田澤恵津子さんは、山口県防府市で、竹を使ったタオルや洗剤を製造・販売する「エシカルバンブー」代表取締役を務めている。山口にまったく縁のなかった田澤さんがここに至るまでには、目まぐるしい転職経験があった――。
エシカルバンブーの田澤恵津子さん(前列右から3人目)と同社スタッフ
写真=本人提供
エシカルバンブーの田澤恵津子さん(前列右から3人目)と同社スタッフ

大手百貨店の受付で「二足のわらじ」の名物社員に

両親、親戚共に東京在住で東京生まれの東京育ち。竹からは遠い環境で育った田澤さんだが、幼い頃から心に決めていたことがある。

「兄が重度の障がいを持っていて、右半身が使えないんです。その姿を小さい頃から見てきて、将来、兄の面倒をみることは自分にしかできないだろうと常に意識していました。その一方で、学校の授業に疑問を抱くところもあって『1日でも早く社会に出て、33歳ぐらいで独立したい』と思っていたんです。兄の面倒をみるにしても、親を介護するにしても、会社員だといざという時にすぐ駆けつけられないじゃないですか」

大学進学は、はなから考えていなかった。高校卒業後の1992年に勤めたのは大手百貨店の受付だ。よくしゃべるところと、来店客からの評価が高かった点を見込まれ、店長直々に「イベントを担当してもらえないか?」と打診があった。平日は受付を担当し、週末はイベントの企画業務と、「二足のわらじ」生活が始まる。田澤さんの案内で館内を巡るツアーが組まれるほど人気が出て、「面白い社員がいるぞ」とテレビで取り上げられたこともあった。

イベントを手伝うようになったことで、販売企画部と接点ができ、「自分は、どうすれば人に喜んでもらえるかを考えるのが好きだ」と気付いた。しかし、「このままでは視野が狭いまま。20代前半で海外を見ておきたい」と思い、百貨店を退職してカナダに留学した。

マーケティングや、商品を売るための仕組みを学ぶなか、環境保全の意識が進んでいたカナダの商品には、さまざまな安全基準が設けられていることを知る。そこですぐに環境問題に意識が向いたわけではないが、「自分が見てきた世界はやはり狭かった」とカルチャーショックを受けた。この時受けた影響が、後の仕事に繋がってゆく。

留学後、大手商社の受付に

帰国した田澤さんは、百貨店時代の元上司のもとに「これから就職先を探します」とあいさつに訪れた。そこで、「お前の学歴でどこに行くんだ。これ以上、大きな会社に勤められるわけがない」と言われ、小中高と体育会系だった負けず嫌いの血が騒いだ。そして、「とにかく大きな会社を目指してみよう」と、門をたたいたのは、総合受付の担当者を募集していた大手総合商社だ。

大手総合商社に勤めていたころの田澤恵津子さん
大手総合商社に勤めていたころの田澤恵津子さん(写真=本人提供)

「書類選考が通ったのでいざ面接に行くと、周りは『スタンフォード大学を出た○○です』『MBAを持っている○○です』みたいな人ばかり。こうなったら取り繕わず思うままに答えようと思ったんです」

面接での最後の質問は、「商社の受付にはいろいろな人間が来ます。もし、ちょっと危なそうな人が来たら、あなたはどのように対応しますか?」というものだった。

「ほかの皆さんが『上司に相談します』など立派な回答をするなか、私は『私には怖いものはありません。“怖い”とか“私には無理だ”といった自分の限界は、自分の意識が決めているもの。もし無理難題をおっしゃる方が来たら、その時点で持っている知識を総動員してどうするか考えます』と答えたんです」

「採用はないだろう」と帰路につきかけたが、廊下を追いかけてきた人事担当者から「君、採用だから。明日から来られる?」と声をかけられる。柔軟に、ラフに、プラス思考で物事を考えられる点が、商社の受付にうってつけだと期待されたのだ。

もともと百貨店時代の経験もある。田澤さんは、どんな人が来ても変わらず丁寧に対応を続けた。そのうち、「あの受付の担当者は、対応が気持ちいい」との評判が人事の耳に入り、わずか2週間余りで役員室の受付に異動になった。

社長が驚愕「いい度胸だ」と秘書室に異動

ただ、来客の多い総合受付と違い、役員室の受付はそれほど忙しくない。

「本当はやっちゃいけないことなんですけど……。机の下にもぐってちょっと仮眠を取っていたんです。空っぽの受付を見て当時の社長が『受付がいない!』と。机の下から私が出てきたので驚かれたんですが、叱られるどころか『いい度胸をしているな』と面白がられて……」

それがきっかけで、秘書室に異動になった。しかし、そんな型破りのいきさつで受付から秘書室に来た田澤さんへの風当たりは強かった。

「まあ、いじめられるワケです。『お弁当を買ってきて』と言われて、全員の分のお弁当を買って帰ってきたら誰もいなくて『帰ってくるのが遅いから外に食べに行ってきた』とか。私も相当な天然ボケで『じゃあ、これ全部食べちゃってもいいんですよね!』と喜んで返したりしていたら、徐々に『この子は叩いても響かないんだな』と思われるようになったみたいです」

ヘッドハンティングされ転職

一方、田澤さんにもしたたかな面があった。学歴やスキルでは勝負にならぬと、資料のファイリング、冠婚葬祭の準備、誕生日プレゼントの手配などの雑用を率先して担当。生年月日を覚え、送った誕生日プレゼントを記録し、各役員や社長には「そろそろ○○さんのお誕生日だと思います。昨年は○○を贈っておりますが、いかがいたしましょうか?」など自ら話しかけるようにしたところ、周りから頼りにされるようになった。

