※本稿は著者・久山葉子『スウェーデンの保育園に待機児童はいない 移住して分かった子育てに優しい社会の暮らし』(東京創元社)の一部を再編集したものです。
スウェーデンに移住…“専業主婦”という概念が存在しない
カルチャーショックと育児ノイローゼとホームシックに交互に見舞われ続けた移住当初の三ヶ月。真冬で暗いせいもあり、気分はどん底まで落ち込んだ。それにさらに拍車をかけたのが、「スウェーデンで仕事が見つかるのだろうか」という不安だった。
そもそも“共働きに優しい社会だから”という理由で生活の拠点をスウェーデンに移したのだ。確かに夫は毎日五時ぴったりに会社を出て、その十五分後には家に帰ってきている。東京にいたころとは比べ物にならないほど家族で過ごす時間が増えたし、余裕も生まれた。本当にありがたいことだ。しかしわたしの仕事が見つからなければ、肝心の“共働き”にはならない。
日本にいれば、「引っ越したばかりだし、子供も小さいし、しばらくは専業主婦でもいいか」と思えたかもしれない。しかしここは昼間子供を遊ばせる場所が少なすぎるし、昼間に集えるような専業主婦の友達もいない。わたしがこの街の出身だったとしても友達はみんな昼間働いているだろう。
それに加えて、なんだか肩身が狭いのだ。そもそも専業主婦という概念からして存在せず、仕事をしていない人は性別や子供の有無に関係なく、“失業者”という肩書きになってしまう。税金を払ってなんぼのこの社会では、税金を払わずに社会保障制度を利用しているというだけで申し訳ない気持ちになるのだ。
専業主婦イコール失業者という肩書きに
最初にそのことを思い知らされたのは、保育園に申し込むための用紙だった。両親の職業を書く欄があった。書き方の詳細がよくわからず、わたしは市役所に電話して教えてもらった。担当者は不慣れなわたしに親切に教えてくれた。
「お子さんのパパのほうは“株式会社○○の正社員”と書けばいいですよ。そしてあなたは失業者だから……」
“専業主婦”と書くという選択肢はなかった。世間から見れば、わたしは失業者以外の何者でもないのだ。社会のお荷物ということか。やるせなさが胸にあふれた。
それとときを同じくして、夫の職場に寄ったときのことだ。男ばかりの夫のオフィスには、紅一点の総務担当の女性がいた。
彼女がわたしの顔を見るなり、「どう? 仕事見つかった?」と訊いたのだ。「……見つかってません」と答えなければいけなかったときの屈辱感。またしても自分が失業者であることを実感させられた。しかし、二歳にもならない子供を抱えて異国に越してきてまだ二週間の女性に、「仕事見つかった?」って訊くのって、あまりに酷なのではとも思う。いや、そう思うのは日本人だからか。この国ではどんなに小さい子供がいようとも、女性も働いていて当然なのだから。
「失業中の人こそ就職活動が大切」だから保育園に預けられる社会
保育園の申し込みは、移住してすぐにやった。夫の上司に「申し込んでから入れるまでたいてい三ヶ月かかるから、一日でも早く申し込んだほうがいい」とアドバイスされたからだ。本来は個人識別番号がないと申し込めないが、移住直後で取得中だからわかり次第連絡しますと注釈をつけて申し込んだ。
スウェーデンでは申し込みから四ヶ月以内に保育園に入れることが保証されている。つまり自治体には四ヶ月以内にその子のために保育園を確保する義務があるのだ。つまり待機児童は存在しない。自治体は子供の出生人数を把握し、必要な場合は新しい保育園を建てる。特にスンツヴァル市は人口が増加傾向にあるから、常にどこかで保育園の建設計画が進んでいる。日本でも、小学校・中学校については「空きがないから入れません」なんてことはありえない。スウェーデンではそれが保育園から保証されているのだ。
