実習で見た鉄道の現場に感動
2019年6月、執行役員から常務執行役員へ昇格した阪本未来子さん。それまでの営業部に加えて観光やオリンピック・パラリンピックも担当することとなり、約1万人の社員をマネジメントする立場に立った。日本の鉄道業界を牽引する一人だが、部下に声をかける姿は気さくそのもの。率直で表情豊かな話しぶりからは、人間味あふれる女性という印象を受ける。
JR東日本が女性採用に力を入れ始めた1989年、事務系総合職の第1期生として入社した。民間企業として走り出したばかりの、まだ未完成なところに魅力を感じたのだという。その期待通り、社内には「これから皆で新しいJRをつくり上げていこう」という熱意がみなぎっていた。
「入社後の実習では、駅や電車区、工場、保線区などあらゆる職場を見て回って、鉄道はこんなに多くの人の支えで成り立っているんだと感動しました。全員が、お客さまの安全やお客さまに安心してご利用いただくために一生懸命働いている。その時、私もお客さまの役に立ちたい、誰もが使いやすい鉄道にしたいと強く思ったんです。そのためにも第一線で働きたいと。今も続く、私の原点です」
当時、女性が就ける職種は夜間勤務がないものに限られていたため、実習後は渋谷駅の旅行センターに配属され、キャリアをスタート。その後は人事部の教育・研修関係の部署で主に経験を積んだ。だが、ハードワークがたたってメニエール病を発症してしまう。もともと目の前のことに熱中しやすく、つい頑張りすぎてしまう性格。阪本さんは「今思えば、男性以上に働かないと認められないと思っていたのかも」と振り返る。
仕事と生活のバランスに苦心
ただ、その情熱は会社にもしっかり伝わった。翌年、より現場に近い営業職場へと配置転換。茨城県の水戸支社で、地域密着やお客さまの役に立とうと工夫を重ねる毎日が始まった。入社当時の願いに近づいたこともあってやりがいも大きく、充実感をもって働いていたが、2年後には再び人事部へ異動。待っていたのは、やりがいはあるが前回以上にハードな日々だった。
「仕事が多岐にわたっていたせいもあり、なかなか自分自身の趣味や友人と会う時間が持てず、意欲が下がったことも。そんな時期に、両親がそろって入院してしまったんです。仕事と病院通いと、自分では何とか両立できていたつもりだったんですが、親戚から『人生で何が大切か考えたほうがいい』と言われて……。正直、ショックでした」
この時、30歳。ワークライフバランスを一度見直すべき時期にきていたのかもしれない。親戚の一言は、自分では気づかなかったアンバランスを正すきっかけになった。一時は落ち込んだが、長く働き続けるためには“頑張りすぎる自分”のコントロールが必要と思い直し、徐々に前向きな気持ちを取り戻していった。
やりたい仕事に手が届かず限界を感じ退職を考えた
その翌年、阪本さんは社内試験を受けて「びゅうプラザ上野」の助役として初めてのマネジメント職に就く。これまでとは違い、主な業務は職場の「マネジメント」。難しいジャッジを迫られることも多く、責任の重さを痛感したという。約1年と短い間ではあったが、この期間はリーダーの役割を考える上で大事なステップになった。
キャリア最大のピンチが訪れたのは、次の異動先でのこと。労働基準法の改正により、女性の職域が一気に広がろうとしていた。阪本さんはその準備をすべく本社営業部に異動。夜間勤務や駅、車掌、運転士など、従来は“男の職場”だったところへ女性も進出することになり、駅を所管する営業部としても、制度や駅の設備も含めて早急な改革が求められていた。阪本さんも、膨大な準備作業に追われながら懸命に改革案を練った。
「他の部署や支社との調整は困難を極め、やっとの思いでまとめた提案をたびたび差し戻しされて、『こんなに頑張っているのに何が足りないんだろう』と、何度も考え込む日が続きました。自分自身の限界を感じ、初めて本気で辞めようと思った時期でした」
ある時、上司から、「どうしてそんなに悲壮感を持って仕事をするのか」と言われたことを今も忘れない。「この経験、この一言で、初めて自分と向き合うことができたのかもしれません」。ただ、今回ばかりは、前向きになれる方法がわからなかった。
他社の女性役員に救われて再スタート
救ってくれたのは、2年にわたる外部研修で出会った他社の女性役員だったという。誰にも言えなかった悩みを2時間にわたりただただ聞いてくれた。
