平日は毎日午前様、土日も仕事という日々

「私、本当に何もやりたいことがない、なりたいものもない、普通の子だったんです」

一つひとつの言葉をじっくりと選びながら、理知的に話すリセ代表取締役社長の藤田美樹さん。だが、自分の生い立ちを振り返ったときは、考え込んだものの、「本当に普通だったんですよねえ」とチャーミングにほほ笑んだ。

リセ代表取締役社長 藤田美樹さん
リセ代表取締役社長 藤田美樹さん(写真提供=リセ)

「争いのない“滑らかな”社会を作る(LisseはSmoothという意味の仏語)」をミッションに掲げるリセは、契約書レビューAIクラウドサービス「り~が~るチェック」を運営している。弁護士というキャリアの中で生まれたリーガルテックのサービスだ。海外では法務文書のクラウドサービスも数多く生まれているが、デジタル化が遅れた日本では画期的なサービスだ。

新しいサービスを生み出した藤田さんだが、小さい時からやりたいことやこだわりがあまりなかった。大学進学のときには、選択肢の中では一番興味を持てそうだという“消去法”で法学部を選んだが、これが将来を決定づけることになる。

法律を学ぶにつれ、法に守られて社会の枠組みが作られているということを感じ、弁護士を目指すことにした。日本企業が活躍することに関わることができたら面白そうだと思い、国際取引に興味を持った。日本企業の国際取引に関する仕事をしたいと考えた藤田さんは、日本の四大弁護士事務所の一つである西村あさひ法律事務所に入所した。

私生活では、司法研修所時代に同級生と結婚し、入所2年目である27歳のときに長女を出産した。キャリアのほぼスタート時点からワーキングマザーだったというわけである。

出産前は、仕事は毎日午前様、土日も仕事という激務ぶりではあったが、産後もそれほど状況は変わらなかった。「朝にできる仕事と夜に家に持ち帰ってできる仕事を瞬時に割り振る能力が身につきました」と藤田さんは笑う。

結果を出し続けなくてはいけないプレッシャー

弁護士の仕事は、男女の区別がなく平等である。

業務量だけでなく精神的にもタフな仕事だが、逆にいえば、結果を出していれば自分の裁量が効く。書類仕事など持ち帰ってできることも多いし、スケジュールも自分の都合で決めやすい。一方で、「結果を出し続けなくてはいけないというプレッシャーは常にありました」と藤田さんは言う。

06年には、事務所の制度を使い、娘を連れてニューヨークに留学した。ここで、米国の裁判のデジタル化を目の当たりすることになる。

リセ代表取締役社長 藤田美樹さん
写真提供=リセ

日本の法的な書類は、今でもすべて紙がベースだ。日本の法律事務所には、事務所内に図書室があり、そこから資料を引っ張り出して回覧する。訴訟でも、紙のファイルを持ち込んで裁判所とやりとりするのが常だ。

ところが、ニューヨークの法律事務所で過去の案件を調べた際、藤田さんは驚愕した。すべての資料はデータで格納されていて、検索窓に打ち込めば情報が引き出せる。そのため、iPadがあればすべての仕事が完結する。

そのうえ、デジタル文書には引用箇所にリンクが張られていて、クリック一つで引用箇所のサイトに飛べる。電子文書にリンクが張られているなど当たり前のようだが、今でも日本の司法ではそんな書類は実現できていない。10年前の米国ではすでに常識になっていたものが、だ。

こうした法律に関わるテック技術を「リーガルテック」と呼ぶ。藤田さんは、日本もいずれそんな時代が来るだろうと予感した。しかしその後、まさか自分がそうしたリーガルテックのサービスを生み出すことになろうとは思ってもみなかった。

企業の紛争を担当した際の忘れられない案件

2013年、藤田さんは紛争担当のパートナーになった。この時の経験が、その後の起業のきっかけとなる。

紛争担当になり、企業の契約書を見ることが多くなった藤田さんだったが、気づいたことがあった。訴訟になっている案件の契約書を見ると、「なぜこの一文を入れておかなかったんだ」「これがこう違っていたらもうちょっと楽に戦えたのに」と、文言をチェックしていれば解決できたのにと悔やまれるようなものが多数存在したのだ。

たとえば、こんな訴訟案件があった。

ある小売企業は、ベトナムの会社から物品を仕入れたものの、十分に検品しないまま代金を支払った。しかし、製品をよく見ると、求めていた品質を大幅に下回っていたのだ。すぐに返金を求めたのだが、契約書には訴訟の場合は「ベトナムの裁判所で争う」という文言が入れられていた。

海外の裁判所は往々にして、自国企業に有利な判決を出しがちで、日本企業は不利になりやすい。この会社も、この契約書があったために結局負けてしまった。

契約書を交わす前に、弁護士にチェックさせておけば、その文言を外せた可能性が高い。契約書のチェックは、保険と同じで、リスクヘッジのために必要なのである。

とはいえ、企業が契約書のチェックをしない背景には、弁護士費用の高さがあることもよくわかっていた。契約書1通確認するにも数万円の価格が発生するわけだから、もったいないという気持ちが働くのもしかたがない。そんなもやもやした気持ちを抱え、日々の業務を行ってきた。