わたしの場合、仕事も決まっていないのに保育園に申し込んでいいのかと不安だったが、それは杞憂に終わった。ありがたいことに、失業中でも週に十五時間まで保育園に通わせることができる。むしろ失業中の人こそ、就職活動の時間を確保するのが大切だという考え方なのだ。確かに小さい子供が常にそばにいる毎日は慌ただしく、わたしも気ばかり焦りながら、就職活動はちっとも進んでいなかった。
一月半ばに保育園に申し込んで、二月頭にはもう保育園決定の通知が届いた。ちょうど四月にオープンする新しい保育園があり、そこに入れることになったのだ。
「夫が働いている」の説得力はゼロ
保育園が決定すると本格的に仕事を探しはじめた。どの会社も律儀に返事はくれたものの、「今は日本市場には力を入れてないから」という返事ばかりだった。
この街の企業に採用されるという幻想を捨てたとき、残された選択肢は自分で起業することくらいだった。確かに、スウェーデンに暮らしている日本人の先輩方で、フリーランスの通訳やコーディネーターとして活躍されている方は何人か知っており、わたしもそういう働き方をしてみたいという憧れはあった。
そう思いはじめたころ、東京の元職場の紹介で、日本の展示会に出展するスウェーデンの団体からパンフレットの翻訳を依頼された。
報酬の支払いにさいして、スウェーデンのクライアントから確認があった。
「あなたが個人なら源泉徴収をするし、会社なら源泉徴収はせずにあなたの会社番号を税務署に連絡するから教えて」
こういう小さな仕事はときどき舞いこむのかもしれない。それならここで一気に会社登録をしてしまおう。そう思いつき、すぐに会社登録を行った。日本で言うところの、個人事業主というやつだ。
会社登録自体はオンラインでできるのだが、税務関係の登録用紙の書き方がよくわからなかったので、税務署に出向いて教えてもらった。そのとき、税務署の人にとても驚かれた。
「今無職ということですが、失業手当ももらってないんですよね? どうやって生活しているの?」
「いや、夫が働いていて、わたしは家に二歳児もいますし……」
日本だとそれはごく普通の回答だと思う。でもこちらの税務署のお姉さんは、それではまったく納得がいかないようだった。夫が働いている、という答えにはなんの説得力もないみたいだ。やはりこちらでは男女関係なく経済的に自立しているのが当たり前なのだなとつくづく思わされた。
仕方なく「日本で働いていたころの貯金を切り崩してもいます」と説明すると、やっと納得してもらうことができた。そして、こう言われた。
「じゃあこの申請用紙の余白にそう書いておいてください。じゃないとみんなが『この人、どうやって生きてるんだろう』って不思議に思うから」
さっさと仕事を軌道に乗せて一人前に稼がないと、この社会では理解不能な存在になってしまうということか――。無事に会社登録はすんだものの、そんなプレッシャーがのしかかってきた。
十五時間保育で作業時間を確保
求職中――つまり失業者でも週に十五時間保育園に預けられるというのは、本当にありがたい。日本でも就職活動中に保育園に申し込む権利はあるが、待機児童の多い中、なかなか入れてもらえないのが現状だろう。就職活動中から預けられるというのは、非常によいシステムだと思う。
いざ仕事が決まったときに、同時に子供が保育園にフルタイムで入園するとなると、親子ともにかなりの負担になるが、就職活動中から預けていれば、慣れ親しんだ保育園に通う時間が長くなるだけですむのだ。
学校庁のホームページにはこのように規定されている。
この十五時間保育のおかげで、わたしはやっとやりたかった作業に手をつけることができた。フリーランスとして仕事を受けるための個人事業主登録や、そのための税金の手続きなどだ。
娘のいない静かな自宅でパソコンを開く。窓辺に並んだ植木鉢は、春の日差しをいっぱいに受けている。スポティファイ(スウェーデン発祥のデジタル音楽配信サービス)で昔好きだったスウェーデンのアーティストを探しては、それをBGMに作業を進めた。わたしの生活にも、ようやく落ち着きが訪れようとしていた。