田原祐子さんは、1998年に経営コンサルティング会社を起業。その10年後、事業が軌道にのって忙しくしていた矢先、父親が倒れて介護に直面しました。さらに母親の認知症が始まり、妹の脳腫瘍が見つかり、家族3人が同時期にケアが必要な状態に。何度も難しい局面に立ちながら、それでも仕事を続けることを選び、それを貫いてきた理由とは――。父と妹を看取った今だから語れる仕事と家族のこと。3回の短期集中連載でお届けします。第2回目は介護が必要になって直面した「家族の確執」について。
※写真はイメージです(写真=iStock.com/monzenmachi)

施設で父が受けた理不尽な扱い

父が倒れてから4カ月、入院して体力が落ちると足の筋力が弱まり、この時点でもう車椅子なしには生活できなくなっていました。リハビリテーション病院を後にし、転院したのは同じ建物の中の介護老人保健施設です。

人材育成を生業としている私にとって何よりも苦痛だったのは、父に対するケアスタッフの対応でした。日展で何度も特選を取った彫刻家であり大学教授であった父に、ケアスタッフは「松本さん、お絵描きしてごらん」と勧めますが、当然、父はムッとして描きません。画用紙を与えられクレパスでお絵描きをさせられる「お絵描き(リハビリ)」の時間の光景は、父にとっては無論のこと、施設に父を預けている娘の私にとっても、やりきれない時間でした。自分の人生をかけて仕事をし、社会に役立ってきた人たちが、施設に入ったとたん「おじいちゃん、おばあちゃん」扱いされる理不尽さ。現役で活躍していたころの親の姿を思い浮かべるたび、忍びなく申し訳ない気持ちになるのでした。

外部サービスをフル活用し在宅で介護

やがて父は家に帰りたいと強く訴えるようになりました。ところが、父を実家に迎えるためには大規模なリフォームが必要でした。私は出張の激務の合間をぬって、業者の選定、打合せ、設計、見積、交渉、工事に対応していきました。幸い、リフォーム費用は父の退職金の一部で間に合いました。

父が家に戻れた時の、それはうれしそうな表情は、疲れも吹き飛ぶほどでした。1年半ぶりに自宅に戻った父は、その日は大いびきで何時間も眠っていました。国の方針で、在宅介護が勧められていますが、自宅は最高の居場所なのでしょう。運動機能の衰えた高齢者には、手すり一本、段差一つの解消リフォームだけでも、QOL(Quality of Life)が向上します。リフォームによって、少しでも運動できれば、身体機能も徐々に回復することがあるのです。

施設から自宅に戻ると介護の負担が家族に一気にかかりますが、終始頼りになるのはケアマネージャーの存在です。食事を作りに来てくれるケアスタッフ、お弁当を配達してくれるサービス、足腰が弱らないように外に連れ出して運動やリハビリを施す様々なデイサービス、買い物から入浴介助等、ケアマネージャーが作った「ケアプラン」通りにケアスタッフが来てくれました。さらに我が家では、具合の悪い父や妹を高齢の母が看るのは大変なので、週に何度かお手伝いさん(自費で高額)にも来てもらいました。これらのサービスを組み合わせることで、何とか在宅で介護をし続けることが可能でした。

介護の日々のなかでも最も大変だったこと

父が家に戻って安心したのも束の間、以前からよくぶつかっていた、父母と妹の言い争いが再燃し始めました。どんどんエスカレートし、私の出張先にまで、母や妹から入れ代わり立ち代わり真夜中に電話がかかってくるようになりました。

妹は、小さなころから身体が弱く、両親に対してもいろいろな思いがあるようでした。子どもの頃に親の言動を理不尽だと感じたまま育つと、大人になってもその思いは消えず、対等な立場や自分が面倒を看る立場になった際に、一気に不満や確執が露呈するのかもしれません。これには、本当に悩まされました。切っても切ってもかかってくる電話。ICMCI(国際公認経営コンサルティング協議会)の世界大会がソウルで開かれたおり、日本人として初めて発表することになった直前にまで、母からの電話がかかってきたことを思い出します。海外だろうが、仕事中だろうが、働き手のその時の事情に心配りする余裕がなくなってしまっていたのです。

