イギリスの科学系の職場では、男女の比率がほぼ半々になりつつある。研究現場やワクチン接種プロジェクトなど、新型コロナウイルスとの闘いの最前線で活躍する女性科学者たちの姿を、イギリス在住のジャーナリスト、冨久岡ナヲさんがリポートする――。
オックスフォード大学、ワクチン開発を専門とするジェンナー研究所
© University of Oxford/John Cairns
オックスフォード大学、ワクチン開発を専門とするジェンナー研究所

ワクチン開発チームを率いるサラ・ギルバート教授

オックスフォード大学でワクチン開発を専門とするジェンナー研究所のサラ・ギルバート教授は、毎朝4時に起きて自転車で研究室に向かう。帰宅するのはいつも午後8時すぎだ。パートナーのロブ・ブランデルさんが用意してくれた夕食を食べ短い睡眠をとり、また朝を迎える。そんな日々が昨年2020年1月初めから1年以上続いている。

インフルエンザなどの感染症を研究してきたワクチン学の権威ギルバート教授は、中国・武漢で広がる謎の新型肺炎の報道を聞いた瞬間「ついに来たか」と思ったそうだ。世界保健機関(WHO)が2018年から「疾病X」と呼び、各国に対策を呼びかけていた未知のウイルスによるパンデミックのことだ。

オックスフォード大学ジェンナー研究所のサラ・ギルバート教授
© University of Oxford/John Cairns
オックスフォード大学ジェンナー研究所のサラ・ギルバート教授

教授の同僚テレサ・ラム教授も同時にはっとした。ウイルスの遺伝子コードが解明されたのは2020年1月10日金曜日。早朝のメールで起こされた教授は、送られてきた遺伝子コードを見た途端にベッドから跳ね起きて机に向かった。同じチームの研究者たちとオンラインで会話しながら3日間、パジャマ姿のままでワクチンの設計図を一気に仕上げたそうだ。

折しもこの研究所では、のちに「コロナ3兄弟」と呼ばれるようになる新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と同類の中東呼吸器症候群(MERS)用ワクチン開発を何年もかけて進めていた。同じアプローチを用いることで、ラム教授は新型コロナウイルスに対応できるワクチンをスピーディーに作り出す自信があったという。

ジェンナー研究所の細胞免疫学者であるケイティ・ユワー教授も、長くワクチン開発に関わってきたベテランだ。週明けにはすでに国内の他の大学の研究所にメールを回し、支援依頼に走りだしていた。なぜなら、一刻も早く安全で効果の高いワクチンを完成させるには、通常の開発プロジェクトの何百倍ものマンパワーを一気につぎ込むしか方法がないことを熟知していたからだ。メールを受け取った男女の科学者は、それぞれが何人もの仲間に声をかけ、瞬く間に世界をつなぐワクチン開発の輪ができあがった。

そしてまだ青写真しかない新ワクチンについて、ギルバート教授から「臨床試験用に大量に作る準備を」という依頼を受けたのは、オックスフォード大学臨床用バイオ製薬施設の責任者であるキャサリン・グリーン教授だ。ラム教授のワクチン設計図を基に細胞培養を始めたが、国内で感染者が増え始めると、研究室で使う保護服や消毒液などが不足するようになり、一時は自分たちで薬品を調合して消毒液を作っていたほどだったという。

ギルバート教授のチームはまもなく英国政府の開発支援を受け、おなじキャンパスに研究所と工場を持つアストラゼネカとの提携も決まった。できあがったワクチンは、パンデミックが終わるまでどの国にも原価で販売すると発表。2021年終わりまでに30億回分のワクチンを生産し、他社ワクチンの数分の一の価格(1本300円程度)で提供する。

科学分野の男女比率はほぼ半々

ギルバート教授が率いるチームは、リーダー、研究員、技師など半数が女性だが、英国の科学分野の職場では珍しくない。理科系の学位を持ち、科学者や技師として働いている女性は多く、昨年2020年9月の統計では46.4%と、男性とほぼ同数に迫っている。科学以外の理工系分野では、まだ技術職を希望する女性が少ないこともあり男性8割に対し女性2割程度だが、女性の比率は年々上がってきている。

