見たかったのはこれじゃなかった
見たかったのはこれじゃない。シンプルに、そう思った。コロナ、復興、サステナブル、エッセンシャルワーカーへの感謝、括弧付きの「多様性」、火消しとジャズと歌舞伎、いろいろな要素が粗雑に切り貼りされざるを得なかった、丸ごと「誰かに向けて組み立てられたアリバイ」のような開会式。
心のどこかで良い意味での裏切りを期待して観た閉会式は、開会式の抽象・観念中心のコンセプトから日本の具体的な「日常」や「暮らし」へ降りて魅力を伝えるという意思が感じられたものの、舞台や空間の使い方も小劇場的発想を脱していないとの印象が強く、否定できぬ失望と退屈の中で「いつどうやって終わるんだろう」と最後の着地を待った。
「国立競技場のアサガオが」「私たちの旅はまだまだ続きます」「この景色を忘れないで」との橋本聖子大会組織委員会会長の閉会スピーチは、どこかの中学の卒業式で人の良い校長先生が生徒に「贈る言葉」みたいだなぁ、と思いながら聞いた。バッハIOC会長のスピーチは、開会式の半分の尺になっていてホッとした。非難されることが前提で口を開く時、「誰からも非難されないことを意図した表現」とは「なんら相手の心に残らない表現」なのだとあらためて知る。
これは、ナショナルイベント規模の表現じゃない。もし開閉会式がフルサイズの有観客で、直前にさまざまな裏事情で降りていった人々がそこにいたのなら別物になったのだろうか。いや、きっと、全く、そういうことではないのだろう。感心したのは壮麗なプロジェクションマッピングや開会式のドローンだったけれど、それはピンポイントに「技術」の話だ。
痩せ細った開閉会式を世界に発信した
日本という社会、構造、組織が総出で五輪を台無しにした気がするのだ。世界中からやってきた選手たちの頑張りと輝きを否定する者など1人もいない。だが、「日本は2016リオ五輪のフラッグハンドオーバーがピークだった」と皮肉られるほど、痩せ細った五輪開閉会式を世界に発信することになったのは、日本という仕組みそのものが痩せ細っているからじゃないのか。
困難なのは世界中の誰もがわかっていた。この夏、五輪が本当に東京にやってくるまでの一連の過程を経験した日本の子どもたちは、「オリンピックって政治なんだ」と深く胸に刻み込んだだろう。
「見限られた」開会式
「日本はエンタメ二流国、センス悪い」「とことんグローバルサイズのエンタメが下手だよな」「全部、MIKIKOを降ろした電通のせい」「椎名林檎はどこ行った」「どうせ世界に通用するのはクールジャパンだけだったんだから、サブカル全力で世界の期待に応えればよかったんだよ」「日本でゲームと言ったらまず任天堂だろ。任天堂楽曲だけがまるっと不在なのは、前任チームの演出から任天堂を外して怒らせたから」。SNSで、視聴者の批評が沸き上がる。
昨年末にオリジナルの演出チームが解散、そこで潮目も演出方針も大きく変わってしまったと報じられた。あのオリジナルメンバーの顔ぶれなら、もしこの同じ状況でアリバイを作らされるにしても、もっと上等なトリック、上等な仕掛けで、上等な事件を起こしつつ巧妙なアリバイを企んだはず、と、心のどこかで夢を見る。ただ、オリジナルメンバーはもうそれに自分たちの創造性を費やすことに価値を見いださなかった。彼らがクビになったとか解散させられた、というのは手続き上の話。2020東京五輪のすったもんだを、ある意味、オリジナルの演出チームは「見限った」のだ。
去った人も、残った人もつらい
日本のエンタメを代表する錚々たる面々が去ったあと、漏れ聞こえてくる開会式周りの話は甚だお粗末だった。失言で誰かが降ろされたとか、直前に慌てて誰かと誰かが辞任したとか出演辞退したとか、ギリギリまで二転三転、日本全国が大騒ぎだったのは記憶に新しい。
そもそも開催自体に国内外から賛同も共感も得られないのだ。姿を変えて何度も襲ってくる地球規模の疫病という脅威、初めての経験、不安だったのはみな同じ。アサインされた制作チームも演者も、失敗前提、満身に批判を受けること前提で作らなきゃいけないストレスたるや、壮絶なものがあっただろう。
たぶん、降りた側の人々からしても、元々「できれば触りたくない案件」だっただろうことは、想像に難くない。そして、降りずに最後までその場に立ち続けた人たちも、最後まで自分の頭の中に自問自答の声が絶えることはなかったと思う。
「手のひら返し」と呼ぶのは簡単だ
五輪開催中、「手のひら返し」「二枚舌」という言葉があちこちで散見された。
開幕前は五輪反対論、少なくとも五輪不安を報じていたメディアが、一転してどこもお祭り騒ぎ、記事や番組を次々と放出していく。もちろん彼らがプロフェッショナルとして、事前に十全に人材を組織し、企画していたものだ。それは「五輪をやるなら報じないわけにはいかない」ところから始まったもので、私はそのメディア人たちのギアチェンジを間近で見ていた。
