結果を出したのに認められない…
20代の頃、寝具メーカー「エアウィーヴ」のPR広報として、無名だったマットレスを一躍ヒット商品に押し上げるのに貢献した笹木さん。会社が急成長していく姿を目の当たりにし、PRの力を実感するとともに、1つの大仕事をやりきったという達成感を味わった。
ところが、会社は急成長に伴ってより高いレベルの広報を求めるようになり、外部から人材を招聘。笹木さんの上司にあたるポジションにそうした人材が着任した。その方針に対して、「今なら経営者としてよくわかりますが、当時は若かったので『私を認めてくれていないのかな』とがっかりしてしまった」と振り返る。
専業主婦になるか転職するか
少しずつモチベーションが下がり始めたところへ、出産・育休が重なった。約1年後に職場復帰したものの、優秀な後任スタッフがいて居場所が見いだせず、本社も愛知から東京へ移転。笹木さんは愛知在住のまま時短勤務を続けていたが、育休前のように全力投球できる場所が見つからず、不完全燃焼の状態が続いた。
「仕事も子育てもどちらも中途半端になってしまったんです。大泣きする息子を、後ろ髪を引かれる思いで預けて出社しても、それでいいんだと思えるほどのやりがいが感じられない。専業主婦になるか、全力でできる仕事に転職するか、どちらかを選ぶしかないと思いました」
もう一度ブームを起こしたい
このまま同じ会社でのんびり働いていこうかとも考えたそうだが、「毎日を全力で生きたい」と突っ走ってきた笹木さんにとって、その生き方は受け入れがたかった。もう一度PRの力で会社を動かし、やりがいを感じたい──。その思いに応えてくれたのが、地元の小さな鍋メーカー「愛知ドビー」だった。
同社の代表的な商品は「バーミキュラ」という鋳物ホーロー鍋。一時はメディアにもよく登場して大人気商品になったが、数年たつうちに少しずつ下火になり、広報担当者もいないことからメディア露出の機会も少なくなっていた。
これがPR魂に火をつけた。もう一度ブームを起こそう、バーミキュラを盛り上げようと決心し、久しぶりにワクワクしながら前職で培った広報スキルをすべて注ぎ込んだ。
バーミキュラを12カ月待ちの人気商品に
「当時、新商品が出る計画もなく、リニューアルをするわけでもないというPRにはとても不利な状況でした。だから、基本的な商品紹介から製造現場の裏話まで、さまざまな切り口を考えてメディアにアタックしていきました。結果が出ずあきらめかけたこともありましたが、やり続ければいつかは実を結ぶと思って、自分なりにモチベーションを保つ工夫をしていましたね」
その工夫とは、「1日3件メディアに電話する」という目標を達成できたら、たとえ結果につながらなくても自分を褒めること。こうして小さな目標を地道に達成し続けた結果、1年ほどたってついに「PRの魔法」が起こった。
全国放送のTV番組で商品が取り上げられ、爆発的に売れ始めたのだ。バーミキュラはあっという間に12カ月待ちの人気商品となり、会社はその後2年で年商が約4倍に。転職の際に抱いていた願いは、最高の形でかなえられたのだった。
だが、仕事と子育てにフル回転の日々が続いたせいか、ある時期から「息子との時間が少なすぎる」と感じるようになる。時間配分を自分でコントロールできるようになりたいと思い始めたのだ。
同時に、もっと多くの人の役に立ちたい、新たな挑戦をしたいという思いも強くなっていた。このとき、人生で初めて「起業」が頭に浮かんだという。
起業後、まったく売れなくてもへこたれなかったワケ
起業を意識しながらSNSを見てみると、女性の起業家が意外と多いことに気づいた。しかし、「人の役に立ちたい」という思いばかりが先走って、具体的にどんな仕事なら起業できるのかがわからない。自分の何を武器としてどう売り出せばいいのか、笹木さんはしばらく悩み続けた。
「知人に相談したら、PR活動で実績を出しているんだから、その分野で起業すれば人の役に立てるんじゃないかと言われたんです。PRが起業に結びつくほどのスキルだとは思っていなかったのですが、それならやってみようと」
