出張先にいた私に母からの緊急連絡
経営コンサルティング会社を起業して10年後、東京と広島を拠点に忙しく飛び回っていた頃、出張先で母からの緊急連絡を受けた。父親が倒れたことを知らされ、電話口に出た救急病院の医師によると、倒れて4時間以内に治療薬を点滴すればまひも残らず良くなる可能性があるが、副作用もあり、後遺症が残ることもあると。「すぐ決断をしていただきたい」とゆだねられた。
「“えっ、私に判断させるの?”と慌てましたが、母も動転してそれどころではありません。その瞬間から私は、両親や妹の人生に関わる選択まで、自分が決めなければならなくなったのです」と田原さんは顧みる。
両親と妹が住む広島の実家の隣に住居を構え、夫と娘2人と暮らす田原さんは介護と仕事を両立させることになった。一命をとりとめた父はまひも残らず自分で車椅子を動かせるほど回復していく。すると救急病院は1カ月以上入院できないため退院を勧告される。リハビリテーション病院へ転院が決まり、医師やケアマネジャーらとの面談に追われた。
頻繁に呼び出されて仕事に支障を来す
「最悪の状況を想定していろいろ聞かれるんです。例えば口から食べられなくなったら胃ろうをするか、今度倒れたらどこの病院に入れるのかと……。忙しい状況を理解してもらえず、頻繁に呼び出されて仕事に支障を来すようになっていきました」
リハビリの病院も3カ月で退院。介護老人保健施設へ移るが、ケアスタッフの対応が気になった。彫刻家であり大学教授であった父は「お絵描きしてごらん」とリハビリを勧められても、ムッとして描かない。施設に入った途端、「おじいちゃん」扱いされる姿が不憫でならなかった。
父も「家に戻りたい」と訴え、田原さんは実家のリフォームを決意。業者との打ち合わせから設計、工事まですべて対応した。さらにケアマネジャーと相談し、訪問看護やリハビリなどのデイサービス、週に何度かお手伝いさんも頼み、どうにか在宅介護を乗り切る体制を整えた。
ところが、父が家へ戻って安心したのもつかの間、家庭に波風が立ち始めた。幼い頃から病弱で実家にいた妹は、介護のストレスを抱えていく。父母と争いが絶えず、毎夜電話で訴えてくる。父母からも連絡があり、絶えまない電話に悩まされた。
そうした日々の中でも年間100日以上の出張をこなし、仕事と両立することはいかに厳しかっただろう。
「介護の最中も仕事は容赦なく進み、責任ある立場では穴をあけるわけにいきません。私が親を見なければという義務感もあり、仕事を辞めようと思うことは何度かありました。それでも心の底では、無意識に、どうしたら仕事を続けられるかを必死に考えていたのかもしれません。もし介護だけに専念すれば、私も追い詰められていたと思うので……」
コンサルという仕事柄、睡眠は平均2、3時間という生活が続く。さらに追い打ちをかけるように母が認知症を発症し徘徊が始まった。父と妹が言い争いになると、母は「ここは私の家ではないわ」と外へ出て、戻ってこない。田原さんはついに限界を感じ、メンターに相談した。
すると、いつも明るく励ましてくれる彼女に背を押されたという。
「親はいつかは死ぬの。親の介護のために仕事を辞めちゃ絶対ダメよ」
そんな田原さんを応援するかのように、母にも変化の兆しがあった。
「母の徘徊が始まったとき、私が『心配で仕事に行けないから、家を出ないでほしい』と頼んだら、『じゃあやめるわね』と。母も長年教師として働いており、仕事が支えになっていたのでしょう。玄関ドアに『祐子が仕事に行けなくて困るから、家を出ない』と張り紙をしたら、ピタリとやめてくれて(笑)。そんな母をすごく尊敬しましたね」
どんなに苦しくても自分を良い状態に保つ
大事なのは外部サービスや制度を活用し、人に助けてもらいながら乗り切ること。社内ではテレワークを取り入れ、いつでもどこでも仕事ができる体制にしていた。
一方、自分の体力や気力をキープすることも必要。田原さんは子育ての経験から心がけてきたことがある。
「中学生の娘が心の病を抱えたとき、罪悪感に苛まれた私がカウンセラーに言われたのは、『母親が落ち込むと皆が落ち込み、自己否定するほど周りも悪くなる』と。だから社員や家族にもなるべく愚痴を言わず、落ち込まないよう心がける。自分を良い状態に保つことを大切にしました」
アロマセラピーを取り入れたり、出張先では温泉でリフレッシュしたり。もし自分が倒れたら、家族全員の生活も崩れてしまうからだ。
しかしその先に、さらなる試練が待ち受けていた。数年前に乳がんで片胸を切除し、毎月定期検診を受けていた妹が頭痛を訴えた。診断は脳腫瘍の末期、余命3カ月ほどと告げられたのだ。妹は即入院となり、介護が必要な両親を預けられる施設を探さなければならない。だが、父母は症状が異なるので同じ施設に入れないうえに、どこも数カ月待ちの状態。やむなく父は以前入所していた施設へ、認知症が始まっていた母はグループホームへと、家族3人がばらばらの施設へ入ることになった。
妹に付き添う田原さんは大病院で苦しむ姿を見かね、本人の希望で小規模多機能型居宅介護施設へ移す。父は施設の食事が合わず、やせ細っていったので差し入れを欠かさなかった。
「お父さん、少し元気になりましたよ」と看護師に言われた2日後、出張先の金沢で訃報を知らされる。奇しくも田原さんの誕生日だった。仕事を終えて広島へ向かうと、穏やかな顔の父がいた。その3カ月後、妹も最期のときを静かに迎えた。
あれから3年、今、介護と仕事を両立した日々を田原さんは振り返る。「仕事を続け、社会から必要とされることは、自分が生きていくための支えになると思う。何より自分自身の人生を生き抜くことが大切だと思うのです」
子育て時代の親友や家族にも支えられた。かつて「ママ、辞めたほうがいいかな」と漏らしたとき、「働くママが好きだよ」と励ましてくれた娘たちはもう社会人。今はそれぞれの道を歩む娘たちを見守り、彼女たちにとっての仕事もまた生きがいになるようにと願っている。