LGBTに寛容に見える米国社会の影
ドナルド・トランプ米大統領の対立候補を決める民主党の大統領選候補者争いで、一気に躍進し、注目を集めるピート・ブティジェッジ氏。同性愛を公表済みの同氏に対し、ある意味、世界で最も男らしさが要求される米大統領にふさわしくないなどとする声が国内で出ており、波紋を広げている。日本よりもLGBTに寛容に見える米国社会だが、内実は宗教観も影を落としており、様々な事情が絡み合っている。家事、育児の分担も含め「性的役割分業」に支配された「男らしさ」や「女らしさ」が求められる日本の社会構造と重なる部分が往々に見られる。
「長年にわたる保守的な人から、家族観についての説教を受けるつもりはない」。ブティジェッジ氏は、自らについて「米国はまだ、ゲイが大統領に当選できる国ではない」と批判したトランプ氏に近いラジオ司会者に対し、テレビ番組で反論。2年前に同性婚をした夫を愛し、誇りに思っているとの思いも重ねて強調した。
この司会者は同様に「どう見えるだろうか? 討論会のステージで、『Mr.Man(男の中の男)』であるトランプ氏の隣で、キスをする男を」などとも切り捨てている。トランプ氏を男らしさの象徴と捉えることで、その対比として、ブティジェッジ氏の性的指向を強く印象付け、トランプ氏の援護射撃をしている形だ。
大統領候補レースで注目すべきは……
一方これに先立ち、今月初旬にアイオワ州で行われた民主党の党員集会を巡り、ブティジェッジ氏への支持票を投じた女性が、投票後に同氏の性的指向を知ったため、信仰を理由に挙げて、投票用紙を取り戻すよう訴えている映像がSNSで一気に拡散し、こちらも大きな物議を醸した。映像で確認できるやり取りを通じると、この女性はキリスト教徒と見られており、同性婚は自らの信義に反するとの立場を示している。
民主党の大統領候補レースの行方は混沌としており、現時点で現職・トランプ氏への挑戦権を誰が獲得するかは、まったく見通せない。ただ、性的マイノリティーのブティジェッジ氏のスタンスが今後、続く各州の党員集会や予備選でどの程度受け入れられるのか否か、という点は注視した方がいいかもしれない。
家事をしない男はいるが子どものケアはする
多様な人種や宗教、居住地域、収入などによる違いが大きすぎるため、一概に決めつけるのが困難で、なかなか一言で言い表せないのが米国の特徴だ。LGBT論に限らず、男女の性的役割に関し、私が暮らす東海岸では「『男であることを強いられる』のは米国も同様」「信仰宗教が深く関わるので『男は強くたくましくあるべき』との保守的な考えに染まっている人は多い」との意見に接することは多々ある。
他方「子どもの送り迎えやバーベキュー時の調理全般など、家事、育児をしっかりしてこそ父親だ。そして、妻を大切にする」「共働き家庭で、家事をほとんどしない父親もいるが、子どものケアをしていない人はいないのではないか」との声も交錯する。確かに私自身、朝と午後の1日2回、長女、長男それぞれの学校への送迎を連日続けているが、アジア系や欧州系も含めて人種を問わず、父親の姿を見かけるのは全く珍しいことではない。
“伝統的な男らしさ”は男にとっても有害
全米心理学会が昨年公開した「男らしさについてのガイドライン」によれば、心理学の観点から、競争力や優位性、攻撃性を特徴とした伝統的な男らしさは、男性自身に有害であると指摘。臨床医の役割は、男性に対し、こうした有害のイデオロギーを捨てさせつつ、勇気やリーダーシップなど潜在的にポジティブな面に柔軟性を見いだすように促すことだと強調している。
さらには、時代の変化に伴い、男性と女性の間で昼間(仕事)に期待されることは、それほど違いがないとした上で「男性を変えることができるなら、世の中を変えることが可能になる」と結んでいる。これらから浮かび上がるのは、伝統的な男らしさを追求するあまり、精神的なダメージを受けやすく、心身に悪影響を与えるので、男らしさから解放されれば、世間も変わるということ。
女性への悪影響も大きい
あくまでも米国の学会が提唱したケースではあるが、「男らしさ」を求められることが目立つ日本男性に当てはまる点は多いはずだ。
さすがに「男子、厨房に入るべからず」は死語の部類に入っていると信じたいが、「男だけが昼間、働いてナンボのもの」「男に育児(育休)なんて必要ないだろ」「常に女性より優位であるべき」などは、いまだに根強く残る価値観だ。筆者の周りを見ただけでも、この価値観にとらわれ、苦しんでいる日本男性の話は40代、50代を中心によく聞く。
こうした価値観があるがゆえに、相対的に「女性は結婚したら、仕事を辞めるべき」「女性に高学歴は必要ない」「夫より妻の方が高収入なのは恥ずかしい」などの見解が今も根強く存在する。ここ数年、大学の医学部入試で、女子の得点を操作するなどの不正が発覚したのも、この価値観の延長線上にあると言っても過言ではなかろう。