2019年度の日本の出生数は90万人を割る見込み――。衝撃的な数字がニュースになった。少子化の加速が止まらない中、女性への出産プレッシャーも高まる。なぜ、いまだに少子化を女性の問題と考える向きが後を絶たず、女性がこうも責められるのか。
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2年早く出生数90万人割れ

昨年度、日本の出生数が過去最低数を更新したとのニュースも記憶に新しい中、2019年度は厚生労働省の予想よりも2年早く出生数の90万人割れが見込まれ、1899年の調査開始以来、いよいよ過去最少となることがわかった。日本社会があらかじめ覚悟していたよりも、少子化は加速しているのだ。

そもそも、出産適齢期の女性の数が減り始めた。頼みの綱だった、人口ボリュームの大きい団塊ジュニア(1971〜74年生まれ)はもはや「高齢化」し、いま45歳から48歳となって出産適齢期を過ぎてしまった。20代、30代は団塊ジュニアの60〜75%ほどしかいない。子どもを産めるのは彼女たちであり、彼女たちが産まなければ子どもは増えない。

「産まないで自由に生きよう」のパラドクス

ネットで検索をしてみると、産まない当事者である女性が書いた、実に多くの記事や本がヒットする。その名もずばり「産まない理由」とか、「産みたい、産まなきゃなんて思って生きてきたけれど、産まないと決めたら楽になった」とか。子どものいない女性の生き方を呼ぶ語彙として「チャイルド・フリー」や「ノンママ」なんて新しいカタカナ表現に混じって、「子なし」なんて残酷で自虐的な表現も見受けられる。

子どもや家族にとらわれない女性の、新しくて自由な生き方を提唱。だがそれらの本はまるで自分たちに言い聞かせるみたいに、「自由に生きようよ、子どもは必要ないよ、産まなくたっていいよ、そういう人生もアリだよ」と切々と説いているようで、それがかえっていかに彼女たちがこれまで「産まない女の人生」に不安と不自由を抱え、ひそかに傷つき苦しんできたかを際立たせ、読者に強く印象づけてもいるのだ。

平和を求める市民のシュプレヒコールは平和ではない環境ゆえであるように、「産まない人生」をことさらに話題にするということは、そのぶん「産む人生」を強烈に意識していることの裏返しである。産む・産まないの選択が本当に自由な文化では、「産まなくていい、自由になろう」という本は出ない。

日本で「産まないこと」が意味すること

「子ども? いないよ」の簡単な一言では済まない。いちいち理由を述べたり言い訳をしたりしなければ、周りに納得してもらえず解放してもらえない居心地の悪さ。自意識。自責の念。

「国家の発展、みんなの発展のためにはとにかく人口が増えなけりゃいけない、だから若い女の人は産む“べき”」

戦中の「産めよ育てよ」「富国強兵」思想からあまり成長が見られないが、そんな発想に疑問が持たれず、いまだに大手を振って歩くのが日本だ。そんな日本で「産まない」とは、どこの誰ともわからない誰か「世間」がムラ社会の隣組感覚で「“義務”を果たさないあなたはわがまま」と暗に責める視線を引き受けるということでもある。

女を責めたって産むようにはならない

「いまどきの若い女性は、どうして子どもを産まないんでしょうねぇ」と、老いた男性政治家が地方講演で高齢者相手に無邪気に話題にする。「若い女性に産んでもらわないとわれわれは困るんですよ」なんて、産まない性が他人事(ひとごと)として他人(ひと)を責める。

「女性が高学歴化して仕事を持ち、“自我”を持って、結婚したり子どもを産まなくなったりするのは先進国病」なのだそうだ。「やまい」「ビョーキ」なのだそうだ。それはぜいたくだ、怠惰だ、無責任だ、ずるい、自己愛が強い、健康でない、治療すべき、くらいの言われようだ。

