都市化とグローバル化が、感染症を根づかせる要因に
そもそも感染症は、文明とは切り離すことのできない副作用です。つまり多くの人間が密集して暮らす“都市化”、そして遠く離れた地域と交流を持つ“グローバル化”という2つの文明の要素が、激しい感染症の被害という副作用をもたらすということです。
感染症の歴史はかなり古く、被害の深刻化が文明の成立とともに始まりました。紀元前3500年頃には、今のイラクなどにあたるメソポタミアでは数万人単位の人間が暮らす都市が成立し、遠い地域からさまざまな物資が運び込まれていました。この頃から都市化とグローバル化という文明の要素が存在していたわけです。
そこで、さまざまな感染症が発生したことは、古代エジプトのミイラに、天然痘や結核など、感染症の痕跡が残されていることからもわかります。
たびたび繰り返される、感染症についての古い記録
世界史の中で最初に感染症がまん延する記録があらわれたのが、紀元前400年代の古代ギリシャでのこと。都市国家アテナイ(現アテネ)で深刻な感染症が流行し、甚大な被害をもたらした様子が記されています。
その後、ローマ帝国が最も繁栄した西暦100年代、そして、内乱が続く200年代にも、感染症の大きな流行がありました。250~260年代の疫病では、ローマ市で1日に5000人が死んだという記録もあります。
こうした大流行が起こった背景には、やはり都市化とグローバル化がありました。つまり地中海を囲む大帝国ができ、さらにシルクロードを通して、ローマと中国との間で継続的な交易が始まったのがこの時代だったのです。そのような広域の交流によって、未知の感染症がローマ帝国の中心部に入り込み、激しい被害をもたらしたわけです。このときの感染症が何だったのかは、よくわかっていません。
明確にペストの流行と断言できる最初の記録は、500年代の地中海沿岸、具体的にはビザンツ帝国のものです。アフリカ、あるいは中央アジアで発生したペストが大流行しました。
当時、ビザンツ帝国は地中海沿岸から西アジア、さらに中国など東方との交易を拡大していたため、病気が広まる下地は十分にありました。現在の推定で住民の50~60%が感染したとみられています。ちなみに、このときのペストは当時、権勢をふるっていた皇帝にちなんで“ユスティニアヌスのペスト”といわれています。
その後、ペストはヨーロッパでは700年代まで流行を繰り返したあと、いったん沈静化しますが、1300年代には、ヨーロッパの全人口の3分の1以上が死亡するという、歴史上最も有名なペストの流行が再び起こりました。
このときのペストが、どこからやってきたのかは、中国説や中央アジア説などがありますが、いずれにしても、かなりの遠隔地からやってきたようです。前述のとおり、この大流行でヨーロッパの人口の3分の1、最大2分の1にあたる2500万~3000万人が死亡したといわれています。
当時のヨーロッパは、国際商業が繁栄する一方で、人々の栄養状態や衛生状態は低レベル。医学も未発達です。この疫病の原因を“ミアズマ(穢れ)”による神の罰とか、天体の配列の影響で地上の大気が腐敗したせいとか、そういうことを大真面目に言う知識人もいました。その後、ペストはヨーロッパに根づき、10~15年周期でいずれかの地域で流行を繰り返します。
1700年代以降、ヨーロッパではペスト沈静化
ヨーロッパにおける最後のペストの大流行は、1600年代後半~1700年代初頭でした。1665年にはロンドンで、1720年には南フランスのプロバンス地方で大流行が始まり、その主要都市であるマルセイユは大きな被害を受けました。
やがてペスト流行は収束していきますが、その背景には1300年代の大流行以降、ヨーロッパ人がそれなりに疫病に対処し、その取り組みが、1700年代以降に実を結んだ可能性はあるでしょう。この頃のヨーロッパでは、ある程度、強力な国家が生まれました。たとえば病気の予防や発生時に対応する行政が発達して、隔離や検疫が制度化されるなど、人為的に疫病対策がなされたのです。
またヨーロッパ人の住環境の充実も、ペストが下火になった要因として考えられます。もともと木造の家が石造りになり、ペストの感染源のひとつであるクマネズミとの接点が減ったのではないかと考えられるからです。ネズミの減少や、石けんの使用などの衛生状態の改善が影響しているという説もあります。
1800年代末に細菌学が成立。特効薬も続々と開発
1700年代には、まだ細菌学が成立していないので、ペストの原因は明らかになっていませんが、有毒な粒子や瘴気(ガス)などに接触して体に入ることで病気が起こるという説は1500年代には唱えられていました。