さっそくブログやSNSで「PRコンサルティングをします」と発信すると、読者の1人から申し込みが。その人に喜んでもらえたことが自信になり、退職・独立の決心を固めた。
とはいえ、最初から順調だったわけではない。コンサルの依頼はポツポツとしか来ず、自ら設定した定員を満席にするために、友人にコーヒーをおごって参加してもらったこともあった。それでもくじけなかったのは、これまでの経験で「どんなにいい商品でも最初は売れなくて当たり前」と知っていたから。
「自分が売れなくても挫折感はなかったですね。それよりも、売れないものを売れるようにしていこうとしているんだから、覚悟を持って長所をきちんと伝え続けなければいけないと思っていました」
「社長にはついていけない」スタッフの離職が相次いだ
地道なPR活動に加え、丁寧なコンサルティングも評判となって顧客は徐々に増え、笹木さんはやがてマンツーマンではなく講義形式の「PR塾」をスタート。さらに、企業向けのPR代行事業もスタート。そのうち個人事業では追いつかなくなり、事業拡大を見据えてスタッフを採用し始めた。
個人起業家から経営者へと成長を遂げたわけだが、ここで大きな壁にぶつかる。スタッフの離職が相次ぎ、最終的には9割もの人が辞めていってしまったのだ。顧客の役に立とうと熱くなるあまり、スタッフをまったく顧みなかったのが原因だった。
笹木さんは当時の自分を「常に指示を出すばかりで感謝の言葉をかける余裕もなかった」と反省する。スタッフとは仕事への思いを共有するどころか、顧客へのコミットに全力を注ぐため、雑談する時間さえ惜しいと思っていたという。そうした態度に、辞めていく人の中には「社長にはついていけない」と言った人もいた。
「でも、その頃は辞めていく人が悪いと思っていたんです。何がそんなに不満なんだろう、根性がないんだろうなって。そんな私の態度に、とうとう頼りにしていた役員までが辞めると言い出して……。恥ずかしい話ですが、それでようやく目が覚めました」
役員の言葉で「このままではいけない」と自覚
その役員とはPR塾をきっかけに知り合った。お互いの話をするうちに、日本一のPR会社を作りたいというビジョンが、同じことが分かった。お互いの強みが違い、ビジネス的に補い強化しあえる関係だとも感じ、一緒にやることになった。彼は経営者としての経験も長く、会社が成長していく上で、絶対に必要な人だと感じていた。
その彼から「社長の器や人間性が大きくならないと会社は絶対に成長しない。会社が成長しなくてもいいのか? 今のままなら、一緒にやる意味がない。」と、きっぱり言われてしまったのだ。起業から3年後、本気で日本一を目指すなら私が変わらなければならないと痛烈に思い知らされた出来事だった。
同じ時期、笹木さんは人間学を探求する月刊誌『致知』に出合う。この雑誌でさまざまな経営者の体験談に触れたことが、いい組織のつくり方やリーダーのあり方、人材の育て方など多くの学びにつながっていった。
「学ぶにつれ、自分が間違っていたと強く感じるようになりました。今は仕事を通して社員と一緒に成長したい、お客様だけでなく社員にも喜んでもらいたいと強く思っています」
売り上げは昨年比5倍、5億を達成見込み
社名も、利他の心でやっていかなければという思いから『LITA』に変更。それから2年がたった今、退職者も大幅に減少し、事業も順調に拡大を続けている。コロナ禍でも需要が低下することはなく、売り上げは昨年比5倍、今年度の年商は5億を達成する見込みだ。
PRという仕事柄、本社は東京に置いているが、自身は愛知から東京への遠距離通勤とリモートワークでバランスを取りながら仕事をしている。社員も7割がリモートワークになり、その働きやすさから子育て中の女性が7割を占めている。
「お客様も社員も含めて、たくさんの人の役に立って、たくさんの人の人生を輝かせたい。今後は売り上げも、当社との出会いで幸せを感じていただける人の数も、すべてにおいて日本一を目指していきたいですね」
今はやっと土台ができ、日本一への階段を登り始めたところだそう。今までの困難を共に乗り越えてくれた役員は、現在も一緒に会社を支えてくれている。心強い仲間たちとともに、笹木さんの挑戦はこれからも続いていく。