五輪は開催すると決まった。朝の情報番組でも、舞台装置が一斉に五輪色になり、五輪モードがキックインし、出演者は選手への応援メッセージを口にする。ウェブや紙メディアでも次々と五輪企画が始まり、編集者たち、書き手たちが粛々と原稿を書く。約50年ぶりにやってきた東京五輪という歴史的な瞬間に居合わせた人間として、彼らが自分のモードを変え、ベストを尽くすことに集中していったのを、私はそれもプロフェッショナリズムだと思う。
政治家たちが、五輪開催を決めた。あらかじめ準備されていた予算や企画が(はるか)上方で動き出す。ならば、自分たちにはそれを報じる仕事がある。賛否ある困難な状況の中で、自分がアサインされた仕事をどうやり遂げるか。報じる人々も、組織人として相反する気持ちの中で葛藤していた。
「どんな顔して批評すればいいのか」
例えば、NHKや民放など所属の垣根を越えて五輪の実況やインタビューなどを担当するジャパンコンソーシアム(JC)に参加することになったフジテレビ・倉田大誠アナは、同じくJC組の森昭一郎アナ、フジの五輪キャスターに抜擢された宮司愛海アナとともに、配信限定の番組で五輪前の心情を語っていた。全員が「困難な状況での開催」と「そこに自分がアサインされたことの意味」を真正面から考え、日々努力を重ねていた。
倉田アナの実況は、ネットでも大評判となった。新競技スケートボード(ストリート)での、豊富な競技知識に支えられながらも極端に煽らない「ゆるい」実況は、リラックスした中でクールな技を決めるスケートボードのカルチャーを体現していたとも評価された。「13歳、真夏の大冒険!」との名実況はSNSで大人気を博し、愛すべき偉大なる解説者・瀬尻稜氏とのオフビートな掛け合いについてもあちこちのウェブメディアで二次的な記事が書かれたが、あれは報道や情報番組の放送当事者として世論に十二分に触れる倉田アナなりに考え抜いた、複雑な背景を抱える「2020東京五輪」ならではの、極めてクールな実況のあり方だったのだろう。
五輪反対を唱えていた立川志らく氏が、五輪開幕後に開会式の感想を聞かれて「どんな顔して批評すればいいのか」と正直に吐露したとも報じられ、だが「選手は応援」との方針を崩さずにいたのも印象的だった。そう、当たり前だが、どれだけ五輪自体が政治的なものと言ったところで、オリンピックの舞台に上がって戦う選手たちの輝きを応援しない人など、誰一人としていないのだ。
海外メディアで皮肉に評された、無観客開会式での「ぬるま湯のような拍手」は、東京五輪を見つめる全ての人の複雑な思いをそのまま映したものでもある。
私たちが放り出される空虚な「アフター五輪」社会
東京五輪を象徴する、開閉会式の話に戻ろう。表現する仕事につく人ならば、制約があるのは言い訳にならない。むしろ制約は表現を研ぎ澄まし、制約こそ表現者の本当の実力を問うてくるものだからだ。
だが東京五輪は、1964年の東京五輪と比べても、他都市の五輪と比べても、あまりにも「未曾有」の過酷な条件下にあった。もちろん、最大の要因は新型コロナウイルスのパンデミックだ。だが開催決定から実際の開催に至るまでの道のりもまた、SNSの爆発的な広がりにドライブされる社会の急激な変容によって、ロゴも競技場デザインも会場も人材も、あらゆる「キャンセル」にまみれた。怒りや悪意をものすごい勢いで吸着して膨れ上がり、本来同義ではないはずの「反論する」と「罰する」を容易に直結させるネットのキャンセルカルチャーは、個人の振る舞いだけでなく、政治も、ナショナルイベントまでをも左右する脅威となっている。
IOCバッハ会長は「一度開催されれば、世界も日本もきっと盛り上がるだろう」と発言した。だが米国の五輪放映を独占するNBCユニバーサルによれば、東京五輪の視聴率はリオ五輪から急減している。リオと東京では米国時間との時差も異なるので簡単には比較できないが、翻って日本でも、日本人たちは64年東京五輪ほどには五輪番組を見ていなかった。国内でも、世界でも、ネット社会とコロナ社会が2本立てで怒涛の進行を続け、スクリーンで見るチャンネルやコンテンツの選択肢が圧倒的に増えた中で、五輪の相対的な価値が下がったとは言えそうだ。
五輪閉幕後、菅首相は「さまざまな制約のもとでの大会となったが、開催国としての責任を果たして無事に終えることができた」と語った。足元での急激な感染拡大と緊急事態宣言の再発出を考えれば、成功とは程遠い。閉会式のフラッグハンドオーバー映像で痛感した、同時代の地球の風景とは思えない密で華麗なパリの喧騒とは対照的に、五輪の矛盾に振り回された日本の私たちが放り出される空虚な「withデルタのアフター五輪社会」は、いつもの東京の遠景と同じく灰色のままだ。