命じられたことができないとランドセルが飛んできた
郷里は島根県出雲市。田畑が広がるのどかな町で育ち、遠足では出雲大社が恒例だった。
「物心つく頃から神さまを身近に感じていました。毎晩寝る前に『世界中の人が幸せでありますように』と祈るのが習慣でしたね」
にこやかに振り返る中原さん。その笑顔とは裏腹に、少女時代の記憶は重く心に残る。
厳格な家庭に育ち、親に厳しく躾けられた。決められたことができないと叱責され、ランドセルや物を投げ付けられる。門限に遅れると家から締め出され、土下座して詫びるしかない。いかにダメな人間かということを毎日のように言われ、ほめられた記憶もなかった。
「今思えば、自己肯定感など持てなかった。とにかく怒られないように、何とか目の前のことをするのが精一杯の生活でした。あの頃はただ周りの人が皆幸せになれば、最後は自分も幸せになれると思い、毎晩祈っていたのでしょう。それが支えだったかもしれません」
家を出たい一心で勉強、寿退社が夢だった
家を出たい一心で勉強し、難関の奈良女子大へ進学。その解放感は大きく、大学へはほとんど通わず、アルバイトに明け暮れた。何もやりたいことは見つからず、バブルの勢いに乗って広告代理店へ就職。
華やかな業界の空気を満喫し、翌年にはクライアントの大手メーカーから「うちの社内秘書になりませんか」と誘われて、転職を決めた。それも「カッコ良さそう」だったからと、中原さんは苦笑する。
「自分の中にはキャリアという言葉もなかったと思います。“意識低い系”だった私は、ただ専業主婦になりたい、寿退社をしたいと、それだけが夢でしたから」
晴れて寿退社したのは25歳の時。お見合いで出会った11歳年上の商社の経営者と結婚し、念願の専業主婦になった。
ボランティア活動で社会の裏側を知る
まもなく娘を授かり、子育てに励む日々が始まる。子どもの記憶にお菓子の香りが残るようにと思い、お菓子作りを徹底して勉強。児童心理学や発達心理学を学ぶため、大阪大の大学院で科目履修もした。すると、その教授に声をかけられ、ボランティア団体を手伝うことに。事件や事故で亡くなった被害者家族の心の支援をする活動だった。
「私にとってはとても意味があることでした。それまでは仕事でも社会の表側というか、光があたる世界だけ見ていたけれど、その裏側にある影の部分を見ることになったのです。本当は私、ものすごく暗いんですね。ずっと自己肯定感が低く、ダメな人間だと思ってきた。それを何となく隠したまま表の世界で生きようとしていたけれど、ボランティアに関わることで、自分が抱える心の問題にぐっと引き戻されたというか……」
台風の日に裸足で家を飛び出す
専業主婦として、母親として、思い描いたような豊かな家庭。だが、日々の生活は気の休まる時もなかった。二世帯住宅で、同じ屋根の下で暮らす嫁姑の関わりに苛まれていく。義母は家事のやり方をこと細かに指示し、買い物の大根の大きさまで厳密だった。洗濯物の干し方や掃除の掃き方が悪いと注意され、妊婦検診で胎児の発育が遅いことを親の責任と咎められる。24時間緊張が続くなかで心は疲弊していった。
「義母が言うことは正しいし、立派な人なんです。私もできない嫁だったから、自分が悪いと思ってしまう。夫に『おまえが暗いんじゃないか。気にしなければいいじゃない』と言われれば、その通り。こういう発想になるのも私のせいだからと思うと、実家にも相談できなかった。だんだん自分が追い込まれていき、鬱っぽくなっていたのだと思います。気がついたら、9月の台風の日に裸足で着の身着のままで家を飛び出していたんです」
いったいなぜ飛び出したのか、まるで覚えていない。わずかに記憶しているのは、降りしきる雨の中をひたすら走っている自分の姿。車で追いかけてきた夫が「乗れ、乗れ!」と引き留めても、振り払って走り続けた。目指したのは娘が遊びに行っていた友だちの家。事情を話して、しばらく身を寄せていた。中原さんはその後の顛末をこう語る。
養育費はもらわず、育てる覚悟を決めた
「職なし、お金なし、住む家もない。私はなんてアホなんだろうと思いながら、とにかくアルバイトを始めたんです。予備校の受付、英語試験の採点など何でもやりました」
結局、夫と話し合った末に離婚を決意。もはや元の生活に戻る気持ちになれず、子どもは自分が育てることを許された。良き父親である夫に申し訳ないという思いから養育費をもらわず、シングルマザーとして生きる覚悟を決めたのだ。娘がまだ2歳の頃だった。
それでも就職先はすぐには決まらない。保育園の5時半のお迎えに間に合うこと、休みがきちんと取れること、収入は低くても安定していることを条件に仕事を探す。大阪の郊外に住んでいた中原さんは地方公務員を狙い、やっと見つけたのは給食の調理員。当時29歳でも受けられたのは、女性では給食の調理職だけだった。
