子どもたちの世話をするのは、かをりちゃんのためじゃないわよ、あなたの社員のためよ
寝たきりになってもう8年。82歳のときに脳出血で倒れて病院へ。その後、ほとんどずっと介護施設にお世話になっています。もうすぐ90歳。だんだん目を覚ましている時間も短くなりました。あとどれだけ一緒にいられるかわかりません。言葉を発せない母を見ていると、今さらながらもっとたくさんのことを母に聞いておけばよかったと思います。
母は1929(昭和4)年、5人きょうだいの長女として横浜で生まれました。母の父、私の祖父は外国船の船長をしていて、航海に出る度に海外の珍しいお土産をたくさん買ってきてくれるのだけど、昭和初期、赤い靴やカラフルなワンピースをそのまま着ると目立ちすぎるので、泥で汚してから着ていたとか。勉強もよくできて、学校ではいつも1番だったと話していました。
私が幼いころは専業主婦でした。洋裁学校を出ており、洋裁の腕はプロ級。先生にも一目置かれる腕前だったようです。だから、私が子どものころ着ていた服は母の手づくりの品ばかり。外国のファッション雑誌を見て、私がデザインし、母が型紙を起こして、形にしてもらうことも。母はどんなことも器用にこなし、働き者で、座っているのは食事のときだけ。私が座って本を読んでいると、なまけていると感じるほどでしたから。
事業成功するも投資に失敗、山の手の家から公営住宅へ
母は1歳違いの父と半ば駆け落ち同然で一緒になったそう。59年に私が生まれ、3年後には弟が誕生。両親はとても仲が良く、2人がケンカをする姿は見たことがありませんでした。
でも、父は、私が知る限りでも10回も職を変えるほどのチャレンジャー。アメリカ銀行やソシエテ・ジェネラルなどの会社勤めを経て、ドライクリーニングのフランチャイズ事業を始め、母も父の仕事を手伝っていました。事業はとてもうまくいき、横浜・山の手の一軒家でお手伝いさんのいる生活でしたから、私が子どものころはまぁ恵まれた暮らしをしていたと思います。
父は、勉強は学校で行い、家でするのは家事だけだと考える人だったので、私が家で勉強をしていると、「今の学校教育はどうなっているんだ!」と怒りだす始末。父も母もそんな具合なので、私は家でのんびり座ったり、本を読んだことがありませんでした。
私が中学1年生のとき、父が投資に失敗。莫大な負債を抱え、店や住んでいた一軒家、引っ越す前提で用意した買ったばかりの土地を売り払い、家族4人で家賃3000円の公営住宅に引っ越すことに。この話を人にすると「大変だったんだね」とよく言われますが、家の中に悲愴感などまったくなかったので、私自身「貧しくなった」という認識はなく、「家が狭くなった」という程度だったんですよ。引っ越しから何カ月も経って、「あれ? 私のピアノは?」と気付くくらいですから(笑)。私自身、深刻に考えるタイプではありませんし、父も母もいつもと変わらない態度で接してくれていたからなのかもしれません。
引っ越しと同時に、母も事務員として働き始めました。仕事から戻ると、一息つく間もなく、すぐに夕食の準備。専業主婦をしていても、働きに出るようになっても母の生活態度は変わらず、どんなときも一瞬たりとも休むことはありませんでした。今、考えると、父の負債で家も資産も何もかも失い、大変だったと思います。
でも、そんな様子は微塵も感じさせませんでした。母はどんなときも前向きで、弱音を吐くことは一切なく、人の悪口を言うのを聞いたこともありません。「占い師に、私は絶対にお金に困らないって言われたのよ」と明るく笑っていたほど。常に前向き、好奇心旺盛で怖いものなし。しかも体力自慢の疲れ知らず。「ゆっくりしてね」と言っても聞いてくれません。ずっと働きづめだったので、娘としては、本当にゆっくりしてもらいたかったんですよ。
だから、アメリカに住む母の妹や長野県に住む仲の良い親戚の元などへことあるごとに母を連れ出していました。観光旅行だと歩き回るだけになってしまうので、温泉旅行なら強制的にゆっくりできるだろうと考え、倒れる数年前から年末年始に母娘2人、高級温泉旅館で年越しをするように。温泉旅行なら強制的にゆっくりできるだろうと考えたんです。母もそれを何より楽しみにしていましたね。脳出血で倒れたときも、温泉旅行の直前だったこともあり、運び込まれた病院で母が私に放った第一声は「旅館をキャンセルしなきゃ」でしたから(笑)。