女性が増えている理由は複数あるが、第2次世界大戦後から政府がSTEM(科学、技術、工学、数学)と呼ばれる理工系分野への女性進出を推し進めてきた結果が、やっと出てきたことは確かだろう。英国では小学生のうちからSTEM分野の教育に力を入れており、キャリア教育でもSTEM分野の職業を重点的に取り上げるなどの取り組みを進めてきた。

当初は、男女平等実現のためというよりも、戦争で失われた男性労働者を補うための施策だった。賃金や地位の格差は歴然としていたが、強い意志を持つ女性たちがリーダーシップの道をひらいた。理工系の科目に女子が興味を持つことに対する偏見も、地道なSTEM啓蒙教育によって払拭ふっしょくされつつある。

オックスフォード大学ジェンナー研究所
© University of Oxford/John Cairns
オックスフォード大学ジェンナー研究所

パートナーが子育てのため転職

ギルバート教授は、自分が良いパートナーに恵まれたと語る。博士研究員(ポスドク)時代に、研究仲間だったブランデルさんとの間に三つ子をもうけた。英国のチャイルドケア費用は高額で、子ども3人分の託児費は研究員の給料では到底まかなえない。ブランデルさんは、迷わず研究職を辞し、定時で帰宅できる大学の出版局に転職。以来、家事と育児を司る「家庭のリーダー」となった。ギルバート教授のほうは、フレックス制度を利用し、家事や育児ではブランデルさんのサポート役にまわった。「子育ては完全なチームワーク。できる方ができることをやればよい」という姿勢を貫いているという。

その三つ子(1男2女)は今、オックスフォード大学とバース大学で、両親と同じ生化学を学んでいる。3人はそろって、母親が開発したワクチンの最初の臨床試験に密かに応募し、接種会場に現れてギルバート教授を驚かせたそうだ。同じ遺伝子をシェアする三つ子の治験参加は、ワクチンの効果を解析する上で、貴重なデータを提供することになった。

ワクチン接種プロジェクトを指揮したビンガム博士

せっかくワクチンが完成しても、迅速に接種を進められなければ意味がない。前代未聞の速さとスケールで集団接種を行うためのプロジェクトを指揮するのに適した人物は誰か。しばらく考え込んでいた英国首相ボリス・ジョンソンは携帯電話を手に取った。

「キミに、人々が死んでいくのを止めてほしいんだ」と、ジョンソン首相が連絡したのはケイト・ビンガム博士。オックスフォード大学で生化学を学んだあと金融分野に転じ、バイオベンチャー相手の投資コンサルタントとして活躍していた。とんでもない大役の指名に迷ったが、22歳の長女に「お母さん! もし迷っているのが私だったら『自分を卑下するな。自信を持ちなさい』って叱るでしょう?」と激励され、この役目を無償で引き受けた。

ビンガム博士はさっそく特別チームを編成する。「公衆衛生庁を飛び越して民間のコンサルタントを起用」という首相の型破りな人事もさることながら、博士が招集した面々も、製薬業界の裏事情に詳しいビジネスマン、武器輸送の専門家など、まるでアウトローを集めた映画のキャストのようだった。

国防省潜水艦配置局から引き抜かれた女性管理職のルース・トッドさんは、「開発中のワクチンすべてに暗号名をつける」という提案をし、当時120ほどあった開発中ワクチンの中からどれが選ばれるかが外部に漏れないようにした。

リーダーたちの努力は実り、英国は世界に先駆けてドイツのファイザー製ワクチンを承認し、2020年12月3日から全国で一斉接種をスタートさせた。

ワクチン承認の決断を下したのは英医薬品・医療製品規制庁(MHRA)の最高責任者ジューン・レイン博士。薬理学者だ。レイン博士と、集団接種プロジェクトを指揮したビンガム博士の両名とも、ワクチンの手配や接種の開始が早期に実現した理由として、オックスフォード大研究者たちがすばやく開発に着手していたこと、臨床試験の開始と同時に製造の準備を進めたこと、英国がすでにEUを離脱し移行期間に入っていたためこうした決定を自国だけで行うことができたことを挙げている。

オックスフォード大学ジェンナー研究所
© University of Oxford/John Cairns
オックスフォード大学ジェンナー研究所

英国型変異株を発見した「変異株ハンター」

昨年2020年秋に英国型変異株を発見し、いち早く政府に警告を発したのは、ゲノム解析のエキスパート、ケンブリッジ大学のシャロン・ピーコック教授だ。彼女はコロナウイルスの「変異株ハンター」とも呼ばれる。感染が広がり始めるとすぐに、「どんどん変異するこのウイルスを、常時モニターする必要がある」と仲間に呼びかけた。