細菌学が成立したのは、1800年代末のことです。この頃、ペスト菌が発見され、ペストの部分的な封じ込めにも成功しました。その後、ペストはネズミとノミが媒介することが突き止められました。
これは人類にとって画期的な出来事でした。人間は感染症と闘うための道具や武器を次第に増やしていったのです。
その先駆けとなったのは、1700年代後半にイギリスの医師、エドワード・ジェンナーによって発見された天然痘の予防法“種痘”です。1800年代前半には、“キニーネ”というマラリアに効く成分が発見されました。
1800年代末には動物に抗体をつくらせて、その血清を人間の体に入れる“血清療法”が開発されました。1920年代には、最初の抗生物質“ペニシリン”が発見されて40年代初頭に製剤が開発されます。以降、40年代の結核の“ストレプトマイシン”など、さまざまな抗生物質の薬が開発されました。
感染症の封じ込めを可能にした背景には、インフラの整備もあげられます。インフラ整備で抑え込まれた疫病といえばコレラです。コレラは、もともとインドの一地域限定の病気でした。しかしヨーロッパ人がインドを侵略して接点を持ったことで、1800年代前半に世界的な感染拡大に至りました。1800年代半ばにはイギリスのロンドンで大流行。コレラの主な感染源は汚染された水ですから、予防にはきれいな水を供給する上下水道の整備が有効。1800年代後半から末期にかけて、上下水道の整備が進み、その後はコレラのまん延がおさまったという歴史があります。
ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘が、中南米で大流行
最悪の感染症被害というと、実は1500~1600年代の中南米における天然痘の流行かもしれません。ヨーロッパ人が先住民の社会に持ち込んだ天然痘は、あっという間にアステカ王国やインカ帝国で広まり、免疫を持っていない先住民たちはバタバタと亡くなりました。
やがて、これらの国々の軍事力や国家体制は衰退し、十分な抵抗ができないまま滅亡の道へと進んでいきました。
現代文明の道具や武器を、科学的にどううまく使うか
また急速に拡大する感染症として見逃せないのが、1918~20年に世界的流行となった“スペインかぜ”と呼ばれるインフルエンザです。第1次世界大戦末期、アメリカ軍の中から発生したこの感染症によって、世界で5000万~8000万人が亡くなったとされています。当時の世界人口が約20億人だったことを考えると、まさに史上最悪の感染症被害といえるでしょう。
大規模な感染症の被害は、当然、その後の社会に大きな影響を残します。1300年代のヨーロッパのペスト流行後は、人口が大きく減ったことで、労働力不足が起こり、農民や労働者の賃金待遇がよくなったり、領主の権力が衰退したりして、その結果、多くの庶民の消費水準が上がり、毛織物産業などが発展しました。一方で行政組織や権力の発達も進みました。
中世で起こったことは、現代社会に通じる面もあります。つまり、感染症によって大きな被害を受けたあとは、人や命といったものを大切に扱う傾向が強くなり、それがライフスタイルの変化としてあらわれること。そして危機に対応できる政府や行政組織の権威が高まり、その強化が進むということです。
冒頭で述べたように、感染症は文明にともなう副作用です。文明の副作用に対しては、文明の力で対処するしかありません。私たちは今、過去のヨーロッパ人が想像もつかないほど、さまざまな感染症に対抗する道具や武器を持っています。
そういった道具や武器をいかに科学的にうまく使うか、そこが肝要であることを今回の新型コロナウイルス災禍で、われわれは感じさせられたように思います。
無症状の感染者からの感染リスクが高い新型コロナウイルス
SARS、MERSともに病原体はコロナウイルスです。変異しやすく、どんな厄介なものが生まれるかわからないという点が、今回の新型コロナウイルスとの共通点。異なるのは、SARSやMERSよりも致死率は低いものの、無症状の感染者が多いうえに、症状があらわれる前に感染力のピークがくるため感染を広げてしまうリスクが高いなど、感染力が非常に強いこと。その点ではSARSやMERSよりも、タチが悪いといえるでしょう。
2020年3月に、世界保健機関(WHO)は新型コロナウイルス感染症の感染拡大は、パンデミックに相当すると表明。変異しやすいといった特徴から、今後さらにタチの悪いものがあらわれる可能性も否定できません。(秋田さん)