前内閣広報官の山田真貴子さんが「飲み会を絶対断らない女」を通してきたことを語った動画について報じられ、バッシングが起きた。コラムニストの河崎環さんは「ある程度のポジションを築いてきた40代、50代の女性たちの間で自己反省の激震が走った」と指摘する――。
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下の世代から支持されない「名誉男性」

最近、とある場所で「名誉男性」という言葉をドキドキしながら使った。ネットでは時に罵倒語として使われることもある、取り扱いに注意を要する言葉だ。穏健な物書きを自認する私としては、誰かを怒らせたり傷つけたりするのは本意ではない。でもここは言おう、と意を決した。

「これまでの男性社会で成功してきた数少ない女性は、時代的に仕方がなかったとはいえ男性社会のルールに適応しすぎてしまった人もいて、下の世代の女性からは『名誉男性』と呼ばれて支持されないこともあるんです」と、年配の男性たちに向けて話してみた。

「人並外れた努力家」という誉め言葉

すると、ひとりのおじさんが、そういう女の人たちがいかに人並外れた努力家で、男性にもできないような超人的な不断の努力をコツコツ積み上げてきたかを説明してくれた。「女の人なのに、母親としても妻としても働く女性としても大変な努力家で立派な人なんだよ。組織で生き残ってきた女性たちはさすがですよ」。頑張っている女性を僕は応援しているんだよ……。一点の曇りもない褒め言葉、心の底からの善意である。

だから、それを聞かされるほうはつらいのだ。このおじさんたちもまた悪い人じゃなくて、ものすごく努力してきた人たちなのは私もよくわかっている。だけど、その純粋な善意の中に深く深く根を張る、揺るぎない男性社会の価値観。私は、喉まで出かかった「だからそういう、男性が驚くほどの超人的な努力をして、男性社会に組み込まれ男性軸の価値観で認められて生き残る女性こそが『名誉男性』なんです」という言葉をのみ込んだ。

常に「決めるのは男」だった

そんな「男性にすらできないような」「超人的な」「不断の努力」をコツコツ積み上げて男性に尊敬されるくらいの超精鋭でなければ組織で生き残れない、女性という存在。どんな不平等だろうか。いったい、世にあまねく組織なるもの押し並べて、そんな父として夫として男として血反吐吐くほど超人的な努力をコツコツ積み上げてそこに残っている男性がどれだけいるというのか。特に「父としても」「夫としても」。

組織で生き残るのに、男の側にはそんな超人的な努力まで必要とされない。人生も仕事も全方位、そんなマルチタスクな努力を求められていたら、まあほぼ全滅だ。でも女の側には「母として妻として女として、非の打ちどころなく360度立派」であることが必要だ。あるいは、「母として」や「妻として」がなくても、男性の努力基準で「やるな」「こいつは優秀だ」と男たちに舌を巻かせることのできるスーパーウーマンでなければ、生き残れない。なぜって、常に「決めるのは男」だったからだ。そして「この女の人なら、(俺たちの世界に入れてやっても)いいんじゃないの」と決める側は、往々にして女ほどには厳選されていないのも「あるある」だ。

そこまでやらなきゃ残れない

まさにそんなスーパーウーマン、日本の女性エリート官僚のすいたる山田真貴子・前内閣広報官が、菅義偉首相の長男が勤める放送事業会社からの接待問題で辞職した。1961年生まれ、総務省で女性初の次官級ポストへと上り詰めた人だ。若者たちに向けた動画で彼女本人が「飲み会を断らない自分」を語っていた件が報じられ、瞬時に誰もが彼女の出世と「夜の飲み会で人脈やチャンスをつかむ古きビジネス慣習」とが表裏一体であることを嗅ぎ取り、そこまでやらなきゃ女が残れなかった日本の官僚社会を再確認した。

衆院総務委員会で答弁する参考人の山田真貴子内閣広報官(中央)。後方左は武田良太総務相=2021年2月25日、国会内
写真=時事通信フォト
衆院総務委員会で答弁する参考人の山田真貴子内閣広報官(中央)。後方左は武田良太総務相=2021年2月25日、国会内

デジタルネーティブで社会的意識が高く、「持続可能な開発目標(SDGs)」の実現に熱心と言われるミレニアル世代(1981〜96年生まれ)が組織の中堅までを占めるようになった今の時代、「飲み会を断らない」は武勇伝じゃない。もちろん、男女雇用機会均等法施行以前に霞が関へ歩み入った女性が、本人がダントツ優秀であっても女性であるがゆえに想像を絶するような努力をしなければ生き残れなかったという時代背景は、よく理解できる。

