なかなか終息の兆しを見せない新型コロナウイルス感染症問題。スペインかぜ、ペスト、天然痘など、歴史的な感染症が起こったときには、その時期ならではの経済の動きが見られます。世界の経済史に詳しい蔭山先生に、過去の感染症と経済のつながりを語っていただきました。
電子顕微鏡で見るコロナウイルス細胞
※写真はイメージです(写真=iStock.com/AltoClassic)

RNAウイルスである、新型コロナはやっぱり脅威

感染症とは、体内に病原体が侵入し、それが増殖することで症状が出る病気です。感染症には細菌性のものとウイルス性のものとがありますが、現在世界で猛威をふるっている新型コロナは、ウイルス性の感染症です。

ウイルスの大きさは細菌の10分の1~100分の1と非常に小さく、普通の光学顕微鏡では見えません。彼らは細菌と違って、自分だけでは増殖できず、動植物の細胞に感染し、その機能を借りて増殖します。

またウイルス自体は、有毒なものではありません。ウイルスの複製工場として利用された宿主細胞が壊れることで、それが病気の症状としてあらわれているのです。ちなみにウイルスは、感染できる臓器が多く、増殖速度が速いほど、病原性が強いといわれています。

さらにウイルスには、DNAウイルス(天然痘ウイルスなど)とRNAウイルス(インフルエンザや新型コロナ)とがあります。

DNAウイルスには遺伝子のコピーミスを修復する機能があるため、大きな変異には何十万年もかかります。しかしRNAウイルスにはその機能がないため、半年や1年ぐらいの短期間で大きく変異してしまいます。

今回の新型コロナウイルスは、ごくありふれたRNAウイルスであるコロナウイルスが変異したものです。コロナは主に風邪の原因となるウイルスで、それだけ聞くと「なんだ、じゃあ新型コロナは、風邪に毛が生えたようなものか」と思ってしまいそうですが、全然違います。変異したウイルスには体内に免疫(過去に侵入した異物を記憶し撃退する自己防衛システム)がないため、抗体(異物を体外に除去する分子)がつくられておらず、侵入されると、なされるがままに複製工場にされ、治るのにも時間がかかります。

そもそも、このコロナウイルスが変異したものが、近年猛威をふるったSARS(重症急性呼吸器症候群:2003年)やMERS(中東呼吸器症候群:2012年〜)だったのです。いずれも新型コロナ同様、肺炎症状とすさまじい感染力、高い致死率を特徴としますが、そう聞くとRNAウイルスの変異が、いかに恐ろしいものであるかがわかると思います。

さあそれでは、主な感染症と経済の歴史を見ていきましょう。

日本経済はスペインかぜの影響はほぼなし!?

スペインかぜ(1918~1920)は、RNAウイルスであるインフルエンザウイルスが変異した「新型インフルエンザ」です。今日の新型コロナウイルス同様、世界中で大流行しました。別にスペインが感染源ではありませんが、流行当初がちょうど第1次世界大戦の終盤だったため、各国が軍の弱体化を悟られないよう情報統制した結果、ニュースは中立国であったスペインからばかりになり、この名がつきました。ちなみに大戦での戦死者が1500万人なのに対し、スペインかぜによる死者は、2000万人以上にものぼりました。

日本の被害も甚大なものでした。最初の患者はなんと力士で、当時日本の統治下にあった台湾巡業から戻った力士のうち、3人が肺炎症状を起こして亡くなったそうです。

スペインかぜは世界的に3回の感染ピークがありましたが、日本では患者数・死者数の推移が「2100万人(死者26万人)→240万人(死者13万人)→22万人(死者3700人)」とピークのたびに大幅に減り、最終的には当時の人口5600万人のうち42%が感染したことで集団免疫を獲得し、終息しました。

これは、世界で見られた傾向と、ほぼ同じです。

内務省衛生局の発表した「予防心得」によると、当時の日本の対策は「病人に近づくな・人の集まる場所に行くな・マスクを着けろ・病人と部屋を分けろ・医者が許可するまで外出するな」などで、ほかにも学校の休校やイベント類が中止されるなど、驚くほど今日と同じです。これは当時がすごいというよりも、今が進歩していないのか、はたまた感染症への心得は、100年経っても変わるものではないということなのでしょうか。

ちなみに1918~1920年の日本経済には、意外なことにスペインかぜの影響はあまり見られません。その理由としては、この時期、死者は出ても主要な経済活動を止めなかったこと、景気を大きく左右したのは、第1次世界大戦による「大戦景気→反動不況」によるものだったなどが考えられます。

資本主義の芽を育てたペスト

ペストはコロナと違い、細菌性の感染症です。クマネズミに寄生したノミから感染し、その感染力の高さから、過去に3回(6・14・19世紀)のパンデミックがあります。致死率が約7割と非常に高く、2回目のパンデミック時には、なんと世界全体で1億人もの人々が死亡しました。これは当時の世界人口の4分の1にあたります。

そして、この2回目のときに、欧州では公衆衛生と経済で大きな動きがありました。まず公衆衛生では、国家による感染者の個別調査や強制隔離、都市封鎖(ロックダウン)、国境での水際対策や軍による検疫、社会的距離を保つための1m棒の持ち歩きなどが実施されました。

また経済では、都市で人口減少(逃亡や死亡)に伴う労働力不足が発生し、賃金が高騰したため、農民たちが都市に流入。それを見た荘園領主たちが農民の減少を阻止するために、農奴に土地を貸与し賃金を支払う「小作農方式」を導入しました。

つまりペストの流行は、欧州に労働者と小作農というお金で動く要素(つまり資本主義の芽)を育んだのでした。

聖武天皇が天然痘で行った減税政策

天然痘は、人だけが感染するウイルス性の感染症です。感染者の3分の1が死亡するだけでなく、感染力がものすごく強く、患者から剝がれたかさぶたでも1年以上感染力が残ります。人類とは非常に付き合いの長い感染症でしたが、1796年にイギリスの医師であるジェンナーが種痘法を開発したことで一気に患者数が減り、1980年にWHOが根絶宣言を出すなど、人類が根絶させた唯一の感染症といわれています。

天然痘については、日本におもしろい記録が残っています。『続日本紀』によると奈良時代、聖武天皇の頃に、朝鮮半島の新羅から九州経由で入ってきた天然痘が大流行しましたが、聖武天皇は「このところ災害が多いのは天からのとがめの兆しであり、すべての責任は為政者である私にある」と考えました。そこで聖武天皇は仏教への帰依を深め、奈良に東大寺と大仏、また全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じました。いわゆる「鎮護国家思想(仏の力で災厄を鎮め、国を護る)」です。さらに太宰府より「多くの農民がせっているので今年の貢調(納税)を止めてほしい」と陳情され、許可しています。つまり聖武天皇は、仏にすがる以外に、減税政策も行っていたのです。

ただ天然痘は、その後国民病として定着し、日本は明治期に入るまで、1150年もの長い付き合いを余儀なくされることになります。

*出典:東京都健康安全研究センター