ベテラン相手の業務に悩み
平野さんは現在、8歳と4歳の息子を育てながら、社内システムの業務設計などを担当する部署でマネジャーを務めている。大きな壁にぶつかったのは、長男の育休から復帰して半年ほど経ったころ。それまでは、業務フローの設計やシステムの要件定義を担当していたが、まったく経験のない業務内容の部署に異動になった。
異動先の仕事は企画統括で、各部門の予算や数値目標に対する進捗を管理し、未達の場合は打ち手の検討や実行を促す役割。相手は組織長クラスのベテランばかりで、年齢も経験値も自分よりはるかに上だった。
異動したばかりでその分野の慣習にも疎く、見当違いの発言をして怒られてしまうこともしばしば。「どうしたら芯を捉えたことを言えるようになるんだろう」「自分には何が足りないんだろう」と悩み続けるうち、次第に自信も意欲もなくしていったという。
加えて、出産による生活の変化も大きかった。子どもが生まれる前は、社外の友達と飲みに行くことも多かったが、育児が始まってからは人との交流の場が会社と家と保育園だけに。自分の世界が狭くなっていくことに、焦りや閉塞感を覚え始めていた。
プロボノのプロジェクトで「練習」
以前から、社内研修やビジネススクールなどに積極的に参加していた平野さん。壁を乗り越えるために、普段の仕事から外に目を向けたのは、自然な流れだった。
「一度外の世界に出てみれば、自分に足りないのが知識、経験、スキルのうちどれなのかがわかるだろうと思ったんです。それに、仕事と家事育児以外の場もほしかった。そんな時に、プロボノ希望者と支援を求めている団体をマッチングするNPO『サービスグラント』を見つけ、『これだ!』と思ってすぐ申し込みました」
この時、平野さんが希望した役割は、プロボノチームと支援先の団体の間に入り、約束通りの成果を出せるようにプロジェクトの方向性を軌道修正したり、品質を担保するといった調整役を担うものだった。
通常この「アカウントディレクター」という役割は、プロボノ経験者や管理職経験者が務める役割なので、平野さんの経歴では少し足りない。しかし、「説明を聞くと、私が業務の中で悩んでいた企画統括の役割ととても近かったんです」。年上の組織長たちとしっかり話せるようになりたいという思いから、「ちょっと背伸びして」ダメ元で立候補したという。
求められるスキルは同じだが、仕事よりも関わる人の数も規模も小さい。サービスグラント事務局との面談では、「失礼かもしれませんが、仕事の練習になると思うのでやりたいです」と伝えたという。「この役割をまっとうできたら、『スキルはあるけれど、経験や知識が足りない』ことになる。自分に足りないものがどれか、見えてくるはずだと思いました。それに、この先仕事の中で直面しそうなことを、ここで予習しておきたいという思いもありました」
平野さんの人柄と意欲が評価されたのだろう。事務局との面談で熱意を伝えたところ、その熱意を歓迎するかたちですんなりとOKが出て、プロジェクトに参加することになった。
年齢も職業もバラバラの6人
「プロボノに参加するのは初めてで、本当に役に立てるか自信がなかったので、人の命や健康に直接関わらないテーマのものが良いと思って」と、選んだのは、約半年にわたる「江戸糸あやつり人形結城座」プロジェクトだった。江戸糸あやつり人形の公演や普及・継承に取り組んでいる団体で、会員増や芸能文化の活性化のためプロボノの支援を求めていた。
2015年3月、プロジェクトは男女3名ずつ、計6人のプロボノ希望者が集まってスタート。年齢は20代から50代まで、勤務先も化学メーカーや製薬会社から化粧品、時代劇番組の制作担当、外資コンサルと幅広く、「あまりにバラバラすぎて逆にワクワクした」と平野さん。そこから、会社ではまず出会えない人たち、視点も考え方もまったく違う人たちとの協働が始まった。
メンバーと知恵を出し合い、結城座の今後の戦略を練り上げていく過程はとても楽しかったそう。ただ、およそ半年の活動期間中には、メンバーの1人が欠けるという予想外の出来事にも見舞われた。大変なこともあったが、結果的には自身の経験値として、それを補ってあり余るほどの収穫を得たという。
足りないのはスキルではなく、経験と知識だ
コミュニケーションの重要性、皆を腹落ちさせた上で進めていくことの大切さ、そして意見をまとめていくには視点や背景の違いを互いに許容する姿勢が必要だということ──。
