プロリーグの誕生で、プレー環境も変わる
2011年女子サッカーワールドカップ(ドイツ)で、なでしこジャパンが世界一になってから丸10年。2021年9月に、日本女子プロサッカーリーグ(WEリーグ)が発足する。当時のなでしこジャパンの指揮官である佐々木則夫総監督が率いる大宮アルディージャVENTUS、名門の日テレ・東京ヴェルディベレーザ、INAC神戸など11チームが参戦。選手たちはチームとプロ契約を結んでプレーすることになる。
「昔はプロ契約が少なく、企業で働いたりアルバイトをしたりしながらプレーする選手が多かった。ホントに環境がよくなりましたね」
しみじみと語るのは、1996年アトランタ五輪に出場した、元なでしこジャパンのDF(ディフェンダー)東明有美さんだ。1972年生まれ、岐阜県出身の東明さんは、岐阜県立岐阜高校在学中の1989年、当時日本女子サッカーリーグの強豪だったプリマハムくノ一(現在の伊賀FCくノ一三重)に加入、キャプテンとして長きにわたって活躍した。天理大学在学中の1992年には女子日本代表に選ばれ、国際Aマッチ43試合出場6得点という記録を残した名DFだ。
「私は五輪でオウンゴールを決めた最初の日本の女子サッカー選手です」と本人は冗談交じりに笑うが、現なでしこジャパンの高倉麻子監督や、当時10代の成長株・澤穂希ら攻撃陣にとって、守備の要として背後に陣取っていた彼女の存在は心強かったに違いない。
28歳で引退、新卒として入社試験を受ける
そんな東明さんは、2000年に現役引退を決断。間もなく29歳という若さだったが、「当時は30歳を過ぎて現役続行するという考え方はなかったですね」と、あまり葛藤を抱くことなく第二の人生を考え始めた。
そこで浮かんだのが、五輪やサッカーワールドカップなど数々のスポーツイベントのマーケティングや広告セールスを手掛ける国際的な巨大広告代理店・電通への入社だ。
「当時、大阪教育大学大学院に在籍していたこともあり、実家の親は地元に戻って公務員になって普通にお嫁に行き、落ち着いてほしいと考えていたようです。『人生をちゃんと考えろ』とよく言われましたから(苦笑)。でも自分は修士課程が終わったら、グローバルで幅広い仕事ができる電通に入りたいと考えた。何のコネもなかったんで、普通に新卒採用を受けました」
筆記試験はSPI(適性検査)だけ。続いて面接に呼ばれた。
「ちょうどケガをしていた時期で、面接の時は茶髪のまま松葉杖をついた状態で行って驚かれました。会社側は『こういう人間がいてもいいのでは』と考えてくれたのか、何とか引っ掛かり、2001年4月の入社が決まりました」
「出来の悪いワースト社員」挫折ばかりの電通時代
プリマハムくノ一時代は品質管理部に所属し、ハムの製造ラインに入るなどの仕事経験があった東明さんだが、世界的大企業である電通の環境は全く違った。同期150人で2カ月間研修を受けた後、熱望していたサッカー事業局に配属されたが、企画書の1つも満足に書けず、営業トークもまともにできず、上司に怒られっぱなしだったと打ち明ける。
「日本サッカー協会(JFA)担当で、天皇杯や全日本女子選手権(現皇后杯)の広告パッケージを企業に売る担当になったのですが、全然話がまとまらない(苦笑)。特に皇后杯なんかは、今でこそWEリーグができる時代ですから興味を持つスポンサーもいますけど、20年前は全く関心を示してもらえず、お金を出してくれる企業を探すだけでも四苦八苦しました」
それでも、先輩がアプローチすると話が進むのに、自分がやると全く進まない。
「まさに力のない新入社員でした。それなのに『こんなはずじゃない』とどこかプライドの高いところがあり、人のせいにする傾向が強かったですね。結局、『使えない』となり、2年足らずでサッカー事業局から出され、営業で一から修業することになってしまいました」
営業部に異動してからは自動車広告などを担当。海外本社の意向とクライアントの考えをすり合わせるのには、かなり苦労した。
