夫婦喧嘩必至の言葉をなぜ吐くのか
筆者は経済学の視点から、女性の幸福度を研究しています。特に興味を持っているのが、「女性が幸せになる条件は何なのか」という点です。
このような仕事柄、女性がどのような点に悩んでいるのかを書いた記事をよく読みます。
この中で「おっ!」と思ったのが、「俺よりも稼げたら家事をやるよ」と題された複数の記事です。
これらの記事では、妻が夫に家事・育児へのサポートをお願いした際、上記の内容を言われて悔しい、ということが書かれていました。
この記事を読んだ私の感想は、2つです。
1つ目は、夫の態度についてです。
正直な感想は「無茶しやがって。骨は拾ってやる」です。上記のような内容を言ってしまえば、夫婦喧嘩は避けられないでしょう。それなのになぜそんなことを言うのか、といった感じでしょうか。
「俺よりも稼げたら家事をやるよ」は妥当なのか
2つ目は、「俺よりも稼げたら家事をやるよ」が経済学の視点から見て、妥当なのかという点です。
経済学の視点から見た場合、今回の問題は、家庭内において仕事と家事・育児の負担を夫婦間でどのように配分するのかという問いに読み換えることができます。
家庭内における時間配分の問題は、家族の経済学といわれる分野で長年分析されており、大きく2つの理論が存在しています。
これらの理論に照らし合わせた際、「俺よりも稼げたら家事をやるよ」は妥当なのか考えてみたいと思います。
分業の理論=夫婦それぞれが得意分野に特化する
さて、ここから理論の話になっていきます。少しだけお付き合いください。
家庭内における家事・育児時間の配分に関する理論の1つ目は、「分業の理論」です。
この理論はそもそもなぜ人々が結婚するのかという点を説明するための経済理論なのですが、家庭内における夫婦の家事・育児時間の配分を説明するのにも役立ちます。
分業の理論のポイントは、夫婦それぞれがパートナーよりも得意な分野に特化することで、独身時よりも多くの生産物を生み出すことができると指摘している点です。
最もわかりやすい例は、「夫=仕事、妻=家事・育児」という組み合わせです。
男女間賃金格差が大きい社会の場合、妻よりも夫が外で賃金労働に従事した方が世帯所得の上昇に寄与します。これに対して、妻は夫が外で働くぶん、家事・育児全般を担当することになります。
交渉の理論=夫婦間で交渉し、さまざまな配分を決める
2つ目の理論は、「交渉の理論」です。
この理論は家庭内におけるさまざまな資源配分の決まり方を説明するための経済理論であり、その中に家事・育児時間の配分も含まれています。
交渉の理論のポイントは、家庭内の人々(主に夫と妻)がさまざまな資源配分のあり方を決定する際、「経済力が交渉力の強さに反映される」と考えている点です。
平たく言えば、「お金を多く持っている方が自分に有利なように家庭内の資源配分を決めることができる」というわけです。
一般的に余暇と家事・育児では後者の負担が重いため、家庭内で所得水準が高い人ほど、家事・育児時間が少なくなると予想されます。
両理論とも、日本の女性の家事・育児負担が大きくなると予想
分業の理論と交渉の理論について見てきましたが、これらの理論から、日本の家庭における家事・育児の時間配分はどのようになると予想されるでしょうか。
日本では依然として男女間賃金格差があり、女性の所得水準が男性よりも相対的に低いため、いずれの理論からも「女性の家事・育児時間が多くなる」と予想されます。
この理論の予想と日本の現実は合致しているように見えます。
これらの理論のポイントは、経済力、特に夫婦間における相対的な所得水準の高さが家事・育児時間に影響を及ぼす点です。
いわば、「お金稼ぐ方が家事・育児しなくてもいいよね」という主張に理論的根拠を与えています。
冒頭の「俺よりも稼げたら家事をやるよ=俺よりも稼ぎが少ないんだから家事はお願いね」という話は、あながち間違いではないというわけです。