教授は政府に働きかけ、新型コロナウイルスのゲノム解析を行う組織、COG-UK(COVID-19 ゲノミクスUK)設立の予算を獲得した。現在、国際コロナゲノムデータベースGISAIDに収められているデータの50%は、ピーコック教授率いるCOG-UKが解析したものだ。

COVID-19 ゲノミクスUKを率いる、ケンブリッジ大学のシャロン・ピーコック教授 ©GOV.UK
COVID-19 ゲノミクスUKを率いる、ケンブリッジ大学のシャロン・ピーコック教授 ©GOV.UK

ピーコック教授は、低学歴の家庭から大学に進学。「女なのだから文系に行け」と言う教師に反発して医学を目指すが、試験に落ちてしまう。それにもめげず、新しく医学部ができた大学に電話で直談判し、入学を認められたという逸話を持つ。

ピーコック研究所も25人の研究者のうち18人が女性で、女性管理職は教授の他に3人いる。「タフな心に背広はいらない(男性である必要はない)」という言葉をホームページに掲げている。

空軍ヘリも待機、クリスマス前のワクチン輸送作戦

順調にワクチン接種が始まった英国だが、2020年のクリスマス前にはあわやという事態が起こった。英国が注文した大量のファイザーワクチンが、トラックに積み込まれてベルギーから英国へと向かう途中、ピーコック教授が発見した英国型変異株を警戒したフランスが国境を閉鎖。輸送トラックは英仏海峡を渡る手前で立ち往生してしまった。

クリスマスを祝う食材や、ギフト品を英国へと運ぶ約3000台の長距離トラックが、フランスの港から高速道路までぎっしりと並び、ワクチン輸送車はそのど真ん中に挟まっている。ファイザーワクチンは工場を出たら10日以内に使用されなくてはならない。ワクチン接種プロジェクト特別チームのトッドさんは、36時間不眠不休で状況をモニターし、万が一の場合には空軍のヘリコプターを飛ばしてワクチンをトラックから運び出す準備を整えていたそうだ。

幸い政府間の交渉は2日間で成立し、英国への輸送は無事に完了した。オックスフォード大が開発したアストラゼネカ社のワクチンも2020年末に承認され、ワクチン開発を率いたギルバート教授とチーム一同は胸をなでおろした。チームにとっては、ラム教授が「シャンパンを開ける暇があったら眠りたい」と本音を漏らすほど、まったく休みなく働き続けた1年だった。

「私は“女性科学者”ではない」

新型コロナウイルスとの闘いで活躍する女性リーダーたちは、マスコミから注目を浴び続けた。オックスフォード大のグリーン教授が「私は有名な女性になるために科学を選んだんじゃない」と語っているように、どの科学者も「男女差別やフェミニズムについての質問ばかり聞かれてうんざり」と述べている。

ギルバート教授はすっかり「理系女性リーダーの星」となり、2020年夏には『ヴォーグ』誌(イギリス版)にも登場した。ジェンダー問題についてはほとんど語らないが、一度だけラジオで「私の肩書は『女性科学者』じゃなくて単に科学者。私たちは仕事を成し遂げるだけ」と、性別ばかり注目されるのを嘆いたことがある。しかし、そのコメント自体が名言として拡散され、女性科学者を称えるユネスコのSNSにも使われている。研究所で働く人によると、本人はこれを見て「やれやれ」というため息をついていたという。

ここで紹介した女性たちは、格別に優秀で統率力もあり、「普通の人のお手本にはならない」と言うことはできる。しかし、彼女たちが苦労してきた子育てとキャリアの両立や、女性に対する偏見などは、誰もが直面する普遍的な課題といえる。

乗り越えるうえでの一つのカギは、「チームワーク」にありそうだ。ギルバート教授は語る。「人生は計画通りには行かない。でも科学を続けながら子どもを持ちたいなら、できるだけ早くから周りにサポート網を作っておくことが何よりも重要」。自分一人で頑張るのではなく、周りのサポートを得ながらチームワークでことに当たる。この言葉はそのまま、女性リーダーたちが見せたコロナとの戦い方にも重なるのではないだろうか。