「上司から『お前は出来の悪いワースト社員だ』と言われたのはさすがにこたえましたね(苦笑)。電通では挫折ばかりの日々でした」
ただ、それでも気持ちを奮い立たせ、ボールに食らいつくかのごとく粘り強く仕事と向き合った。
「そうしてさまざまな経験を積んでいくと、だんだん落としどころが見えてくるんです。DFもゲームを読み、相手の決定機を未然に防ぐのが仕事ですが、『サッカーに似てるな』と思うようになりましたね」
結婚、退職して香港へ
3年間、電通で遮二無二に働いた東明さんは、同僚の紹介で知り合ったアメリカ人弁護士と2004年に結婚。夫が香港に拠点を移すことになったのを機に、2005年に退職して同行した。
だが、専業主婦に収まるつもりは一切なく、自分にできることはないかと模索。幸い日本サッカー協会から、女子サッカーのプロモーション活動を手伝う「女子アンバサダー」や、小中学校に赴いて夢を持つことの大切さを語る「夢先生」の依頼を受けたり、オリンピック選手の団体である日本オリンピアンズ協会の代議員にも就任した。
さらに、アジアサッカー連盟(AFC)からは、公式試合の立会人であるマッチコミッショナーの仕事を依頼された。マッチコミッショナーになるには、サッカーへの理解や競技規則・試合運営への知識を持つことが必要だ。
「香港に住んでいたので英語も話せるだろうし、サッカーのルールや運営面の理解もあるだろうということで、AFCから声をかけていただきました。実際は、英語は中学生レベルしか話せませんでしたが、度胸だけはありましたから(苦笑)。AFC本部があるマレーシアで毎年研修を受け、パレスチナの試合にも行きました。壁を越えたらイスラエルという緊張関係を目の当たりにして、複雑な感情を覚えたと同時に、サッカーの大会を開催する意味の大きさを再認識しましたね」
私の武器は「修士号とオリンピアンであること」
続いて見いだしたのが、大学院再入学の道だ。東明さんは、拠点を香港に置いたまま、2009年に順天堂大学大学院スポーツ健康学科研究科に入学。組織・女性・リーダーシップをテーマに研究を始めた。
「将来、何をすればいいのか分からず、悩んでいた時に、『自分にできることが何かよく考えたら?』と友人に言われたんです。その時点での私の武器は修士号とオリンピアンという実績。そこに博士号が加われば、企業研修や講演活動などのビジネスも広げていけるだろうし、アスリートをサポートする側にも回れる。自分は元サッカー選手として長年、人にサポートされてきたので、恩返ししたいと思い、順大進学を決めました」
数カ月に1度のペースで日本に帰国し、担当教授と会って課題を出してもらう。それを香港に持ち帰って調べ、執筆するという生活は充実していた。
6年がかりで博士号を取得し、翌2015年に帰国。順大の指導教官から「枠があるからどうか」と勧められた関東学園大学教員の採用に応募して合格した。そして2017年4月から、大学教員として新たな人生を踏み出した。
「サッカーとビジネスは別物」ではなかった
大学教員としての担当分野は、スポーツマネージメントや、スポーツビジネスだ。ゼミには「将来はスポーツにかかわる仕事につきたい」という学生が集まってくる。学生たちには、自身の経験を踏まえてトライアル&エラーの重要性を伝えている。
「『サッカー選手経験が役立つ仕事』だと考えて電通に行きましたが、最初からピッチ内とビジネスは全く別物だと捉えていたので、使える経験や長所を生かしきれていなかったんです。でも両者に共通するものはあるはず。それをうまく整理して、仕事に生かせれば、もっとうまくいったのではないかという反省があります。そういうことも含めて、自分が“ダメダメ”だと気付いた5年間は、その後の人生の原動力になりました」
こうした経験は、大学の仕事にも生きているという。
「『もっと違う見方ができていたら解決策が見つかったかもしれない』『別の持っていき方をしていたら営業でも成功していたのかな』『全部1人でやろうとせずに周りの力を借りていたら違った結果になっていた』などという反省を踏まえ、学生にアプローチできるのは大きいと改めて感じます」