「話を聞いてもらううちに、頭が整理されてつらさの原因が見えてきました。今までは、事前に与えられていたことをしっかりと間違いなくこなすことに長けていただけでした。今思えば、今回の労基法改正では、目的は何か、会社としてどのような価値を創り出すことができるのか、ありたい姿を関係する皆で共有・定義し、施策を打ち出すべきだった。そして、何より私が入社したいと思った動機は『全てのお客さまにとって誰もが使いやすい鉄道にしたいからで、周囲に自分を認めてもらうことじゃない』そう気づいてから、仕事への意識が変わりました」
試練を乗り越えてから3年後、阪本さんは渋谷駅の副駅長に就任する。女性ではまだ数少ない管理職への大抜てきだった。ここでは、アメリカ同時多発テロ事件による厳戒態勢、サッカーW杯での駅前の大混乱、Suicaの導入開始などに当事者の一人として立ち会い、鉄道が果たすべき責任やその影響の大きさをあらためて現場で実感した。何よりも「明るく元気に」という駅是のとおり、リーダーは「悲壮感」より心の余裕を伴った「明るさ」が大切だと教えられた。
入社20年目で思いをカタチに
以降、営業部門の管理職としてさまざまな部署を経験。41歳の時には単身赴任にも直面したが、家族の「責任をもって応えるのが仕事なんだから頑張ってこい」という言葉が背中を押してくれた。地方支社で、お客さまや地域と密接に関わりながら成長を続けた阪本さん。その経験は、次に任された新組織の立ち上げに大いに役立った。
任されたのは、輸送の安定性を含めたお客さまサービス向上のための新部署「サービス品質改革部」の立ち上げ。接遇やお客さまの声を基にした従来のサービス施策だけでなく、輸送品質向上を全社で取り組むという社の方針は、お客さまの役に立ちたいという自分の思いとも重なった。その直前に、阪本さんは一般のお客さまを招いて社員との直接対話を開いた。リアルなお客さまと現場第一線社員の対話を通して、会社が目指すべき姿を「みんなのJR」という言葉にまとめ上げるプロセスを体験し、今こそこの共創の精神を反映すべきだと思った。
お客さま、会社、自分の思いが一つの言葉になった瞬間。入社からちょうど20年が経っていた。確かな原点があったからこそ、ここまで歩んでこられたのかもしれない。忙しさやつらさで見失いそうになった時は、周りが思い出させてくれた。
「事故防止や接遇向上など今のポジションですべきことで頭がいっぱいになっていた時期もありました。その時は、部下に『部長は将来何をしたいですか?』と聞かれてハッとしましたね。以降は原点を忘れたことはありません。お客さまのために、誰もが使いやすい優しい鉄道にしたい──。役員になった今も、私の軸として胸に刻んでいます」
役員になってもありのままの自分で
49歳になった時、執行役員に就任。はたからは十分な実績を積んだ上での昇格に思えたのかもしれないが、本人は「絶対無理だと思った」と笑う。就任はしたものの、重責を担う自信が持てず、やがて自分に足りない点ばかりを数えるように。このままではいけないと、メンタルトレーニングに通い出した。
メンタルトレーニングでは、指導に従って、やり遂げてきたことや自分で頑張ったと思ったことを20枚以上のA3用紙に書き出してみたところ、「私、結構頑張ってきたなと思えて」スッと肩の力が抜けたという。自信がないと認める勇気が、前進のきっかけになったのかもしれない。支えを求めて受けたメンタルトレーニングが、ありのままの自分でいいんだと気づかせてくれた。
今後は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けてハード・ソフト両面からの「誰もが使いやすい鉄道」のさらなるレベルアップを目指す。
「安全・安心の提供を第一に、国内外のお客さまに十二分に楽しんでもらえるよう、社員一人ひとりが成長できるよう、力を尽くしていくつもりです。この貴重な機会を通して、皆さんに『日本っていいね』と思ってもらえたらうれしいですね」
役員の素顔に迫るQ&A
Q 好きな言葉
一期一会
Q 趣味
散歩、映画鑑賞
Q 愛読書
『ドラッカー 365の金言』P.F.ドラッカー
Favorite Item
手帳と万年筆
「万年筆は上司から受け継いだ思い出の品。使うたび、上司の言葉や学んだことなどを思い出しています」
東日本旅客鉄道 常務執行役員 鉄道事業本部営業部担当 観光担当 オリンピック・パラリンピック担当
1989年、東京女子大学文理学部卒業。JR東日本に入社。人事部、営業部などを経て2001年渋谷駅副駅長に就任。07年、営業部長として水戸支社に単身赴任。その後、大宮支社営業部長、サービス品質改革部長などを経て15年執行役員 大宮支社長に。執行役員 鉄道事業本部営業部長を経て19年6月より現職。