今、パーソナルスタイリングサービスを提供するベンチャー企業を経営する市原明日香さんは、息子がいなかったら、起業していなかったと断言する。長男の闘病と、市原さんのキャリアの軌跡を追う――。

月3000円のパーソナルスタイリングサービス

「自分がここにいるのは、すべて息子のおかげなんです」

モデラート代表取締役CEOであり、二児の母である市原明日香さん。彼女は、明るく前を向き、温かいたたずまいを崩さない。

モデラート代表取締役CEO 市原明日香さん

モデラートは、「SOÉJU personal(ソージュパーソナル)」というパーソナルスタイリングサービスを提供するベンチャー企業だ。プロのスタイリストが対面もしくはオンライン上でカウンセリングし、顧客に合ったコーディネートの提案画像を月3000円で配信している。

代官山には自社ブランド「ソージュ」の店舗を構える。「ファンクショナルラグジュアリー」というコンセプトのもと、ベーシックで上質、かつしわにならずかさばらないという仕事着の機能性を重視している。点数を絞ることでリーズナブルな価格で提供していることも、百貨店ブランドとの大きな差だ。週に数日はパーソナルスタイリストもやってきて、店内でカウンセリングをすることもある。

「そんな服装で出社されたらブランドイメージが壊れる」

市原さんは、新卒時代に大手コンサルティング会社でCRM(カスタマー・リレーション・マーケティング)の仕事に就いた。その経験から、LVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー)ジャパンに転職。LVMH勤務時代に結婚し、2004年に長男を出産した。

同社で仕事をするうえで困ったのは服装だった。

前職ではダークスーツが「失礼のない服」の基本だったため、いつも暗い色のスーツを着て出社していた。しかし、LVMHはファッションの最先端の企業だ。あるとき、先輩女性から、「そんな服装で出社されたらブランドイメージが壊れる」と面と向かって言われてショックを受けた。

「ブランドにも興味がなく、ダークスーツは誰にとっても無難な『失礼のない服』だと思っていました」と市原さんは苦笑する。

先輩とともに百貨店に直行

働く女性のためのきちんとした服には、ある種の“ドレスコード”もあることに気づいた市原さんは、おしゃれな先輩にお願いして、その日のうちに百貨店に直行した。先輩に服を選んでもらい、まとめ買いするためだった。これが、市原さんが服をスタイリングしてもらうことの重要性に気づいた原点だ。

ただ、おしゃれな人も、服やコーディネートの良し悪しは感覚で選んでいる。「センス」の磨き方がわからず、なかなか自分自身のおしゃれ度は上がらなかった。

その後、仕事と家庭の両立を考え、アンチエイジング関連のベンチャー企業に転職した。しかし、転職から1年後、長男が3歳の時、市原さんの仕事人生が急転する出来事が起こった。

告知を受けたとき脳裏に浮かんだこと

長男が風邪をひき、なかなか良くならない日々が続いた。そのうち、貧血の症状が出てきたため、医師に「血液検査をしたほうがいい」と検査を促された。

すると、検査した日の夕方、病院から急に電話がかかってきた。

「息子さんの白血球の値が異常です」

長男は白血病に侵されていた。市原さんは愕然とした。

告知を受けたとき、動揺した彼女は医師に尋ねた。

「私はこのまま仕事を続けられますか」――。

医師は、ちょっと難しいでしょうね、とだけ答えた。

市原さんの脳裏をよぎったのは、「これで仕事人生は終わった」という一言だった。

「なぜそんなことを考えてしまったのか。息子への罪悪感はいまだに消えません」と市原さんは後悔の言葉をつぶやいた。しかし、もともと仕事が大好きで、働き続けるために職場を選んできた女性であれば、だれだってそんな考えが脳裏をかすめることだろう。

入院は1年続き、会社を退社

長男はそのまま入院することになった。市原さんがいないと水すら飲まないほど「ママ大好きっ子」だった長男。抗がん剤治療の看護のため、まだ赤ちゃんだった次男を実の母に預け、市原さんも一緒に病院に寝泊まりする日々が始まった。入院から半年後、務めていたベンチャー企業は退社した。

長男の入院は1年続いた。入院中は母子一丸となっての戦いだった。「私自身の時間を取ることが難しく、歯磨きする時間すら取れない。歯周病になってしまいました」(市原さん)。

その努力が実り、無事退院し、通院治療での経過観察に切り替わった。とはいえ、体に負担の大きい治療の後で、一日中保育園にいるのはつらいということもあり、長男は幼稚園の年中児クラスに中途で入園した。息子の周囲の人々にどの程度病気の話をしていいのかも判断しかねて、自分自身も幼稚園のママ友の輪になかなか入れずに苦労したという。

しばらくは安穏とした日々が続いたが、恐れていたことがまた起こってしまう。

小学2年生になり、サッカークラブに通っていた長男が、車の中で嘔吐した。白血病の再発だった。

2度目の抗がん剤治療は、以前より強力な薬である「デカドロン」を使うことになった。デカドロンには食欲が激しく亢進するという副作用がある。「おなかすいた、もっと食べたい」とせがむ長男の姿がただつらかったという。前回同様、付きっ切りでの看病となったが、治療は成功し、長男は無事退院することができた。