飲み会や喫煙所やゴルフ場などで情報が交換され、嫉妬の陰口がヒソヒソと叩かれ、そこで何かが決定するという不健康で不健全な密室会議傾向が維持されていたのは、昭和平成という時代がまるごと、それを好む男性のホモソーシャル社会だったからだ。

ルールを受け入れて染まることでゲームに参加できた時代

飲めない若手でも酒を飲めるように「鍛えられ」、吸わないけれどもつきあいでタバコ1、2本はふかせるようになり、上司に連れられてゴルフ場の芝の上へデビューする。男性でもそうやって「一人前になる」なんてのが常識とされた。女であろうが男であろうが、そういうルールを受け入れて染まらないと、そもそもゲームに参加できなかった。

そうやって女性も、「女の割にやるじゃないか」と閉鎖的で排他的な男性ホモソーシャル組織に「入れていただく」ことが必要だった。女だけれど「名誉男性」として仲間入りさせてもらうことで、やっと競争チケットを一枚だけ手にできる、そんな時代だったのだ。

名誉男性の悲しき処世術

ミレニアル世代やその下のZ世代にとって、アルコールは注意すべき不健康な習慣だし、タバコなんて言語道断の前世紀の遺物で、ゴルフは何が楽しいのか意味不明。そもそもライフスタイルとして拒否感が先立つ。でもそういうところでヒソヒソと陰口が叩かれ、何かが決定されるのだから女性もそこへ積極的に食らいついていかないとダメよ、と言うのなら、まずなぜそんな偏って不健康な男性ホモソーシャル組織が前提なんですか、なぜそこを変えないんですか、と澄んだ瞳で聞かれても仕方ない。

「変えられなかったのよ」と、「名誉男性」たちは言うだろう。「もちろん、変えようと思って始めたのよ。変えるのは自分だと思った。でも変えられるほど偉くなるためには、まずその中に入っていかなきゃいけなかった」。そう言葉をしぼり出すだろう。

私たちは、彼女らを責めることなど毛頭できない。そういう時代であり、そういう社会を生き残り、必死にしがみついたピラミッドを登って後進のために道を拓いてくれた、優れた女性たちだ。「飲み会を断らない女」は、その時代の悲しき処世術でもあったのだ。

だが社会はそんな処世術を否定し、脱ぎ捨てようとしている。社会は下から育ち、新陳代謝する。

エラくなれた女たちの間に走った激震

「このままでは古くなる」。

今回、山田・前内閣広報官のバッシングと辞任に際して、いま既にある程度のポジションまで来ている40、50代の働く女たちの間に、自己反省の激震が走ったのはとても興味深い反応だった。

なぜって、「名誉男性」は60代や70代のレジェンド級の女性の話だけではない。自らのオジサン化を自虐的に誇ったり、オジサンたちに可愛がられ、酒や食やゴルフを教えられ、うまいことその間を泳いだりして組織で生き残ってきたような女たちが、これは自分たちの問題でもあると気づいたのだ。

「自分たちの中にも実のところ十分にある素質ではないのか。私たちもまた、あれほど嫌っていた『名誉男性』になりかけてはいないか」と、ある人はブログに綴り、ある人はSNSで問いかけた。流行りはじめのClubhouseで、それをテーマに話し合う人たちもいた。

「飲み会を断らないことを自慢するだなんて、昭和の習慣。終わってる」と強い口調で責めることができるのは、何かと引き換えにして飲み会を断ってきた女たちや、あるいは仕事のつきあいの飲み会を敬遠する若い世代の、むしろ特権だ。胸に手を当てて、自分にそんな「迎合」や「妥協」や「忖度」の記憶など一筋もないと言える人は、きっとこれまで辛酸を味わってきたことだろう。

「闘わない」という闘い方を選んできた日本女性。オジサンの方を向いて、オジサンたちに受けることで出世してきた女たちの中から自発的に生まれた反省。自分たちのやり方も、すでに古くなりかけている。このままでいいの? 男ばっかりじゃなくて、私たち女も変わらなきゃいけないんじゃないの?

これはいわば日本版の#MeTooだ、と海外から鋭くも指摘したジャーナリストがいらっしゃるが、その通りだと感じている。