ここまで読まれた読者の方の中には「経済学はなんて冷たいんだ」と思われるかもしれませんが、少し待ってください。
妻が稼ぐようになれば、本当に夫は家事をするのか
このような理論から得られた予想が本当に正しいかどうかは、実際のデータを見てから最終的な判断を下した方が良いでしょう。
そこで、実際にデータを使って、「夫婦で同じ額を稼ぐようになれば、夫の家事・育児時間も大きく増えるのか」という点を見ていきたいと思います。
経済力が重要なポイントであるならば、夫婦それぞれの稼ぎが同じになった場合、家事・育児時間も夫婦間で均等になりそうです。
はたして実態はどうなのでしょうか。
夫の家事・育児参加は妻の稼ぎに影響されない
図表1は、世帯所得に占める妻の所得割合と夫の家事・育児分担割合の関係を見ています(※1)。
これを見ると、妻の所得割合が増えるにつれて、夫の家事・育児分担割合も増える傾向にあります。
しかし、その上昇は妻の所得割合が50~60%のところで一度頭打ちになり、その後緩やかに低下していきます。また、夫の家事・育児分担割合は一番高いところでも30%に届かない状況です。
この図が意味するところは、「妻がいくら稼ぐのかという点は、夫の家事・育児参加にあまり影響していない」ということです。
妻と夫の所得が同じ程度であったとしても、依然として女性に家事・育児の負担が偏っているという結果は、ショッキングです。
※1 世帯所得に占める妻の所得割合は、夫婦の1年間の勤労所得の合計に占める妻の所得の割合を示しています。また、夫の家事・育児分担割合は、1週間の夫婦の合計の家事・育児時間に占める夫の家事・育児時間の割合を示しています。
理論と実態に乖離がある
また、この結果は、経済力が重要であると想定する分業や交渉の理論の予想と実態に乖離があることを示しています。
分業や交渉の理論以外の、「別な要因」が影響を及ぼしていると考えるのが妥当でしょう。
おそらく、その別な要因とは、日本で色濃く残っている「性別役割分業意識」ではないでしょうか(※2)。
「夫=仕事、妻=家事・育児」という考えが依然として残っており、それが男性の家事・育児参加を阻む「見えない壁」として存在するわけです。
女性の昇進を阻む見えない障害を「ガラスの天井」と例えることがありますが、男性の家事・育児参加割合にも似たような「天井」が存在しているのかもしれません。
このような見えない天井を壊し、価値観をアップデートすることが男性の家事・育児参加の促進につながっていくでしょう。
※2 性別役割分業意識といった社会規範が個人の行動に及ぼす影響に関しては、アイデンティティ経済学で分析されています。詳細は、ジョージ・A・アカロフ、レイチェル・E・クラントン(2011)『アイデンティティ経済学』(東洋経済新報社)をご参照ください。
妻の所得が60%以上になると、夫の家事分担が低下する理由
さて最後に、世帯所得に占める妻の所得割合が60%以上になると、夫の家事・育児分担割合が逆に低下する原因について考えてみたいと思います。
これには2つ原因が考えられます。
1つは、夫が失業中や病気療養中であり、所得が少ない割に家事・育児に参加できないという状況にある可能性です。
もう1つは、「妻が大黒柱」という性別役割分業と乖離した状況になると、その乖離を修正するために、むしろ妻が家事・育児をやるようになるというものです。社会で一般的とされる状況と違う場合、揺り戻しが起こるというわけです。
これは社会学で「ジェンダーディスプレイ仮説」と言われています(※3)。
この仮説の背景にも、「夫=仕事、妻=家事・育児」という性別役割分業意識が存在しており、その影響の根深さを物語っています。やはり、この点の意識改革は、避けて通れない道でしょう。
※3 ジェンダーディスプレイ仮説については、安藤潤(2017)『アイデンティティ経済学と共稼ぎ夫婦の家事労働行動』(文眞堂)をご参照ください。