女性アスリートにとっても、「いつ産むか」は大きなテーマだ。一度は現役から離れていたソチ五輪銀メダリストで、現在37歳のスノーボード選手、竹内智香さんの現役復帰を後押ししたのは、「卵子凍結」だった――。
竹内智香さん。スイス・ツェルマットで
写真提供=本人
竹内智香さん。スイス・ツェルマットで

「次の冬季五輪に出たい」競技復帰を決断

新型コロナウイルスの再拡大で、2021年夏に延期された東京五輪の開催が再び危ぶまれている。もし東京大会がキャンセルとなれば、半年後に予定される2022年北京冬季五輪の行方も不透明になるだろう。

それでも、アスリートは夢舞台に立てることを信じてトレーニングを続けている。

その1人が、スノーボード選手の竹内智香さん。2014年ソチ五輪の女子パラレル大回転で銀メダルを獲得した彼女は現在、37歳。日本女子史上最多となる6度目の冬季五輪を目指している。

2018年平昌五輪の後、事実上の現役引退状態にあった竹内さんが競技復帰を決意したのは2020年春だった。

「コロナ禍に突入し、手掛けていた地域貢献活動や次世代選手の育成、講演などの仕事が全てなくなり、北海道旭川市の実家に戻って、自転車に乗ったり、クロスカントリースキーをしたりしていました。その中で知り合った仲間が純粋に雪山を楽しんでいるのを見て、気づかされるものもありました。そうやって自分自身と向き合う時間が増える中、『やっぱりもう一度、何か目標を持ってやりたい』という思いが強くなったんです」

こう語る彼女は2020年8月、雪上に戻ることを宣言。現在は練習拠点のあるスイスに赴き、出場可能な大会を転戦しながら、五輪メダル水準の記録を目指して、貪欲に高みを目指し続けている。

選手寿命は延びても、卵子の寿命は延びない

現役に戻るに当たって、竹内さんを大きく悩ませたのが、妊娠・出産だ。

「トレーニング方法も医学も進化しているので、以前に比べてアスリートの選手寿命は確実に延びています。でも、卵子の老化は年齢とともに進んでいきます。『35歳を過ぎると妊娠できる可能性が一気に低下する』。そういう知識があったので、20代の頃から漠然と『五輪を目指すのは34歳の平昌が最後かな』と考えていたんですが、『次を目指したい』という気持ちが日に日に強まっていったんです」

「卵子凍結という手段がある」

「そこで、子供を持つ選択肢を残しながら、アスリートとしてのキャリアも出産も可能な状態でいるためにはどうしたらいいのかを真剣に考えました。すぐ結婚する予定はないですが、可能性だけはどうしても残したかった。海外の友人に以前から『卵子凍結という手段がある』と聞いていたのは大きかったです」

「そういう選択肢について真剣に考えて調べ始めると、アメリカでは卵子凍結が福利厚生の対象になっている企業もあるという実情も知り、背中を押されました。その後、帰国して知人と食事をしていた際、進退に関する話題になって、卵子凍結にも話が及んだところ、『いいクリニックの先生がいるよ』という話になった。早速、紹介してもらうことになりました」

思い立ったが吉日。それが竹内さんの行動パターンだ。卵子凍結に踏み切るに当たって、本や参考資料を読みあさり、ドクターにも疑問をぶつけた。

「まずは採卵から凍結までの流れ、費用、体への負担や、どれくらい時間がかかるのか、などを聞きました。実は私は、2009年に卵巣の手術をしているので、何らかのハンディキャップがあると感じていた。そのあたりについてもしっかり聞いて、自然と『やろう』と思えました。実は、この時紹介されたドクターが、2009年に手術を担当してくださったドクターと同じ方だったんですね。そういうところにも縁を感じました」

「私はまず頭で理解してから先に進みたいタイプなんです。何かを始めようとするときは、しっかり納得してからでなければ前に進めない。ホントに子どもを授かるのは大変なことだとよく分かりました。卵子凍結や不妊治療を経て妊娠・出産・子育てを経験している方々に思いを馳せる機会にもなったと思います」

痛みはあったが「明るく取り組めた」

納得いくまで話を聞き、現実を知り、実行に移した竹内さん。とはいえ、肉体的な負担はやはり重かった。

彼女の場合は2回に分けて、合計約20個を採卵。全身麻酔をかけた状態で採取したため、その間はチクチクする程度だったというが、麻酔が切れた後のダメージはやはり少なくなかった。

「1週間くらい前から準備のための注射をして臨みました。採卵の後、麻酔が切れた時は痛みが強く、その後1週間くらいはお腹の張りが続きました。トレーニングも3週間くらいはほとんどできず、ストレッチや有酸素系の運動でコンディションを維持するのが精いっぱいでした」

