家でも職場でも、女性であることによる差別は身近に存在します。その背景には男性が権力を持って女性を支配する「家父長制」の影響がありますが、政治学者の中村敏子さんは、「家父長制は、江戸時代の日本では成立していなかった」と指摘。日本の社会や結婚関係の基礎を築いてきた「家」は、どのようなものだったのでしょうか――。

※本稿は、中村敏子『女性差別はどう作られてきたか』(集英社)の一部を再編集したものです。

江戸時代の街並みの再現
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「家」は企業体だった

日本で夫婦関係の枠組みを作ったのは「家」でした。それでは「家」の中の夫婦関係は家父長制的であり、妻は服従を強いられていたのでしょうか。

10世紀頃に公家の間で成立した「家」は、武士においても15世紀後半には世代を超えて引き継がれるべきものと考えられるようになりました。徳川政権成立後の17世紀後半になると、諸法度が整備されて武士の「家」は政権により統制されるようになり、庶民の間にも「家」意識が成立するようになりました。こうして人々の生活は、「家」を基本として営まれるようになったのです。

江戸時代の「家」は、基本的に夫婦とその血族、そして使用人から構成されていました。「家」の運営のために各メンバーにそれぞれ「職分」にもとづく役割が与えられていて、それぞれの「職分」が組み合わさることで「家」の全体が構成されていました。「家」はこうした構造により「家業・家産・家名」を継承し、祖先祭祀を伝えることをめざす企業体だったのです。武士の「家」は「家職」を領主から与えられるので、その規制を受ける点が庶民の「家」とは異なりますが、基本的な構造は変わりませんでした。現在の家族経営の中小企業に類似した構造だったと考えれば、わかりやすいと思います。

結婚は「女房」という職分を果たす人のリクルーティング

このような「家」における最大の目的は、「家」が継続することでした。これは武士も庶民も変わりません。人々の生活はそのためにありました。ですから夫婦関係も、この目的に適合するように構成されました。まず「家」において夫婦関係を成立させるための結婚は、「家」同士の契約だと考えられていましたが、結婚する当事者の意見が無視されることはありませんでした。庶民の結婚は仲人が証人になることが必須条件であり、「家」の属する村などの共同体の承認が重要だったので、共同体の人々への披露が大規模に行なわれました。武士の場合は主君の承認が必要でした。

男性が妻を迎えることは、「家」において「女房」という職分を果たすのに適合的な人物をリクルートするという意味でしたから、その職分に合わない時には、簡単に離婚することが行なわれました。手続きは異なりますが、離婚は夫、妻どちらからも要求することができました。庶民においては、離婚の際に夫から「三行半」といわれる離縁状を交付することが必要とされていましたが、それは夫による一方的な離婚の宣言ではなく、離婚したことの証明書でした。それがあることにより、両者がそれぞれ再婚することができたのです。武士は離婚も主君に届ける必要があったので、こうした手続きは必要とはされませんでした。

東映太秦映画村内のセット
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「三行半」を詳細に検討した高木侃氏によれば、離婚の理由は男女とも不倫から身持ちの悪さ、性格の不一致まで現代とあまり変わりません。そして重要なのは、妻からの「飛び出し離婚」も多いということです。離婚したい妻は、実家に戻って帰って来なかったり、仲介してくれそうな有力者の家に駆け込んだり、最終的には縁切寺に駆け込んだりして、離婚の仲介がなされるように求めました。そして、離婚の決着まで有力者や仲人、親族による仲介が行なわれ、円満な解決がめざされたのです。

「離婚」は女性のキャリアになる

高木氏によれば、当時は一度結婚した女性は「家」の職分に関する経験を積んだと評価され、離婚したことがマイナスに働くことはなかったといいます。そうであれば女性たちは簡単に離婚し、また再婚しました。高木氏の『三くだり半』には、江戸から明治にかけて78回結婚した女性の例が紹介されています! つまり結婚して「女房」という職分を経験することは、女性にとってのキャリア形成だったということなのです。そして別の男性との再婚は、女性にとっての転職だったということでしょう。現代でも、少し前までは結婚することを「永久就職」といったりしましたが、これは妻になることをキャリアと考える意識の名残かもしれません。