ブランク7年の再挑戦

仕事を辞めてから7年が過ぎていた。長男が5年生になったころ、「お母さん、仕事に本腰を入れてみようと思うんだ」と聞いてみると、長男は「僕はもう大丈夫だよ」と背中を押してくれた。

その言葉に励まされ、もう一度仕事をしてみようと市原さんは動き始めた。しかし、ブランクの長さに一般企業では再就職は難しそうだと断念。そこで一念発起し、「人の役に立つことをしたい」と起業することにした。

起業した初めのころは、かつて培ったクリエイティブやマーケティングの受託やウェブ制作を受注していた。しかし、徐々にファッションに関するビジネスでの事業展開を考えるようになった。

なぜファッションで起業したか

あんなに無頓着だったファッションアパレルで起業することにしたのは、LVMHでの経験に加え、入院時のファッションが影響していた。

入院中の長男を看病するとき、看護師に「雑菌が入るのでニットを着てこないでください」「常に洗った服を着てきてください」という服装の指示があったため、デニムのスカートにコットンのTシャツで毎日過ごすしかなかった。

そんな生活をしていたため、起業して外部とのミーティングが入ったときに着ていく服がまるでないことに気づいた。とはいえ、働いていたころと違って出せるお金も限られている。「毎日自分のワードローブとにらめっこしていました」(市原さん)

パーソナルスタイリストの可能性

そんなとき、「パーソナルスタイリスト」という職業があり、日々のコーディネートにアドバイスをしてくれる人の存在を知った。早速ネットで検索して、プロのパーソナルスタイリストを家に呼ぶことにした。

パーソナルスタイリストは、市原さんの持っているワードローブを確認すると、「もっとハリ感のある素材を選んだほうがいい」などと具体的な言葉でアドバイスをしてくれた。ファッションの良し悪しというのは感覚的なものだと思っていたが、きちんと言語化できることに驚き、パーソナルスタイリングの価値を実感し、そこにビジネスの芽を感じたのだった。

その一方で、短所も発見した。「長いチェスターコートを買ったほうがいいよ」とパーソナルスタイリストに言われたものの、どこで買えるのかはわからないのは難点だった。また、2時間あたり3~4万円が1回の利用料の相場であり、この金額では毎月気軽に使えそうもなかった。

2015年、パーソナルスタイリングをサービスの主軸にしたいという目標のもと、まずは自分のクローゼットを整理する機能のあるスマホアプリパーソナルスタイリング「LetMeKnow」をローンチした。そうすると、中にはサービスを面白いと言ってくれる人も出てきたため、1年後には会員制のオンラインパーソナルスタイリングサービスへとリニューアルした。

事業の立ち上げ期に3度目の発病

そうした立ち上げ期のバタバタのころ、長男の白血病の再発が判明する。

3度目の難局だった。しかし、市原さんだけでなく長男も、1回目、2回目の治療時よりずっと強くなっていた。

長男はすでに小学校6年生になり、入院時も一人で何でもできるようになり、付きっ切りの看護は不要だった。

また、今回は抗がん剤治療ではなかった。小学校4年生になっていた次男の白血球の型が長男の型と適合していることがわかり、次男をドナーとした骨髄移植手術が行われたからだ。

骨髄移植はドナーにとっても大きな負担がかかる。骨髄が適合しているとわかった時、市原さんは次男に「どうする?」と尋ねると、「もちろんやるよ!」と感受性の高い次男はうれしさのあまり泣きだした。

そうして、手術は成功し、拒否反応もほとんどなく、退院することができた。こうして、次男の力も借りて、白血病の壁を乗り越えていくことができたのだった。

投資家の厳しい言葉に傷つくことも

ここから市原さんの人生が、また仕事へとドライブしていく。

パーソナルスタイリングサービスには順調に顧客がついた。継続率もよく、2016年半ばには、事業をスケールさせるための投資家探しを始めた。しかし、これが大変だった。

代官山の店舗にはオリジナルブランドの商品が並ぶ。

なにせまだ規模が小さく、かつリピート客を積み上げていくようなビジネスモデルだ。売上を包み隠さず伝えると、「そんな小さい数字で出資してもらおうなんて恥ずかしくないの?」という投資家の心無い言葉に傷つくこともあった。

そんな中、18年5月にエンジェル投資家が「オリジナルブランドを作ること」を条件に2000万円の投資をしてくれることになった。その資金で9月にオリジナルブランド「ソージュ」を立ち上げた。商品点数はたった3点からのスタートだった。それでも、自身のブランドを持ったことが次の資金調達にもつながった。

代官山に店舗をオープン

こうしてようやく事業も波に乗り、同年10月、代官山に実店舗となるスタイリングサロンをオープンした。

今年(19年)9月には、「ソージュ」を核にしたワードローブづくりをスタイリストがサポートする年間プランも開始した。今後は、1万点以上あるアイテムから10点ほどに絞れるような機械学習を取り入れるなど、スタイリストの仕事の効率化も進めていくという。

「企業の看板を背負っていた仕事をするのはある意味ラクでした。起業したら、会社の信用もなく、全然相手にしてもらえないこともあった。でも、今は自分で決めたことを好きなようにやっている納得感がある」と市原さんは言い切る。

家庭のほうはというと、兄弟げんかで、次男が「お前なんかに骨髄あげるんじゃなかった!」と悪態をつくほどに、長男は元気になった。

家族とともに自分の人生がある。一歩ずつ、市原さんは前に進んでいく。