平野さんは「年齢も視点も違う人たちと話す際のコツが鮮明になった」と語る。加えて、自分に足りなかったのはスキルではなく、業務知識と、合意形成やコミュニケーションの経験なのだということもはっきりわかった。
もうひとつ、「人」の大切さもあらためて実感した。プロボノは自主参加のため、成果物のクオリティーは参加者の熱意やサービス精神に左右される部分がある。幸い、この時のプロジェクトのメンバーには、自ら積極的に動く人や協働に慣れている人も多かった。
「『チームプロジェクトを成功させるには、やっぱり人が大事なんだな』とビビッドに感じました」と平野さん。アカウントディレクターという、ちょっと背伸びした役割を無事にこなせたのも「優秀なメンバーたちのおかげ」と話す。
「社内」という甘えもあった
また、社外の人たちと協働したことで、「会社では相手に甘えていた」と反省も。「同じ会社なんだから視点も同じはず」「こちらの意図をわかってくれて当然」――。そんな甘えが、組織長たちとのやりとりを難しくしていたのかもしれない。以降は、きちんとコミュニケーションをとる努力、目線を揃える努力を怠けちゃいけないと自分に言い聞かせるようになった。
「外の世界に触れて自分に足りないものが見えましたし、逆に少し自信を取り戻すこともできました。私もまったくダメってわけでもないなと(笑)。おかげで、それからは心に余裕を持って仕事に取り組めるようになりました」
収穫が大きかったことから、その後平野さんは、2人目の出産後にも再度プロボノに参加。支援先は視覚障害者が行う野球競技の団体で、競技選手の増加を目的とした紹介パンフレットの制作を手がけた。
前回の経験を生かして、チーム側のまとめ役であるプロジェクトマネジャーを務めたが、この時は子育てが忙しかったこともあり、「要望を上回る付加価値をつけられなかった」と残念がる。ただ、完成したパンフレットはとても喜ばれ、人の役に立つことの喜びをあらためて実感したという。
異業種交流会やセミナーでは得られないもの
プロボノは、本業を持つ人たちが業務上のスキルを生かして取り組むもの。その点では副業に似た部分もあるが、ボランティアであるところが大きく違う。参加者は収入を得るためではなく、他のものを得るために集まる。その中には自らの成長や刺激を得るために参加する人もいる。
こうした動機は平野さんも同じ。ただ、成長や刺激のためなら、異業種交流会や外部セミナーなどに参加するという手もある。これらは1日で終わるため、仕事に育児にと忙しい人にとってはそのほうが手軽だろう。平野さんは、なぜわざわざ、数カ月にわたって活動するプロボノを選んだのだろうか。
「交流会やセミナーでは、背景も考え方も違う人たちと一緒に何かをつくり上げる経験はできないと思うんです。プロボノでは、成果を出さなくてはならないので、自然に議論も深いものになり、突っ込んだやり取りができます。自主的に参加している人ばかりなので、考え方は違っても目標やマインドは同じ。一緒に違いを乗り越えていこうという熱意が皆にありますね」
「社内のプロジェクトだと、『上司に言われたから仕方なく参加した』という人がいるかもしれませんが、プロボノにはそういう人はいません」。忙しい日常の中でわざわざ時間をつくり、自主的に参加しているからこそ得るものも大きいのだろう。
平野さんも、参加中は確かに忙しくはなったそう。ただ、チームメンバーとのやりとりはほとんどがメールやSNSで、平日の夜や土日を使えば無理なくできる範囲だったと振り返る。1回目のプロジェクトでは、半年の活動期間のうち対面で集まったのは5回ほど。それでも、メンバーとはその後も定期的に一緒に飲みに行くなど、交流が続いているという。
今度は世の中に還元したい
またプロボノに参加したいかどうかをたずねると、「もちろん」と即答。次は貧困や教育など、社会的な問題をテーマとしたプロジェクトに参加したいと力を込める。
「これまでは、仕事に役立つものをインプットしたいと思って参加していましたが、今はプロボノを通して世の中に何か還元したい、社会にインパクトを与えたいという思いが強くなっています。この意識の変化はプロボノのおかげかも。また次も、2回の経験で得たものを生かして取り組みたいと思います」