夫と女房は「家」の共同経営者

結婚した後の夫婦は、「家」の「当主」と「女房」としてそれぞれの職分を受け持つことになりました。「当主」は「家」の代表としての職分を担い、家業全体に責任を持ちました。

中村敏子『女性差別はどう作られてきたか』(集英社)
中村敏子『女性差別はどう作られてきたか』(集英社)

特に重要なのは、企業体としての「家」の財産、つまり「家産」を守り次世代につないでいくことでした。「家産」は当主個人の所有なのではなく、文字通り「家」の財産だったので、当主の役割は「家産」を管理する管財人の役割だったといわれています。重要なのは、このように「家」を代表するとされた「当主」は、「家」全体を支配する権力を法により保証されていたわけではないという点です。つまり「当主」が「家」のメンバーに命令し強制する力を与えられてはいなかったということです。

これに対する「女房」は、家政を担当し家業がうまく運営されるように管理しました。彼女はいわば「家」におけるマネージャーのような役割を果たしており、家族や使用人の世話だけでなく、さまざまな交際などにも気を配りました。「当主」と「女房」はいわば共同経営者のような立場で分業しながら、「家」を継続させるために働いたのです。つまりふたりはそれぞれが独立した役割を果たしながら協同する関係だったのです。

病気の妻におかゆを運ぶ夫

そして、そもそもこの時代は、「家」において現代のように夫婦だけをペアとして考えることはなく、妻も夫の親類のうちのひとりとして分類されていました。婚姻手続きは養子縁組の手続きと同じでしたが、それはつまり両者とも「家」のメンバーとして新しく迎え入れるという意味で同じだと考えられたということでしょう。

当時の武士や女性の書いた日記などを見ても、夫に来客があれば夫と共に談笑する妻の姿や、病気の妻におかゆを作って運ぶ夫、妻の具合が悪い時には夫が子どもを勤め先の役所に連れて行き面倒を見るなどの姿が見られ、夫婦が助け合いながら協同して「家」を運営している様子が見てとれます。

妻の独立性が高く、「苗字」を変える必要もなかった

このように江戸時代の「家」における夫婦は一体ではなく、かなりの独立性を保って自分の職分を果たしていました。こうした妻の独立性は、「家」に関わるほかの事項についても見ることができます。

そもそも女性たちは、結婚後も自分の姓を変えることはありませんでした。つまり「夫婦別姓」だったのです(主として女性が結婚により姓を変えるようになったのは、明治民法によります)。「姓」は自分の出自を表すと考えられていたので、女性は結婚後も依然として自分の生まれた「家」の姓を名乗りました。それは、女性が結婚しても、「実家」におけるメンバーシップを保ち続けるという意識があったためだろうといわれています。こうして見ると妻は、自分の「家」(実家)から婚家に出向した社員のようなものだったと考えることができるかもしれません。

「家父長制」は、江戸時代の日本では成立していなかった

結婚における財産権の移動に関しても、このような考え方の影響が見られます。この時代でも妻が自分の財産権を持っており、つまり自分の財産は好きなように使えたのです。女性が結婚しても、彼女の持っていた不動産、持参道具、婚姻中に取得した財産は、妻の所有になりました。妻の持参金や持参不動産は夫のものになりましたが、離縁した時には妻の実家に返還されました。

また、親族が亡くなった場合の喪に服するやり方についても、独立性が見てとれます。血族が亡くなった場合には夫と妻がそれぞれ独立して喪に服することが、幕府の法令に定められていました。それによれば、妻も夫も、相手の血族のために喪に服する必要はなく、自分の血族についてだけ喪に服しました。また、夫の父母が亡くなった場合妻が喪に服する期間は、自分の父母の場合より短い規定となっていました。

そして刑事罰においても、妻は、夫の尊属より自分の尊属に対する罪の方が、重く罰せられるようになっていたのです。妻は、生前の寺請けにおいて生家の寺に属することもあり、また死んだ後も、妻と夫が別々の寺に葬られることも珍しくありませんでした。

これらを見ると、女性は自分の「家」に片足を置きつつ夫の「家」に出向したような状態であり、夫も妻も、すべて自分の生まれた「家」を優先したのだということができるでしょう。このように「家」の夫婦関係においては、夫も妻も独立した立場を持っており、男性が女性に権力を行使するという「家父長制」は、江戸時代の日本では成立していなかったと考えられるのです。