『グラン・トリノ』は、クリント・イーストウッドが俳優として出演した最後の作品です。それだけに人生の終焉(しゅうえん)に向かう男の悲哀、孤独、自尊心みたいなものが見事に表現されています。派手さはないけれど、成熟したシブい男を演じさせたらイーストウッドはピカイチ。“人間の尊厳”がテーマの、心に染み入るような作品です。

最愛の妻を亡くし、朝鮮戦争に従軍したことが心の傷となっている男が主人公。息子たちとも疎遠になり、「もう誰も俺を構わんでくれ」とただ静かに死を待っていた主人公が、隣人のタオ一家との交流によってもう1度生きようと思う過程が素晴らしいです。ここから先はネタバレになるので控えますが(笑)、タオたちのためにやった、彼なりの落とし前や決着のつけ方が男らしくて泣けてきます。自分の身内ではなくて、何の関係もない隣人のために、人生最後の“きらめき”を見せるのです。

バイオリニスト・タレント 松尾依里佳さん

幼い頃の師の姿に重ねる

どういう目標に向かえばいいのかわからない、グレかけていたタオを鼓舞する姿もまた格好いいのです。男に叱咤(しった)激励されながら導かれるように成長していくタオの姿は、幼いときの私の姿と重なります。4歳からバイオリンを始めましたが、それまで漠然としていたバイオリンとの向き合い方を、確固たるものに変えてくださったのが、恩師・工藤千尋先生との出会い。バイオリンを一生続けよう、自分の限界を破ってもっともっと上に行こうと導いてくださった先生の存在があってこそ、今の私がいるのだと感謝せずにはいられません。

ただ、師弟関係はさておき『グラン・トリノ』では、血のつながった子どもたちよりも隣人とのつながりが生きがいになってしまっているのはちょっと寂しい。「遠くの親類より近くの他人」ということわざもありますが、やっぱり私は家族との関係を一番大事にしたいのです。主人公の晩年の境遇は、反面教師にしておきます。

(スタイリング=五味真梨乃)

『グラン・トリノ』が重いテーマの作品だったので、もう1つは家族全員で楽しめる痛快な『サマーウォーズ』を挙げました。人間がAI(人工知能)と戦うテーマで、今まさに私たち人類が直面している状況を描いています。9年前のアニメ映画ですが、ハッキングで世界が脅威にさらされたり、原発の施設が狙われて世の中が危機に直面したりという出来事は、もしかしたら現在のほうがよりリアルに感じられるかもしれません。AIに我々の知性がどこまで対抗できるのかという問題も。でも、AIがどんなに進化しようと私たち人間の知力が総力戦でぶつかれば、ものすごいパワーが生まれるというシーンに前向きな気分になれます。見終わった後の爽快感も格別です。

『蒼穹の昴』浅田次郎 著

映画は自分のものとは違う人生を疑似体験できるので、いい気分転換になります。特に名作は、今の自分はこれでいいのかと考えるきっかけをくれたり、人を信用するとか、誰かのために生きるということの尊さを、教えてくれたりすることもあります。自分の足もとを見直すいい機会になりますよね。

ぐいぐい引き込まれた浅田次郎の歴史小説

「お姉ちゃん、これ読んでみて!」と妹にものすごい勢いで薦められた本が『蒼穹(そうきゅう)の昴(すばる)』です。読書好きの彼女がそんなに言うのならと読み始め、4巻もある分厚い文庫本なのに、あっという間に読んでしまいました。作者の浅田次郎さんならではの卓越したストーリーテリング、物語への引き込み方が見事。中国の清朝時代、最下層の生活から抜け出すために宦官(かんがん)になった主人公の、血を吐くような努力で自分の道を切り開いていく様子は、予想以上に感動してしまいました。激動する歴史の流れに巻き込まれ、報われるかどうかもわからない努力をした主人公のように、果たして自分はできるだろうか。いやいや、きっとできるはずだと鼓舞された作品でもあります。