「保育園の給食のおばちゃんですね。ちなみに試験は腹筋と懸垂でした(笑)。確かに給食の仕事は重労働で、危険をともなう仕事です。大量の油を使いますし、工場みたいな調理場なので野菜の切断機も扱います。ゴムの分厚いエプロンをしていても、火傷やケガもいっぱいしました。上司もすごく厳しい方だったのであまりに辛くて、マスクの下で涙を流したことも……。本当に知らない世界だったので、子どもを預けて働く保護者はこうした現場で働く人たちに支えられていることを気づかされました」
大学病院で人の生死を目の当たりにする
働くシングルマザーとして奮闘するが、子育てと仕事の両立を辛いとは思わなかった。むしろ前向きに生きようとする中原さんは、さらに未知の世界へ飛び込むことになる。
調理職を一年勤めた後、遠縁の親戚から紹介されたのが大学病院の非常勤職だった。一日3000人の外来患者が来る阪大の附属病院で、医事課に勤めることになった。
その業務では、受付や診療科とのやりとり、カルテの処理、保険証の登録、診断書の発行手続きなどあらゆることを任される。医療事務の経験もない中原さんは、メモを片手に必死で覚えていく。膨大な仕事をこなしながら、身につまされることは多かった。
「大学病院では多くの方が亡くなります。さまざまな人の生死を目の当たりにしていると、自分は生きている間に何をすべきかを考えさせられる。その一方で、『生きる』ってこんなに大変なのかと思い知らされます。医療費が払えない人、事故で突然に足を失った学生さんなど、病院には生きる苦しみを抱える人もたくさんいらっしゃいました」
結婚式を来週に控えて乳がんが見つかった女性、わずか6歳で卵巣がんを告知された女の子もいた。救急搬送されても助からず、臓器提供を受け容れる遺族。事故や事件で亡くなった場合は司法解剖しなければいけないケースが多く、それを拒否する家族と揉めることもある。20年前に大阪教育大付属池田小で起きた乱入殺傷事件の際はサイレンが鳴りやまず、救急救命センターも混乱する事態に衝撃を受けた。
まさに命の最前線の現場にあって、中原さんはどんな思いで働いていたのだろう。
社会の仕組みからこぼれ落ちてしまう人の力になりたい
「それぞれ支援が必要な方とまっすぐ向き合えることは非常にありがたいことでした。私はどうやって目の前の人に関わっていくべきかと日々考えていました。
一日3000人来られる中で9割ほどは健康保険が適用されても、残り1割は労働災害や措置医療、外国籍や生活保護など複雑な事情があり、社会制度によるサポートが必要です。重篤な病気でも、難病治療支援制度によって認定されれば治療に向かえるけれど、それが難しければ膨大な医療費がかかる。そうした社会の仕組みからこぼれてしまう人もたくさんいます。では自分に何ができるだろうか。ただ寄り添うだけではなく、本当に役に立てる『力』があればと思うようになったのです」
非常勤の任期は合わせて約5年だった。病院内での信頼も厚かった中原さんは他部署への誘いも受けたが、そこでふと立ち止まる。これからどう生きようかと考えたとき、もっと人の幸せに結びつくようなことをしたいと考えたのだ。
離婚後7年間働いて貯めた700万円でロースクールへ
そんなときにニュースで知ったのが、2004年4月に創設された「ロースクール制度」だ。ロースクール(法科大学院)とは法曹(弁護士、検察官、裁判官)養成に特化した教育を行う専門職大学院。法律を学んでいない人でも3年間の未修過程が設けられ、修了すると司法試験の受験資格を得られる。試験に合格すれば、弁護士への道が開かれるのだ。
「“あっ、これだ!”と。人の幸せのために役に立てるのではないかと思いました。離婚してから働き続けた7年間、夜は英語の採点などいろんな内職をし、畑で野菜もつくるという節約好きで(笑)、700万円貯まっていたんです。一回で合格すれば、ちょうど3年間の学費と生活費は賄える金額だったので、これで行けそうじゃないかと思ったのです」
法律といえば憲法9条くらいしか知らなかったが、思いきって仕事を辞めると、猛烈に勉強に励んだ。関西学院大学のロースクールへ進学すると、毎日の睡眠は3時間ほど。小5の娘の世話は手を抜かず、あとは食事や入浴中もひたすら集中した。
「本当にぼろぼろでした。髪の毛を切ろうとしても、その辺に民法178条が入っていてそのまま忘れちゃうんじゃないかと思うと、切れなくなってしまい(笑)」
難関の司法試験では、論文43位と見事に上位合格を果たす。中原さんは40歳にして、弁護士の道を歩み始めた。
(後編に続く)