しかし、尊敬していた役員が退任。がっくりしていたところ、役員受付で知り合った気鋭の人材会社の社長からヘッドハンティングを受けて転職することになった。その社長を慕って集まるベンチャー企業の社長と交流する機会を得て、業界との繋がりもできてくる。彼らと話をしているうちに、「自分が誇れる商品を売っている会社で、マーケティングに携わりたい」という気持ちが芽生えはじめた。

あこがれのソニーで商品開発

そこで自分が誇れる商品をとひるがえってみたところ、あらためて気付いたのは「ソニーの商品が好き」ということ。そこでソニーを目指し、一度は落ちたものの、1998年に再トライして、アシスタントとして入社した。

「アシスタントは本来、企画を出したりはしないのですが、商品を作りたくてうずうずしていたので企画書を出しまくったんです。そうしたら、当時の上司に『そんなに企画が好きなら、アシスタント業務と企画を両立できるか?』と言われ、商品開発にも携わるようになったんです」

インターネット黎明期の90年代後半からゼロ年代にかけて、次々に画期的なデジタルデバイスを発表していったソニー。しかし、業績が良くなるほどに「あれはダメ、これはダメ」と自由度がなくなってきた。またもや「面白くないな」と思った田澤さんは、「ここでは、5年後の自分が見えない」と退社した。

博報堂に勤めていたころの田澤恵津子さん
博報堂に勤めていたころの田澤恵津子さん(写真=本人提供)

2002年、今度は化粧品のマーケティングを手掛けてみたいと、ヘルスケア商品の外資系メーカーに入社する。しかし、マーケティング戦略を本国で決める外資系企業では、日本でできることが少ない。3度目の「面白くないな」が頭をよぎる頃、出入りしていた博報堂の担当者から、「そんなに化粧品をやりたいんだったら、うちで化粧品のチームを立ち上げるから来ない?」と声がかかった。

そして博報堂に入社して2日目、いきなり「大手有名ホテルが新しくオープンするホテルのコンペがあるから、行ってきて」とプレゼンを任されることになった。

「広告代理店のプレゼンはやったことがないし、無理だと思ったんですが、プレゼン会場に入った瞬間、『このプレゼン、もらったな』と思いました」

プレゼン会場に自分の等身大パネル

プレゼン会場の奥には、ブライダルモデルの等身大のパネルが飾られていた。なんとそのモデルが、20代前半にそのホテルで結婚式を挙げた、田澤さんと夫だったのだ。

「開口一番『私どものホテルにはゆかりがありますか?』と聞かれたんですが、『はい、実はあれが私です』とパネルを指して、『以前、ここで式を挙げたんです。ですから御社については、誰よりも語ることができます!』と話したら、ものすごく驚かれました」

それをきっかけに場が盛り上がり、大型の受注を得ることができた。

過労で倒れて広告代理店を退社

上司からは「(運を)持っているとしかいいようがない……」と感嘆された田澤さんだが、その後の仕事は多忙を極めた。「田澤が取ってきた案件だから」と、各紙誌や屋内広告、屋外広告と、通常なら複数の担当者で分担する案件を1人で担当することになったのだ。短い期間で幅広い種類の広告の制作進行を担当できたのは良い経験になったが、あまりの仕事量に、ついに倒れてしまう。「こんな働き方を続けていたら、命が持たない」と医師にも止められ、2005年、会社を離れることにした。

3カ月ほど休んだところで、今度は外資系化粧品会社のマーケティングマネージャーの話が転がり込んできた。

「そこでは、マーチャンダイジング(商品化の計画)の仕事もみることができました。その時点で30歳を越えていて、これまでプランニングとプロモーション、マーケティング、マーチャンダイジングをやってきたので、独立してもある程度やっていけるんじゃないかと思ったんです」

運命の出会い

2007年、幼き日の計画通り独立を果たした田澤さんの元に、博報堂時代につながりができた東京電力の担当者から「伐採した大量の竹を活用する方法を考えて」という相談が持ち込まれる。

これが、田澤さんと竹との運命の出会いだった。

竹は、昭和の中頃までは、ほうきやかごなどに加工され、日用品として使われていたほか、食用になるたけのこも取れる、身近な存在だった。しかし、暮らしの道具がプラスチック製品に置き換わり、海外から安価な筍が輸入されるようになったことで竹林が放置されるようになっていた。また、竹は他の広葉樹等の成長を阻み、植生を乱す。根が浅いため、斜面が竹だらけになると土砂災害の危険も増してしまう。「竹害」という言葉が生まれたほどだ。

さらに竹は成長が速く、送電線にからむと停電の原因となってしまう。ほぼ毎日伐採する必要があるが、それが膨大な量になる。切った竹を積んで置いておけば、崩れる可能性もあり危険だ。

「マーケティング的な考え方をする時には、マイナスをプラスに、ピンチをチャンスに変えることが重要なんです。肥料を与えたり管理したりする必要がなく、成長が早いって、資源として最高じゃないですか。計画的に活用すれば、非常にサステナブルです。しかも、抗菌効果、消臭効果という機能性も高い。最強に魅力的な素材じゃないか、とすっかり魅力にはまりました」

田澤さんは早速、竹の商品化について頭を巡らせた。その時、「誰もが毎日使うものがいい」と思いついたのがタオルだった。

(後編へ続く)