万葉集ゆかりの地、和歌の浦
『万葉集』巻五、梅花の歌 序文より
今年4月1日に発表され、5月1日からはじまる新元号「令和」。出典は日本最古の和歌集である『万葉集』とのことで、和歌に興味が湧いたという人も多いのではないでしょうか。
『万葉集』の意味には、「万(よろず)の歌を収めた集」という説と、「葉」を「世」の意味に用いて「万(よろず)の世に伝えるべき歌集」という2つの説が有力とされています。全20巻からなり、最古の歌は舒明(じょめい)天皇(在位629~641年)の2首で、最も新しい歌は大伴家持が天平宝字3年(759年)に因幡国府で歌を詠んだもの。作者の階層は、天皇・皇后から貴族、庶民までと幅広く、近畿地方を中心に東北から九州までの地域が詠われています。
そこで今回は、万葉集ゆかりの地である和歌山市の和歌の浦をご紹介します。
万葉のころから、山部赤人(やまべのあかひと)や柿本人麻呂(かきもとのひとまろ)などの歌人に詠われてきた和歌の浦。和歌山県和歌山市の南方に位置し、和歌浦湾に広がる景勝地です。
潮の満ち引きによって刻一刻と姿を変える干潟や、熊野参詣道紀伊路・藤白坂、そして紀伊水道に面した雑賀崎まで叙情的な風景が広がります。
和歌の浦を詠んだ歌
万葉集巻六・九一九 山部赤人
万葉集巻九・一七九九 柿本人麻呂
和歌上達の神様、玉津島神社
和歌の浦には、和歌上達の神様として尊崇される玉津島神社が鎮座しています。聖武天皇や称徳天皇、桓武天皇らに愛され、江戸時代には初代紀州藩主である徳川頼宣が、和歌の名人36人の肖像を描いた『三十六歌仙額』を寄進。拝殿に複製画が展示されています。
境内には、多くの歌碑が並びます。こちらは山部赤人の万葉歌碑。
和歌山市和歌浦中3-4-26
片男波(かたおなみ)公園に建つ万葉館。和歌の浦で詠まれた100余首の万葉歌を、解説パネルやシアターを通じて学ぶことができます。万葉の世界をさらに深く触れたい人はぜひ訪れてみましょう。
和歌山市和歌浦南3丁目1700
時代による石垣のトレンドが分かる和歌山城
和歌山市は、徳川御三家のひとつである紀州徳川家ゆかりの地。江戸時代には紀州藩55万5千石の城下町として栄えました。
1585年(天正13)、紀州を平定した羽柴秀吉(のちに豊臣秀吉)は、現在和歌山城のある「岡山」に弟の秀長に命じて城を築かせたことが和歌山城のはじまりです。
その後、1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いで巧をなした浅野幸長(よしなが)が城主となり、城の大規模な増築を行います。
1619年(元和5年)になると、徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が紀州55万5千石を拝領して入国。尾張徳川・水戸徳川と並び、徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家が成立。頼宣も城の大規模な拡張工事を行いました。
和歌山城の石垣は、史跡の鑑賞ポイントのひとつ。時代によって使用している石材の種類や、石の積み方が異なるのです。
主に豊臣期は、地元の岡公園や和歌の浦などで採れる「緑泥片岩(りょくでいへんがん)」を多用。「紀州青石(あおいし)」とも呼ばれています。石垣は「野面(のづら)積み」で、城内で最も古い積み方です。
浅野期と徳川期は、友ヶ島などの石切場で採れる砂岩(さがん)を使用。積み方は「打ち込み接(は)ぎ」と呼ばれます。
そして、熊野の「花崗斑岩(かこうはんがん)」を使用した石垣は、「切り込み接(は)ぎ」という積み方。徳川期です。
野面(のづら)積み。自然石を切り出して積んだ、勾配の緩やかな石垣です。
打ち込み接(は)ぎ。石の表面を荒く加工して、はぎ合わせて積んだ石垣。刻印のある石材は浅野期に多くみられます。