多視点で紡がれる圧倒的な臨場感
人生においてとびきりの慶事であるはずの結婚が、時に「人生の墓場」などと言われてしまうのはなぜだろうか――?
結婚を望む未婚者の立場から見れば、夫婦生活はやっぱり憧憬として映るのだろうし、既婚者の立場からすれば、墓場と表現したくなるのもやむを得ないといった心境もあるかもしれない。
本作『アタラクシア』(集英社)は、いくつかの夫婦とそれを取り巻く男女のすれ違いを生々しく描ききった多視点の物語だ。
登場するのは、ライトノベル作家の夫を持ちながら、フランス料理のシェフと交際する由依、浮気がちであまり家に帰って来ない夫と反抗的な息子や、どうにもソリの合わない実母らとの関係に怒りとストレスをため込む英美、DV夫に悩みながらも同僚との不倫を繰り返す編集者の真奈美――と、穏やかならざる夫婦ばかり。
ただし、これを単なる結婚生活のダークサイドととらえるのは早計というものだ。章ごとに視点の主を変えながらつづられる結婚や不倫に至るプロセスには、それぞれの事情に対する説得力がある。端的にいえば、圧倒的な臨場感が有無を言わさず読み手を結婚の真実に引きずり込んでしまうのだ。
そんなこの物語が、平静な心の状態を表す哲学用語である「アタラクシア」と題されているのは、実に意味深いものがある。
夫婦の数だけ問題がある
かつてフランスでモデルとして働いた経験を持つ由依と、作家である夫の桂。その夫婦の構図は、どこか冷淡だ。
自分のこと、将来のことを、あくまで自己ベースでさえずる桂に対し、感情をあらわにすることなく、「私たちが一緒にいる意味って何なのかな」と離婚を切り出した由依。慌てながらもどうにかロジックで翻意させようと口を動かす桂だったが、由依の心にはまるで響かない。彼女の側からすれば、他にパートナーがいるから別れたいというプライオリティの問題ではなく、自然と今の婚姻関係に意味を見いだせなくなっただけのことなのだ。
パティシエとして毎日終電ギリギリまで働く英美は、共働きゆえ実母を呼び寄せて生活しているものの、その生活はどこまでもストレスフルだ。
職場のシェフである蓜島が、人妻である由依とさも幸せそうに関係を営む様子に、「どうかしてますよ」と毒を吐く。仕事にかまけて家事や育児がおろそかになっていると小言を言う母に対して、「うっせーんだよババア」と憂さをぶつける。わがままで粗暴な物言いをする8歳の息子には、「もう一回言ってみろ!」と馬乗りになって怒鳴りつける。他者への憎悪で八方塞がりの状況の中、今日も職場で思わず「死ねや」とこぼす。そんな毎日だ。
低迷中のミュージシャンである夫に気を遣いながら家庭を守る真奈美は、暴力と隣り合わせの生活を強いられている。
友人であり、仕事相手でもある由依と食事をしている最中に、11歳の息子から「パパがずっとお酒飲んでる」とのメールを受け、真奈美は青ざめる。夫にとってアルコールはDVのスイッチに直結しているからだ。大急ぎで店を出て、駅まで向かいながら「もし何か暴れる音がしたら2階のトイレに入って鍵閉めてね」と返信を打つ母親の心境たるや……。
見ようによっては、どれもありふれた問題ばかりなのかもしれない。しかし、当事者の視点からこれらの問題を疑似体験することで、男と女が決してわかり合えない生き物であるという真実を突きつけられているでもある。本作は終始、そんな臨場感に満ちている。
多感な頃の感情を刺激する数々の描写
それにしても、金原ひとみはどうしてもこうも心の機微を“指摘”するのがうまいのか。ページを繰っていると多感な時期を思い出し、たびたびドキリ、しばしばギクリとさせられる。
たとえば、道ならぬ恋に浮つくシェフ蓜島の場合。閉店作業の最中に、由依から「お店が終わった後会えない?」というメールを受信した彼は、すぐに電話をかけたい感情を抑えながらやり取りを重ね、最後に「終わったら連絡して」という由依に、「わかった。仕事やる気出てきたよ」とレスをつけた。そこでメールが終わった後、胸中でこうごちるのだ。
何かもう一言くらい届くかと思ったけど、もう返信はこなかった――、と。
カップルにとってはごく日常的で他愛のないコミュニケーション。だからこそ、こんな女々しくも甘酸っぱい感傷に、誰しも心当たりがあるのではないか。
また、不倫を重ねる夫を持つ英美は、ある夜、何かを欲するように、おもむろに元彼の名前をフェイスブックで次々に検索し始める。その結果、2人は子供の誕生報告が投稿されており、1人はバツイチ子持ちの女性と結婚したとの投稿が見つかった。おそらくこれも、似たような経験をしている人は多いだろう。
英美はさらに、元彼ではないがかつて気になっていた男の名前も検索してみる。すると、久しぶりに見る顔のアイコンにドキッとしながら、トップに女性とのツーショット写真があがっているのを見て、瞬時にウインドーを閉じるのだった。そしてこんな感情をくゆらせる。
――なぜかはわからないけど、皆が結婚したり父になったりしていることに、どこかで傷ついている自分がいた。元彼たちが皆いつまでも私のことを好きでいるはずなんてないと分かっているのに、それでもどこかで、あんなに私に好きだと言った口が他の女との間に生まれた子供にキスをしたりしているのだと思うと不思議と苦しかった。
こうした登場人物たちの感情の一つひとつに、読者は共感、関心、興味を覚えるに違いない。フィクションと理解していても、そこには奇麗事など一切ない、等身大の感情が刻まれているからだ。
表現されているのは「伝わらなさ」
金原ひとみが綿矢りさと共に芥川賞を受賞したのは、はや15年前のことになる。当時、みずみずしくも斬新であったその感性が、当人の成長に合わせてさらに大きく花開いたことは、本作を読めば明らかだ。
男女の間に介在するさまざまな感情。問題にまみれた家庭の情景。そして他者に対するネガティブな感情。それらを不倫する側とされる側、双方の視点で紡いでいく迫真の表現力には、ある種のすごみすら感じられる。
著者が本作で描きたかったもののひとつは、「伝わらなさ」であるという。家族であっても夫婦であっても、まして恋人同士であればなおのこと、他人は他人なのである。
若くして評価され、本作執筆時は日本を飛び出し、パリで暮らしていたという著者の姿は、ここに登場する面々とは対極のものに思える。しかしこれもまた、「伝わらなさ」ゆえに生じる、当人と傍観者の乖離なのだろう。
6人の視点の主のうち、とりわけ誰に感情移入するかは人それぞれであるに違いない。不倫される側、俗に言う“サレ妻”、“サレ夫”の立場に共鳴することもあれば、「疑いが確信に変わった。私はこの家族を作るべきではなかった」とひらめく女の境地におののくこともあるだろう。
ただひとつ言えるのは、本作は読み手をまったくの傍観者にはさせてくれないということだ。あの時、さっそうと世に出た金原ひとみという天賦の才の、1つの到達点としてお楽しみいただきたい。