりたいことをやりなさい」という両親の方針のもと伸び伸びと育った。

人生の大きな転機と捉える出来事があったのが小学校2年生のとき。交通事故に遭い、開頭手術を受けたのだ。幸い手術は成功したが、20歳までに後遺症が出るかもしれないと言われてしまう。

子ども時代に立てた2つの目標

この経験から、笹木さんは子ども心に2つのことを強く意識するようになった。1つは、人の役に立つ人になりたいということ。自分の命を救ってくれた医師や看護師と同じように、「この人がいたから助かった、人生が変わったと言われるような仕事をしたいと思うようになった」と振り返る。

小2のころ、交通事故に遭って大手術をしたことが人生の大きな転機となった
小2の頃、交通事故に遭って大手術をしたことが人生の大きな転機となった(写真提供=LITA)

「もう1つは、いつ死んでも後悔しないように毎日全力で生きようと。その後、小学校4年生のときにも事故に遭ってしまい、同じことをより強く思うようになりました。やんちゃに過ごしながらも命を身近に感じ続ける、そんな子ども時代でした」

ただ、将来の職業に関しては「自分が全力で打ち込めて人の役に立つ仕事」というだけで特に具体的な目標はなく、高校卒業後は学費が安い、数学が得意という理由で国立大学の理学部数学科へ。しかし、この学びを将来どう人の役に立てられるのかがわからず、数学に情熱を傾けられないまま悩む日々が続いた。

20歳で死ぬかもしれないのに打ち込めるものがない

そのとき笹木さんは18歳。20歳で死ぬかもしれないのに、全力で生きられていない自分がもどかしかったという。そんなある日、工学部でモノづくりの授業を受ける機会があり、「これなら学んだことを生かして人の役に立てる!」とハッと気づく。

そこで工学部に移ろうと考えたが、理学部からの転部希望者は大学初。勇気を出して申請してみたものの、前例がないことから最初は大学側の対応も鈍かった。

何度も連絡を取り合った末、ようやく筆記試験と面接を受けられることになり、晴れて合格。前例がないことも、勇気をもって行動すれば実現できると初めて知った瞬間だった。転部後は、全力で学べる対象が見つかったことから意欲も高まり、せっかくだから首席で卒業しようとひたすら勉強に励んだ。

「この転部という選択を、絶対に『成功だった』と思えるものにしたかったんです。結果的に転部も首席での卒業も実現できたことで、努力すれば願いはかなう、成功できると身をもって知ることができました。本当に挑戦してよかったと思っています」

卒業後は、愛知県の大手自動車部品メーカーに研究開発職として入社。就職先は安定した大企業で、仕事内容も「人の役に立てる」と思えるもの。努力が実ったと実感できる、希望に満ちたスタートだった。

会社に行けなくなった私を支えた1冊の本

しかし、その思いは早々に打ち砕かれる。新人のため担当できるのは工程のごく一部だけで、役に立ちたいという熱意は空回りするばかり。成果も思うように出せず、優秀な同期の中で自分だけが落ちこぼれていくような感覚を味わった。

3年が経つ頃にはすっかり自信をなくし、働く目的も仕事への情熱も失ってしまった。やがて会社にも行けなくなり、すがるようにして訪ねた精神科で「仕事を変えてはどうか」とアドバイスを受ける。

「同じ頃、バレーボールの故・横山友美佳選手の著書に出合ったんです。がんと戦いながら夢を追い続けた姿に励まされ、子ども時代に命を救われた自分がここで落ち込んでいる場合じゃないと。大学で転部したときのように、勇気を出して動かなきゃと思いました」

40社受けて全滅

転職を決意し、初めて「自分はどんな職に就きたいか」を真剣に考えたという笹木さん。そこで浮かんできたのが小さな会社の営業職だった。商品をたくさん売って会社が成長すれば役に立っている実感が得られるはず、そのためなら全力で頑張れるはずと考えたのだ。

とはいえ、現実は厳しかった。最終商品を扱っている小規模な会社を探して応募し続けたものの、営業未経験のためなかなか雇ってもらえない。「40社ぐらい受けて全滅でした」と笑いながら振り返る。