「それでも、私は競技でこれまでいろんなケガをしているので、痛みや体調不良などで苦しかったりつらかったりすることには比較的、向き合えるのかなと(苦笑)。それに、自分が妊娠しにくいタイプかどうかはまだ分からない。もし今後、不妊治療を行う可能性があるなら、治療の中ではやはり採卵が一番痛みもあり大変だと聞いたので、それを今経験しておけば、あとで恐れずにすみ気持ちが楽になれるなと。『全て自分の未来のため』と思えたので、明るく前向きなマインドで取り組むことができました」

競技中の竹内智香さん。ニュージーランドで
写真提供=本人
競技中の竹内智香さん。ニュージーランドで

女性が一度キャリアを中断すると戻りにくい日本

金銭面も無視できない問題だ。卵子凍結や不妊治療については、保険のきかない自由診療なので、金額は病院によって幅があるが、診察・投薬・採卵・卵子の凍結保存という一連の処置で、数十万円から100万円以上にのぼるケースもあるという。「決して安くはないですね」と竹内さんも本音を吐露する。

政府は2022年4月から不妊治療の保険適用を進める意向だが、そこまで待っていたら、それまでに35歳を過ぎる女性はより妊娠確率が下がってしまう。それに、保険適用後も卵子凍結は基本的に対象外。今しかできないことと将来的な出産の二者択一に迫られる女性の助けにはならない。女性アスリートはもちろんのこと、将来子どもがほしいと考えている未婚の女性や、仕事や病気などさまざまな理由で卵子凍結を希望する女性にとっては、本当に悩ましい状況というしかない。

「日本では不妊治療の保険適用や助成金拡充の話が出ていますが、そもそもなぜ高齢出産が多いかというと、日本では出産や子育てをしながら仕事を続けづらいからだと思います。女性がいったんキャリアを中断してしまうと、なかなか元の場所に戻れませんよね」

「でも私が長く過ごした欧州では、そういう制度が整っているんです。長期間休んでから仕事や競技にカムバックした女性はたくさんいますし、男性も子育てをするために仕事を休む権利が保障されている。それに社会福祉も手厚い。例えばスイスでは税金と社会保障のバランスを取りながら、より子育てしやすい環境の整備について考えられているな、と感じます」

卵子凍結も1つの選択肢

「自分が今回、卵子凍結に踏み切りそれを公表したことで、『世の中が変わってほしい』とか『日本のために一石を投じられればいい』といった大胆なことは何も考えていません。でも、卵子凍結も1つの選択肢であることを知っているか知らないかは、女性がキャリアを考えるうえで大きな違いを生むと思うんです。それを知ってもらえたらいいですよね。自分自身が後悔しない人生を送るために一生懸命やっていることが、ほかの人の力になるのなら、私自身はうれしく感じます」

37歳でもまだまだ戦える

精神的にスッキリした状態で五輪モードに切り替えることができた竹内さん。10月までは国内でフィジカル強化に邁進していたが、11月以降は再び欧州へ飛び、今シーズン終了まで実践経験を積み重ねようと奮闘している。猛威を振るうコロナの影響で、スノーボード・ワールドカップは中止や延期、スケジュール変更が相次いでいるが、苦境をものともせず、彼女は持ち前のバイタリティで先へ先へと突き進んでいる。

竹内智香さん
竹内智香さん(写真提供=本人)

現役復帰を決断し、9月に赴いたスイスでは、世界トップ記録と2秒もタイム差があり、愕然としたというが、短期間のトレーニングでグッと記録を上げるすべを身に付けているのが彼女のすごみだ。

「北京五輪を目指して本格始動した9月のスイス遠征では、『これじゃ世界で戦えない』と打ちのめされるところからのスタートでした。でも今の自分には、なぜトップと2秒離されているのかが明確に分かるんです。ビデオを見て徹底的に滑りを分析し、最終的には0.5秒差くらいまで縮まりました。『全くお手上げの状態』からその水準まで向上できたのはすごく自信になりましたし、『30代半ばでも、まだまだ戦える』という手応えをつかめました」

後悔しない人生を

長期渡欧する直前、彼女は強い目力で前を見据えていた。五輪開催や妊娠・出産・子育てなど、近未来を考えれば不安要素は少なくないが、そんな迷いなど一切見せないところが、竹内智香が竹内智香たるゆえんである。

「アスリートの1人として、東京五輪は可能な限り、開催してほしいです。そもそも五輪というのは、世界の平和を願って開催するスポーツの祭典。その由来や真の意味を理解している人は少ないと思います。今の状況は人間に与えられた1つの課題なのかなとも思います。私自身は五輪がなくなったとしても、アスリートという職業を全うするだけ。表現する場所がなくなったとしても受け入れるつもりで、後悔しない人生を生きていきます」

女性アスリートが1人の女性としての幸せをつかみながら、高みを目指せる時代はいつ来るのか……。竹内さんは今、必死にもがいている。そんな生きざまを見ていると、そんな幸せな時代がやってくることを願わずにはいられない。