親による子どもへの虐待事件が繰り返し起きています。行政の対応の落ち度が指摘され、改善のための努力が進められてもなお、痛ましい事件が続くのはなぜでしょうか。明治大学で国際比較を研究する鈴木賢志教授は、「日本人は、子育てに関する考え方をそろそろ変えるべきときにきている」と指摘します。
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なぜ虐待は繰り返されるか

親の子どもへの虐待や育児放棄に関する、痛ましく悲しい事件が後を絶ちません。こうした事件が起こると、まず児童相談所や警察といった行政の対応がどうだったのかという声が上がります。もしも行政の対応に何らかの落ち度があれば、責任者が謝罪し、今後同じことが繰り返し起こらないように、担当者の増員など、様々な改善措置が取られることになります。

こうした対応は、至極当然のことであり、そこには何らの落ち度もないように思われます。しかし実際には、こうした対応にもかかわらず悲劇が繰り返されています。その流れを食い止めるためには、日本における子育てというものを、もう少し別の発想で議論する必要があるのではないかと、私は考えています。それは「社会で子どもを育てる」という発想です。

「子育ては家族のもの」と考える人が9割近く

子育ては、特に小さいうちは母親が行うべきであるという考えが日本で根強く残っていることは前回述べましたが、そもそも日本には「子育ては家族で担うもの」という考えが強すぎるようです。図表1は「小学校入学前の子どもの世話は、主に家族が担うべきだ」と思う人の割合を示したものですが、日本の76.5%という数値は、世界的に見るとかなり高い水準です。ちなみに民間の保育サービス事業者が担うべき、という回答が11.4%ありましたが、日本で民間の保育サービスを利用するには、結局家族がその費用の大部分を負担することになるので、実に87.9%の人々が「子育ては家族のもの」と考えていることがわかります。

北欧の国々は、そんな日本と対照的です。図表1のランキングでも、北欧諸国は軒並み下位に名前を連ねています。これらの国々では子育てを誰が担うべきであると考えられているかというと、それは社会全体、具体的には政府や地方自治体です。子育ては政府や地方自治体が担うべきであると考えている人の割合は、日本ではわずか11.4%でしたが、スウェーデンでは82.5%を占めています。

日本は“他人の子育ては他人事”

北欧諸国の人々が子育てを政府や地方自治体に任せていることをもって、かの国々では親子が断絶している、家族の絆が希薄だ、などという批判の声を日本でたまに耳にしますが、それは誤解です。このランキングと同じ調査の中に「子どもの成長を見守ることは、人生の最大の喜びである」という考えについてどう思うか、という質問がありますが、この考えに同意する人の割合は、日本よりもスウェーデンの方が高いのです。実際、かの国では父親も母親もたっぷりと育児休暇を取得しているし、さらに夏休みをまるまる1カ月連続で取って、その間ずっと一緒に過ごしている家族が少なくありません。

彼らがそれでも「子育ては政府や地方自治体が担うべき」と考える理由は、まさに「子どもは社会で育てる」と考えているからに他なりません。もちろんそのような考えを持っている人は日本にもいると思います。けれども、南青山のケースを例に挙げるまでもなく、児童相談所や保育施設が迷惑施設として扱われ、建設反対運動が盛り上がる姿を見るにつけ、日本では他人の子育てはあくまで他人事なのだな、という思いを強くせざるを得ません。

介護でも同じことが起きている

このことは、介護についても同様です。日本で「高齢者の介護は、主に政府が担うべきだ」と思う人の割合は48.3%と、子育てに比べれば政府を頼りにしている人の割合は高いのですが、図表2に示すとおり、日本の順位は25カ国中25番目と、国際的に見るとかなり控えめな数値であることがわかります。

子育てにしても介護にしても、家族がともに助け合って生きるというのは、言うまでもなく非常に麗しい家族の姿であると思います。けれども、それを維持しようと家族の誰かに過度な負担がかかったり、家族の中で何か問題が起こったりすると、救いようがなくなります。

親は子どもと血がつながっていても、それによって子どもの心が読めるわけではありません。子どもにとって親は特別な存在ですが、だからといって子育てが最も上手であるとは限りません。スウェーデンには「両親学級」という、出産を控えたカップルを対象とした子育てセミナーがあるのですが、そこに私が参加して最も心に残ったのは「自分の子どもが好きになれない親もいるから、子どもが生まれたときにあなたがそうなってもショックを受けないで」という先生の言葉でした。

「子育ては家族のもの」と考えることのリスク

悲惨な児童虐待のケースでは、児童相談所の職員や警察が、問題を把握しながらも親が子どもの引き渡しを拒絶したために引き下がってしまっていた、という話がよく聞かれます。法的には強制執行することは可能であっても、やはり「子育ては家族のもの」という意識の強さがそれを邪魔してしまっているように見受けられます。

そろそろ、日本も北欧諸国のように、子育てや介護に伴う様々なリスクは、社会全体で負っていく、すなわち「社会で子どもを育てる」という感覚を持つことが重要になっているのではないでしょうか。

スウェーデンにおける小学校社会科の教科書を読むと、貧困や失業といった社会問題が積極的に取り上げられています。ただしそこには、貧困や失業に陥った人々がかわいそうだから助けてあげましょう、などということが書かれているわけではありません。それらを放置しておくことが、いかに自分を含む社会全体に悪い影響を与え、ひいては社会の持続可能性を弱めることになるのか、について考えさせていきます。単なる慈悲ではなく合理的な考えに基づいて、人々の抱えるリスクを社会全体で負担することを肯定する姿勢を身につける教育には、見習うべきところがあると思います。

カネカ問題も根っこは同じ

子育てと言えば、最近、育児休暇を終えて復職した父親がすぐに転勤を命じられ、退職を余儀なくされたということが話題になりました。会社側の肩を持つわけではありませんが、「子育ては家族のもの」という考えに立てば、そんなプライベートな問題で会社の業務に支障をきたされては困る、という主張が出てくるのも仕方のないことのように思われます。個々の企業の対応を責め立てるのではなく、個々の企業が負担に感じているリスクを社会全体で汲み上げて負担するシステムを考えていかなければ、この問題を抜本的に解決するのは難しいでしょう。