「ハリルジャパン」はなぜうまくいかなかったのか
大学教員の仕事と並行し、香港で設立した会社「パス&ゴー」の事業として、企業研修やコンサルタント業務も手掛けている。新型コロナウイルス拡大前は、年間契約していた企業も複数あり、かなり多忙な時間を過ごしていたという。
東明さんが企業研修やコンサルティングにおいて手掛ける主要テーマの一つが、「チームビルディング」だ。東明さんは、チーム形成には①形成期、②混乱期、③統一期、④機能期、という4つの段階があり、その過程をうまく経なければ強い組織は生まれないと説く。
「例えば、2018年ロシアワールドカップでベスト16入りした男子の日本代表チームは、本番2カ月前にヴァイッド・ハリルホジッチ監督(現モロッコ代表)が更迭され、西野朗監督(現タイ代表)が就任して成功しましたよね。ハリルさんは『混乱期』が長く続いて、『統一期』になかなか行けない状況だったと思います」
東明さんの分析はこうだ。
「チームビルディングの過程では、『形成期』や『混乱期』を行ったり来たりするものなんですが、長すぎる『混乱期』は、やはりよくない。それに日本人は『統一期』をどう持ってくるかが特に大事です。『混乱期』を早く収束させなくてはと考えたJFAが判断して監督を変え、最終的に成功へつなげたんでしょう」
リーダーも、相手に合わせた変化が必要
「リーダーシップ」も、研修でよく取り上げられるテーマ。今は、リーダーも相手に合わせて変化しなければいけない時代になっていると東明さんは言う。
「相手の価値観を把握し、一緒にモチベーションを上げる方法を考えるリーダーの方が成功しやすい。ただ、多くの会社や学校、スポーツのチームなどでは、下の人間がリーダーを選べない。上に立つ人間にも悩みはあります。異なる立場や考え方の双方が一番いい関係を構築し、成功する組織を作り上げていくような方法を模索していくことも重要です」
コロナ禍でリモートワークが増え、人と人の接点が減っており、それぞれの組織や在籍する人々の悩みもより多様化している。「そういった現状に即したアドバイスができるように、私自身もより一層、勉強していく必要があると感じています」
この1年間はコロナ禍の影響で研修や講演が減り、大学の授業もリモート中心になるなど、東明さんの仕事スタイルも大きく変わった。「経営的にも厳しかった」という。
しかし一方で、組織や女性の働き方、リーダーにまつわる問題は、世の中がどう変わっても、簡単に消えてなくならない。その解決策を、学生や顧客とともに探っていくことが、今の彼女に求められている。
アスリートは、ビジネスでもっと活躍できる
「現役引退後に就業し、活躍している元アスリートは数多くいると思います。ですが、自分が希望した仕事に就いている、あるいは仕事内容や条件に満足している人は少ないように感じます。個人的には、アスリートはビジネス界でもっとリーダーシップを取れる存在だと考えていますが、その多くが、スポーツで培った長所を活用しきれていないのが現状です」
東明さんは、「もともとアスリートは課題解決能力に優れていますが、課題発見・設定能力については少し不足している印象」と話す。「その部分をブラッシュアップして、仕事にうまくリンクできれば、より活躍の場が広がると確信しています」と力を込める。
「私の場合も『女子サッカーで五輪に出た』という過去は過去。『電通での挫折を完全払拭して“ビジネス界でも輝けるアスリート”を見せたい』という一心でここまでやってきました。その過程では、元上司やメンターなど支えてくれた方に助けていただきました。今はまだ道のりの途中。これからも自分なりに頑張っていきます」
東明さんの生きざまは、「女性アスリートはセカンドキャリアでも大いに輝ける」ことを示してくれている。彼女に続く人間が次々と出てきてくれることを、切に祈りたい。