介護の段階になって、それまでの家族関係の歴史が大きく影響してくることを実感しました。そして介護においてもっとも大変なのは、家族の積もるストレスとやり場のない気持ちを受けること。介護をする側も共倒れにならぬよう、ストレスケアが必要です。

私は本格的な介護と仕事の両立が始まってからは、モチベーションを下げないためのメンタルデトックスを心掛け、温泉地に出張した際は1時間でも温泉につかってリフレッシュして帰路につく、あるいはアロマセラピーを取り入れるなど、自分を元気づけることに注力していました。なぜなら(家長でもある)私自身が倒れてしまえば、介護はおろか家族全員が崩壊してしまうからです。

母の認知症のはじまり

ほどなくして、一番元気だった母が次第に問題行動を起こすようになりました。認知症が始まったのです。父と妹の言い争いが絶えぬ中、バッグに財布や下着等を詰めて「ここは私の家ではないわ」と、家を出ようとします。ケアスタッフの方から出張先の私にSOSの電話がかかってくるようになり、さすがにこれには困りました。

しかし驚いたことに、「心配で私が仕事に行くことができないから、家を出ないで欲しい」と頼み込むと、母の徘徊はピタリと止まったのです。母は長年教師として働いており、女性が働くことへの意識や応援する気持ちが強いためか、玄関ドアに貼った「祐子が困るから、家を出ない」と書いた貼り紙を見るたび、母は家出するのをやめてくれました。

認知症と一口に言っても、その時の状況や周囲の人の対応次第で驚くほど回復するものだと体感しました。認知症の症状は日々変動が激しく、本人のこだわりや琴線に触れると、ぴたっと症状が収まることもあります。辛抱強く、コミュニケーションを取り続けることが大切でした。

睡眠時間2、3時間の極限状態で「もう仕事を辞めようか」

そんな介護の最中にも、仕事は容赦なく進みます。当社は東証一部上場のクライアントをはじめとした責任ある仕事を任されており、仕事に穴をあけるわけにはいきませんでした。

もともと当社では、今でいうテレワークを15年以上まえから先進的に取り入れていました。私だけでなく、スタッフも「PCさえあれば、いつでもどこでも仕事ができる」ということは、介護を続けていくうえで大きな優位点だったと思います。元気であること、体力をキープすること、切れ切れでも仕事ができる体制を整えておくこと、スタッフに権限移譲すること、遠隔でもきちんとマネジメントできること、万一の時のためにクライアントにも事情を話して、了承を得ておくことなど仕事を円滑に進める上でできる限りの工夫をしていました。

それでも出張先では夜中まで電話、出張から帰れば実家で介護……という生活で睡眠時間は極限まで少なくなり平均2、3時間でした。介護に向き合う覚悟を決めた私も、さすがに限界だと感じ始めました。

親はいつかは死ぬもの

それで思い余ってメンターの一人に相談したのです。「クライアントに迷惑をかけてはいけないし、いっそのこと仕事を辞めようかと思っています」と。そうしたら、底抜けに明るく、いつも見守り励ましてくれる彼女に一蹴されたのです。「何言っているの? あのね、親はいつかは死ぬの。親の介護のために仕事を辞めちゃ絶対ダメよ。後悔するから。仕事もしない10年後の自分の姿を想像してみてごらんなさい。孫におこづかいの一つもあげたいでしょう? それに、あなたはすでに社会で必要とされる人、“公人”なの。これまでがんばってきたあなたの仕事は、十分評価に値するのよ」

考えてみれば、仕事を辞めても介護がなくなるわけではない。仕事があるからクライアントが喜んでくれて、だから頑張れるのかもしれない。以前部下だった病気の子どもを持つ女性スタッフが、「仕事をさせてもらえてありがたい。仕事があるから頑張れるのです」と言っていた言葉と、自分の姿が重なるように感じました。仕事は、自分自身の社会においての存在意義にも値するものかもしれません。メンターのアドバイスで、介護と仕事を両立させる決意がいっそう固まったのです。