前日に食べたものが思い出せないほど壮絶な子育て

そんなとき、海外にはAIで契約書をチェックするリーガルテック企業があるということを知る。

「同じようなものを日本でも作れないだろうか」

藤田さんが起業しようと思い立ったのはそれがきっかけだった。

とはいえ、そのころには長女の次に次女、そして双子が生まれ、子ども4人を抱えるヘビーな子育て生活を送っていた。双子の子育ては壮絶で、「真剣に考えても前日に何を食べたか思い出せない」(藤田さん)ほど。産後1年は最長でも1.5時間しか連続して眠れない状況が続いた。産後3、4カ月で職場に復帰したときは、座って昼ご飯を食べられることに感動した。早期の復帰がかなったのは、会社が子育てに対して理解があったからだ。

そうした背景もあり、起業したいと伝えると「もったいない。なぜ辞めるの?」と再考を促す友人も大勢いた。

テックも起業も、まるで初心者だった

さらに、テックに強いわけではないし、起業についても知識がまるでない。そんなとき、ベンチャーを立ち上げた経験があり、ベンチャー投資を行っている友人に、起業に関する留意点を聞こうと思い、相談に行った。そこで藤田さんは滔々とうとうと事業のビジョンと理念を話したところ、3週間後に彼から、「リーガルテックは今から盛り上がるし、面白い分野だと思う。社会的にも意義がある。一緒にやろう」と連絡が入った。そのうえ、技術に詳しい人も連れてきてくれて、一気に起業への道が見えてきた。2018年に会社を設立し、契約書レビューAIクラウド「り~が~るチェック」のサービス提供を開始した。

もちろん起業の決断までには、家庭への影響が脳裏をよぎることは何度もあった。当時長女が高校生、次女が小学生、一番下には双子がいて、まだ1歳だった。

上の二人に「起業をするよ」と言うと、小学生だった次女は「これからは家にいるんだね」と言って喜んだ。これからも忙しい日々が続くのに変わりはなかったが、娘がそんな思いを持っていたことに、このとき初めて気づいたのだった。

でも、こういうことは思い立ったときにやらないといけない。どうしてもやりたい、という気持ちが勝った。

また、両親のサポートは年齢的に難しくなっていたが、一方で夫のほうは役職が上がり、時間に余裕ができるようになったことから、家事の半分を担ってはくれていたことも大きかった。子どもとのコミュニケーションを大事にするため、掃除・洗濯・食事作りなどの家事はアウトソーシングを大いに利用し、外部にも十分頼ったバックアップ体制を整え、苦しい時期も乗り越えた。

トップ弁護士もノウハウの提供に協力してくれた

思ったようにシステムが動かないなど、弁護士時代とは違い、思ってもみないことが次々に起こるものだった。ただ、技術統括者が目指しているものを理解してくれたおかげで、システムの構築は実現していった。

意外にも、起業で大変だったことは、自身のコミュニケーションリテラシーだった。「法務の人間としか接してこなかったため、開発者とは共通言語も違う。狭い業界で過ごしてきたため、異業種の人とはコミュニケーションで大変な面もあった」と藤田さんは当時を振り返る。

しかし、大手法律事務所でのキャリアによって、法律に関する知識やネットワークはテック業界の中では随一だった。

契約書を安価にレビューして助言してくれるサービスがあれば、多くの中小企業が救われる。ただ、契約書のレビューをAIで行うためには、弁護士のノウハウが数多く必要だ――。そうした理念を藤田さん自らが伝えていくと、周囲はもちろん、トップ弁護士も喜んでノウハウの提供に協力してくれた。高名な先生の中には、本来の価格より安価に引き受けてくれる方もいた。

「リーガルテックの世界で女性起業家は私一人だけ」と藤田さんは苦笑する。弁護士の世界では女性は3割程度だったが、そもそも実力社会だったため、男女差を感じたことはなかった。女性だからといって得をしたこともない。それは起業してからも変わらなかったという。

弁護士事務所にとっては「競合」にもなりうるサービスである。一部に「テック化には向かないのではないか」という声もあったものの、「それは便利だね」と共感してくれる人が多かった。

「全部がテック化するとは思っていません。ただ、法務の世界もいろんな業務をテックで効率化し、人の力を集約していく必要があるでしょう」と藤田さんはリーガルテックの可能性をこう話す。

実際、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、緊急事態宣言後に急に問い合わせが増えた。法務のDX(デジタルトランスフォーメーション)に取り組まないといけないと考えた企業が多かったのだろう。

日本の法曹界に新風を

プライベートでは、4人の子育ては変わらず大変ではあるが、子どもがいたからこそよかったこともある。

「私は本当に仕事が好きで、十分に時間を使ってあげられていないなと思うところはある。でも、私自身は、さまざまな決断をしていかないといけないし、落ち込むこともあるなかで、子どもと一緒に過ごすことで救われている部分があります」と藤田さんは言う。

「一つでも多くの紛争を防ぐことに寄与できたらいいなと思います。私の願いはそれだけです」と藤田さんは強く言い切る。「企業理念でもありますが、できるだけたくさんの方によりよい法務助言を届けられるサービスにしたいです。できるだけよい質のものを、中身をこだわって作りたいですね」

藤田さんは、4人の子どもを持つ母である前に、実力社会で戦ってきた一人の弁護士である。数々の困難を乗り越えてきたその強さが、出遅れた日本の法曹界にこれから新風を吹き込んでいくのだろう。