そうなんですかぁ。でもそんなふうに責められても、それで若い女性がこぞって「そうだよね、反省したわ! じゃあ今すぐ子どもを産まなきゃ!」なんて思わないだろう。

男性社会で出産・子育てなんて、無理ゲー

だいたい「若い女性に産んでもらわないと」なんてフレーズを口にする人たちは典型的に、自分たちが産んだわけでもない、まして育てたわけでもない、おじさん、おじいちゃんたちなのだ。

「若い女性は〜」なんて自分を棚上げして言っていないで、自分の胸に手を当てて聞いてみればいいのだ。「仮にあなたが若い女性だとして」、

「この、若年層の収入が増えず、AI化で人間の仕事に刻々と大きな変化が起こり、結婚しても女性側も働き続けないと十分な家計が成立しない現代の日本で、10カ月の妊娠期間を満員電車で通勤し、保育園に入れるタイミングを逃さないように育休を数カ月で切り上げ、泣き叫ぶ乳幼児を保育園へ預け入れた足で職場に向かい、“ちゃんと”キャリア女性らしく働いて稼いで、子どもを抱えて帰宅すれば山盛りの家事をヘトヘトになってこなす。そんな苦行まみれの生活をわざわざ“愛”とか“国の発展のため”みたいな自分を助けてくれるわけでもないお題目のために、『あなた』はしますか?」

愛とか国家のためとか、一度は親になったほうが人間的な成長になる、とかいうのなら、そんな一方的な不利や負担を強いられる「無理ゲー」じゃなくたって、もっと他に手段はある。そういう結論に至るのは、十分理解できることではないだろうか。

少子化問題が女性の問題にされるおかしさ

産まない当事者の女性たちが、実家の親や親戚から散々聞かされているだろう「どうして産まないの」というもの言いは、産むのが当然という「過去の常識」からきている。その過去の常識という観点からすると、少子化社会は「女性が産まないから、結婚しないから」と、完全に女性の問題にされている。

「ようやく子どもを産みたいと思った時には、手遅れだった」——。一生涯働き続けることが前提とされる40代以下の世代では、一生涯働けるキャリアを積むために20、30代の体力のある時期を仕事につぎ込み、気づいたら子どもを産めない体になっていた女性も少なくない。そうやって「産まないんじゃなくて産めないのだ」と悲しむ人たちだっている。

妊娠・出産は、女性にしかない機能だ。しかも時間限定的で、いつでも漫然と可能なものではない。そんな、女性の身体にしかない特別なはたらき、特徴、特権であるにもかかわらず、現代の私たちは「出産は女の特権」だなんて、とてもそうポジティブには思えていない。

出産と子育てが女性にとって不利になる悲しい社会

それは、出産と子育てが自分の人生にどちらかというと不利をもたらすよね、という本能的な判断を、現代の多くの女性がしているからではないか。どうこう言ったって日本は依然男性主導的な社会、男性のほうが生き残るのに有利な社会なのだ。そんなところに女性が組み込まれ、「参加させていただいている」限り、女性の耳に出産がポジティブに響くことはない。

男は結婚しようとしまいと、配偶者が出産しようとしまいと、なんだかんだ「逃げられる」。だけど女は「逃げられない」。そんなふうに社会全体が本心の部分では感じているのにふたをして、出産可能年齢の若い女性たちに向かって「なぜ産まないの」と意地悪く聞き、「産まないのはわがままだよね」と退路を断とうとしているというのが、女の側からなら見える。

だから女性政治家には、「いまどきの若い女性は、どうして子どもを産まないんでしょうねぇ」「若い女性に産んでもらわないとわれわれは困るんですよ」なんて他人事感満載で言い放つ人はいないのだ。当事者だからだ。産む・産まないが、自分の「女の体」と直結した問題だからで、それを語るなら自分はどうなのかと振り返らざるを得ないからだ。

男性社会の中に女性が「組み込んでいただいている」価値観や仕組みにおいて、「どうして産まないの。社会が困るんだけど」と聞かれるような出産は義務であり、負荷でしかない。それに静かに抵抗する女性が多いことを、正常なバランス感覚を持つ人間なら、なぜ責められようか。