“いつも笑顔でいなさい。いつも輝いていなさい。不機嫌な顔をしていると、そういう顔になっちゃうのよ”
女優の「野際陽子」は、知的でクールでカッコイイ、というイメージが強かったようです。確かに、母は勉強熱心で考え方も個性的だったと思いますが、ただクールかといえば、「えっ、どこが?」という感じ。おっちょこちょいで“天然”なところもあって、人を笑わせることが大好きでした。人前で話すときは笑いをとらずにはいられない。自宅でくつろいでいても、テレビを観ながら突然ものまねを始めたり。娘の私からすれば、とにかく面白い人でした。
もっとも子どもの頃はひたすら怖くて、厳しい母親でした。身の回りのしつけはもとより、最も厳しく言われたのは勉強。テストの点数が悪かったり、何度も同じ間違いをしたりすると怒鳴られ、手も飛んでくる。ものすごい教育ママだったのです。
母自身、幼い頃からピアノへの憧れがあったようで、習い事には熱心でした。4歳からピアノを習い始め、家では母が横に張りついていて、何時間も稽古させられました。私はピアニストになりたいわけじゃないのに、何でこんなに叱られなきゃいけないの……とイヤでたまらない。それでも必死で練習していました。
怒らせれば“怖いママ”でも、母の愛を疑うようなことはありませんでした。幼いときはよく「かわいい、かわいい、私の樹里ちゃん」と抱きしめられ、「ママの宝物はだれ?」としきりに聞かれたものです。
そんな母の愛情は絶対的なもの。私がどれだけ愛されているのか、いつも痛感していました。時には反発もしたけれど、どんなことがあっても、母の愛情だけは信じられるという思いが常にあり、自分の支えになっていたような気がします。
母に反対され続けても抱き続けた、役者への夢
誰しも思春期の反抗はあると思いますが、私の場合は芸能活動をめぐる意見の食い違いが大きかったですね。役者になろうと決めたのは5歳のとき。きっかけは父の舞台でした。ちょうど同じ年頃の女の子役があったので、「舞台に出ないか」と誘われたのです。私は「やりたい」と答えたけれど、幼稚園では芸能活動が禁止されていたので母に反対されました。結局、ほかの子が出ることになり悔しい思いをしたので、絶対に役者になると決意したのです。
ところが、高校を卒業するまでは芸能活動を認めない、というのが母の方針。ともかく高校を出るまでは普通の生活を送るべきだと娘に言い聞かせ、納得させようとします。「役者は人の人生を演じるものだから、それが糧になる」とも言われました。母としては、せめて少女の間は普通の生活を楽しませたかったのかもしれません。けれど、私は自分が心からやりたいと思ったことを抑えつけられ、純粋に学生生活を楽しむこともできず……一日も早く芝居の世界に飛び込みたくて、どれだけ母に訴えたことか。母への不満もつのり、中学、高校の頃は毎日のように親子で言い争っていました。
そうした日々の中で唯一のよりどころがお稽古事。どんなことも役者として無駄になることはないと思い、バレエ、水泳、エレクトーン、バイオリン、書道、日舞、乗馬、ダンス……と、少しでも自分で努力できることをしたかった。たぶん人生でいちばん忙しかったですね(笑)。
母によく言われたのは、「いつも笑っていなさい」
高校を卒業したら、自分のやりたいことに全力で挑戦したいと、私はその日を待ちわびました。母の勧めもあり大学へ進むと、ようやく芸能活動を許されました。念願の女優デビューを果たすと、母にいろいろ相談したり、アドバイスを受けたりするようになりました。
母によく言われたのは、「いつも笑っていなさい」という言葉。機嫌が悪かったり、気に入らないことがあってふてくされていると、「そういう顔になっちゃうのよ」と母は言います。さらに思春期になってからは「輝いていなさい」と。私が友人関係で悩んだときも、「相手がどう思っていようが、自分が輝いてさえいれば人は引きつけられてくるものだから」と励まされました。