最終的にようやく受かったのが、当時はまだベンチャー企業だった愛知県の寝具メーカー「エアウィーヴ」だった。最初は、自分はマットレスを売る仕事に全力で打ち込めるのだろうかと迷ったそうだが、面接で「この会社を日本一にしたい」と熱く語る社長の姿に心を打たれたという。

年収が半減しても、やる気に満ちていた

「私も社長と夢を共有したいと思って入社を決めました。まだ数名の会社でしたし、大企業からベンチャーへの転職ということで年収も半分ぐらいになりましたが、全然気になりませんでした。そんなことより、やっと目標が見つかった、全力でやるぞとワクワクした気持ちでいっぱいでした。燃えていましたね」

がむしゃらに営業する日々が始まった。だが成果はいまひとつ。店頭販売をしていると、隣の有名ブランドのマットレスは「雑誌で見たから」と客がどんどん買っていく。一方、自社の商品はどんなに声を張り上げても1日1枚売れるかどうか。これほど違うのはなぜか、どうすれば隣のブランドのように売れるようになるのか──。

一夜にして会社が変わった「PRの魔法」

たどりついた結論は、エアウィーヴを「選ばれるブランド」にすること。そのためには、雑誌やテレビなどに露出して認知度や信頼度を上げていく必要があるが、広告を打つのにはお金がかかる。「だったら、お金をかけずにできる“PR活動”をしてメディアに取り上げてもらおう」。社長の発案で社内にPR広報を置くことになり、初代には笹木さんが任命された。

エアウィーヴ時代の笹木さん
エアウィーヴ時代の笹木さん。(写真提供=LITA)

経験ゼロからのスタートで、最初はメディアの人間に連絡するのもおっかなびっくりだったそう。しばらくは何の成果も出せなかったが、あきらめずにメディアに連絡をとり続けたところ、1年後にようやく努力が実った。地元のニュース番組でエアウィーヴを取り上げてもらえたのだ。

そこから少しずつ知名度が上がり、3年後にはメディアの常連に。指名買いしてくれる客が増え、スポーツ選手の間でも評判が広がり始めた。さらに上を目指してPR活動を続けた笹木さんは、やがて「魔法」を体験する。

「地元のあるTV番組で紹介され、その途端注文が殺到するようになったんです。問い合わせの電話が鳴りやまず、製造も追いつかなくて私もマットレスづくりを手伝ったぐらい(笑)。会社の運命ってPRでこんなに変わるんだと実感した瞬間でした」

草むしりをしていた職人がフル稼働に

当時は社屋もなく、工場の一角で仕事をしていたことから、笹木さんは一夜にして製造現場が劇変するのを目の当たりにした。それまでは職人も「たくさんつくっても余っちゃうから」と暇そうにしており、皆で工場周辺の草むしりをして時間を潰したこともあった。それが一転、つくってもつくっても足りない状態になったのだ。

自分たちの商品が世に求められるようになり、現場には意欲がみなぎった。職人にも社長にも笑顔が生まれ、自身も皆を幸せにできたこと、会社の運命を動かせたことに大きな喜びを感じたという。

5年で売り上げが100倍超

この出来事をきっかけに会社は急成長。入社時にたった数名だった従業員は5年間で約400人に増え、1億弱だった年商は115億以上にまで伸びた。工場も増設され、本社は愛知から東京へ移転。同社の躍進は今もなお続いている。

「これだけ成長できたのは、まず商品そのものがよかったから。そのことを、PRの力でたくさんの人に知ってもらえて本当にうれしかったです。それに、会社を大きくするステージはとにかく楽しかった。この経験がなかったら、自分で起業することもなかったと思います」

人の役に立ちたい、毎日全力で打ち込めるものがほしい──。子ども時代に胸に刻んだ2つの「人生の目的」を、PRという分野で見つけた笹木さん。だが、起業するまで、そして事業を軌道に乗せるまでにはさらにいくつもの壁があった。(後編に続く)