5カ月前の健診では「異常なし」だったのに
えっ、これは何だろう……お風呂あがりに、何げなく左胸の乳房をさわると、こつんと小さなしこりが指先に当たる。毎年、定期健診ではマンモグラフィーを受けており、5カ月前も「異常なし」と言われたが……。
すぐにネットで乳腺専門クリニックを探して予約を入れた。クリニックで見せてもらった超音波の画像には黒い影が写っていた。針生検(針を用いて組織や体液を採取すること)で調べたところ、数週間後、医師に病名を告げられた。「乳がんです」と。
2014年2月、当時49歳で告知を受けた風間さんはこう顧みる。
「やはり、そうか、と淡々と受け止めました。私は三姉妹の次女で、そのころ5歳下の妹も乳がんが見つかり、ステージ4で手術ができない状態でした。実家にいる妹は幼い子どもを育てる、シングルマザーです。同居する母も大変だったので、姉にだけ電話で『実は私も……』と伝えると、『あんたは二の次』と言われました(笑)」
苦笑しながらも郷里の家族への気遣いが先に立つ。実は母も50代で乳がんの手術を受けていた。風間さんは妹が告知されたとき、乳がんについて詳しく調べていたので、今の病状なら「私は死なない」と冷静に受け止めることができた。
「先生には『全摘出して再建します』とはっきり意思を伝え、どこの病院がいいか相談しました。乳がんの治療は10年続くといわれ、できれば自宅や会社から近く、乳房再建の実績があるところということで、がん研有明病院を紹介してもらったのです」
すみません、私、乳がんでした
クリニックを後にすると、その足で真っすぐ会社へ戻った。リーダー格のメンバーに加えて部長と本部長に会議室に集まってもらうと、「すみません、私、乳がんでした」と報告。1カ月ほど休むことになると伝え、仕事の分担について話し合った。
部内の女性には、自分がしこりを見つけた状況や今後の治療などをメールにつづり、その日のうちに送信した。乳がんを患う日本人女性は11人に1人といわれるだけに、ちゃんと検診を受けてほしいと思ったからだ。すると「うちの母も……」とこっそり打ち明ける人が出てくる。
「皆、職場では言えない思いを抱えている」と風間さんは気づく。自分も病名を隠すことで、知らないところでうわさになるのが嫌だった。社内の理解を得たことで、入院の日も落ち着いて迎えることができた。手術の結果から、ステージ1でリンパ転移もなかったことがわかった。10日ほどで退院し、1カ月後に職場へ復帰。通院しながら抗がん剤治療を受けることになったが、仕事との両立は心身ともに衰弱することが多く最も辛い時期だった。
抗がん剤の副作用で毛髪は抜け落ち、吐き気や倦怠感、食べ物の味が変わる味覚障害も辛かった。通勤電車で貧血を起こすことも度々あった。
「あのころは、はうように会社へ行っていましたね」と振り返る風間さん。社内でも大きな局面にぶつかっていた。自分がリードし、熱意ある部下の女性たちと立ち上げた部署が組織改編で廃止されると決まり、何とか食い止めようと奮闘中だった。そのミーティングが通院と重なるときは、病院の待合室に待機して、自分も電話会議に参加していた。
「結局、3カ月間の抗がん剤治療が終わるころには部署もなくなりました。それでもあのとき部署を守りたいという思いがあったから、辛い治療も乗り越えられたのかもしれない。打ち込める仕事があって本当に良かったと思います」
働き方も見直した。以前は、どちらかというと仕事人間で残業もいとわなかったが、「私も『定時で帰ります』の人になりまして(笑)」。行きついたのが〈人生3分の1理論〉だった。
「私はがんになったことで、自分がやりたいことは全部やり尽くしたいと思ったんです。1日24時間のうち睡眠、仕事をそれぞれ8時間したら、あとの8時間は好きなように使いたい。人生を楽しむためにその3分の1を守ろうと決めました」
まずは「第九(交響曲第9番)」のコンサートに憧れ、合唱団へ入団。年末のステージに立つことがライフワークになった。毎年夏には世界各地を旅行する。「世界で一番行きたい国」に選ばれたラオスへの一人旅も満喫した。
リモートワークで最期まで妹のそばに
さらにリモートワークの制度を利用し週3、4日は在宅で仕事をする。おかげで、郷里の新潟で闘病する妹のもとへ通うことができたという。
妹は「いつか第九を歌ってみたい」と願っていたが、18年11月に入院した。風間さんはその夢をかなえるため、地元の合唱団に2人で参加。12月のコンサートには主治医も同行してくれ、とても楽しそうに歌っている妹の笑顔があった。
「『帰っちゃうの?』と寂しい顔で見送られ、後ろ髪を引かれる思いで東京へ戻ったのですが、会社で事情を話したんです。上司も思いをくんでくれ、それからは毎日病室で付き添いながら仕事をし、12月末に妹を見送りました。最期までずっとそばにいられたのは幸せでしたね」
それも今の会社で働き続けたからできたこと。東京で1人生きるためには、仕事を続けるのが当然と思っていたが、周囲の患者仲間からは仕事と治療の両立が難しいという話を聞くことも多かった。
会社側から治療に専念するよう勧められ、閑職へ異動させられるケース。有休を1日単位でしか取れず、治療が長期間にわたる場合辞めざるをえない人たちもいた。そうした現実を知るなかで、風間さんが取り組み始めた活動がある。厚生労働省の委託事業「がん対策推進企業アクション」が募集する認定講師に選ばれ、各地で自身の体験を伝えているのだ。
「『私はがんです』と、胸を張って言えるような世の中になってほしい。がんに罹患することは悪いことでも、特別なことでもありません。早期発見で正しい治療を受ければ、普通の生活に戻れることをちゃんと理解してもらえたらと思っているんです」
周りの理解を得ることで自分の生き方も前向きに変えてきた風間さん。仕事をあきらめないことで、日々の生活も楽しめるようになった。だからこそ「がんになっても働き続けられる社会へ」と、溌剌とした笑顔で呼びかけている。