それは役者になってからも母に何度も言われてきた言葉で、私も大事にしてきました。人として、女性として、素敵な人間にならなければいけないということ。生涯をかけて努めるべき目標になっていますね。
大人になるにつれ、母を見る目も変わり、母の生き方を知るほどに、男っぽい女性だなと感じました。たぶん若い頃は結婚なんかしなくていい、1人で生きていくと思っていたでしょう。本当に自立した人なので、誰かに頼って生きるとか、男性に甘えるということも苦手なタイプだと思う。そんな面も“カッコイイ”と見られる理由なのかもしれません。
本来そういう生き方が向いている人だから、21年間の結婚生活は大変だったのだと思います。母は気遣いが細やかなので、自分を抑えて我慢することも多かったはず。父と母は俳優としての方向性や生き方に食い違いもあったようです。両親が離婚したのは私が大学1年生、女優としてデビューしたばかりの頃でした。
母は子育てから解放され、役者の仕事も充実していました。TVドラマ「ずっとあなたが好きだった」(※1)で演じた“冬彦ママ”で大ブレイク。「ダブル・キッチン」(※2)「長男の嫁」(※3)などヒット作が続き、多忙を極めましたが、毎日楽しそうでした。
※1 1992年放映(TBS系列) ※2 1993年放映(TBS系列) ※3 1994年放映(TBS系列)
私も同じマンションの別の部屋へ移ったので、母は1人の時間を過ごすことが多くなりました。お酒が好きで、ワインなどを味わいながら夕食を楽しんだり、いろんな人を招いてバーベキューをしたり。いつのまにか母専用のビールサーバーが庭に置かれるようになりました(笑)。
気持ちを訴えたあの日。抱きしめ合って泣いた2人
一方、私は役者になるという夢を実現させたものの、いつも悩み苦しんでいました。自分にできることは精一杯やっているつもりでも、やはり不安はつきまとい、それを母に漏らしても「ネガティブなことを言っていないで、しっかりしなさい」とはね返されてしまう。だから母の前ではずっと素直になれなかったのです。その鬱憤(うっぷん)がだんだんたまり、ついにあふれ出たのは30歳を過ぎたある日のことでした。
母に訴えたい言葉を一気にぶちまけました。私はただ話を聞いてほしかっただけなのだと。そして、「抱きしめてほしかった」と、泣きながら訴えたのです。母は絶句してしばらく話を聞いていましたが、やがて自分も泣き始め、私をきつく抱きしめてくれた。何時間もかけて、お互いの気持ちを受けとめ合いました。
その日を境に、私は母に何でも話せるようになり母もすっかり変わりました。もともと甘えん坊だった私は子どもに返ったように、母のベッドに潜りこんだり、「しんどいよ」と抱きついてみたり。甘え放題だったので、なおのこと闘病する母を見守る日々はつらいものでした。
初期の肺腺がんと告知されたのは2014年秋。医師には手術をすれば大丈夫と言われ、抗がん剤もとてもよく効き、小康状態が続いていました。けれども再び肺に怪しい影が見つかり、病状は進行していきます。それでも母は仕事を休まず、最後の作品になったドラマ「やすらぎの郷(さと)」(※4)の撮影を終えた後に入院。1カ月余りで他界しました。
※4 2017年放映(テレビ朝日系列)
母から教えられたことはたくさんありますが、いちばん見習いたいのは、どんなにしんどいことがあってもユーモアに変えられるところ。母は決して楽観的ではなく、真面目なのですが、何かつらいことがあってもこう考えればいいという転換の仕方が上手な人でした。私は細かいことを気にしがちなので、母のように前向きに捉えて楽しく生きていけたらいいなと思う。それはまさに母の背中に教えられたことなのです。
女優
1975年、東京都出身。共に俳優の両親のもとに長女として誕生。94年、映画『シュート!』で役者デビュー以来、テレビドラマ・映画・舞台などで活躍。2003年、クエンティン・タランティーノ監督の映画『キル・ビルVOL.1』に出演。現在はテレビのバラエティー番組にも出演し、多方面で活躍中。18年5月、母の1周忌を前に『母、野際陽子 81年のシナリオ』(朝日新聞出版)を出版。