私の身近なところでも、とてつもない努力が実を結んだ例がありました。私の出身大学は音大ではなく総合大学だったのですが、先輩が人類の進化について、画期的な新説となる論文を発表したのです。その先輩は頻繁にヨーロッパやアフリカに発掘調査に行くので、日本では奥さまが小さい2人のお子さんと数カ月も家を守っているそう。家族のサポートもあって、彼の並々ならぬ努力が形をなしていくわけです。でも帰国すると「僕がいない間に、子どもの関西弁がペラペラになった」(笑)などとうれしそうに語る、普通の子煩悩なイクメンに戻っている。そういう素の先輩の姿を見ると、自分だって高みを目指せるのではないかと励まされます。自分の道を地道に極めていけば、いつか、今までに見たことがない景色が見えるんじゃないかと……。

『蒼穹の昴』の主人公は、“昴”の星が導いてくれるから恐れずに生きていけと予言を受けます。じゃあ、私を導いた星はなんだろうと考えてみました。バイオリンと出合い、工藤先生に教えていただいたことはもちろんですが、テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」で、7年半もの間「秘書」として出演できたのは星の導きだったのかも。この番組は故郷の大阪にいた頃、毎週金曜にバイオリンのレッスンがあり、帰宅後にお茶づけを食べながら、家族みんなでゲラゲラ笑い合って見ていました。「ああ、これで1週間が終わる」と、ほっとできる貴重な時間をくれた思い出深い番組だったのです。それまでも自分の音楽の活動を知っていただくためにいろいろなクイズ番組に出演しましたが、まさか、一家で大ファンだった番組に深く関われるようになるなんて! やはり、私は“昴”に導かれたとしか思えません。

子どもを抱えて片手で読書

妹もそうですが、夫も本好きで、黙っていたらずーっと読んでいる人。私も負けずに読みたいので(笑)、7カ月の子どもを抱っこしながら、片手で本を読む毎日です。さらに絵本の読み聞かせも加わりました。『木を植えた男』は、夫が「自分も大好きな本だし、子どもに読ませてあげたい」と選んでくれた一冊です。あらすじは、荒廃した土地に、ただひたすら何年も地道に木を植え続け、結果的に森を再生し、街と人々に活気を与えるという、偉大なことを成し遂げた老人の話です。老人は木が育ちにくいことを知りつつも、粛々と100個の種をまき続けます

『木を植えた男』ジャン・ジオノ 原作 フレデリック・バック 画 寺岡 襄 訳

今まさに直面している子育ての意義をここに見いだせます。オムツを替えて、ミルクを与えて、寝かしつけて、と続く毎日に身を投じていると、生産性が感じられず、疲れてしまうことがあります。でも今は辛抱強く子育てを続ける時期なのです。子どもが立派に成長したときに、私はきっと『木を植えた男』を思い出すでしょう。文章が子どもには難しすぎるので「ここには誰もいないねえ」などとかみ砕くようにして話しかけていますが、いつか原文のままで理解してくれることを心待ちにしています。成長した子どもたちの将来が、絵本と同じように、人々が笑い合う豊かな世の中であってほしいと願って。

●松尾依里佳さんのバイブル

▼BOOK

『木を植えた男』ジャン・ジオノ 原作 フレデリック・バック 画 寺岡 襄 訳

1913年フランス、プロヴァンス地方の山道を歩いていた旅人は、不毛の地にドングリを植え続ける男に出会う。長い年月を経て、同じ地を訪れた旅人が見た風景は激変。●あすなろ書房/1456円

『蒼穹の昴』浅田次郎 著

中国清朝末期、極貧の生活を送っていた春児。占い師の予言を信じて、科挙の試験を受ける幼馴染みの文秀を慕って都に上る。宦官となった春児は西太后の寵を受け、文秀は黄帝を支える若手官僚の中心となり、敵味方に分かれてしまう。●講談社文庫/640円

▼MOVIE

『グラン・トリノ』監督:クリント・イーストウッド/2008年/アメリカ

グラン・トリノとは、アメリカの自動車メーカー「フォード」の車種のこと。フォードの自動車工として50年勤めたコワルスキー。妻を亡くし孤独な暮らしだったが、隣家の少年タオが、愛車グラン・トリノを盗もうとすることから、彼の生活に変化が起きる。●Blu-ray2381円、DVD1429円/ワーナー・ブラザースホームエンターテイメント

『サマーウォーズ』監督:細田 守/2009年/日本

世界中の人々が集うインターネット上の仮想世界「OZ(オズ)」。ユーザーはPC、携帯電話などから自分のアバターを操って、ショッピングや納税などを行っていた。ある日OZの保守点検をしていた健二の携帯電話に謎の数字の羅列が送られてきて……。●期間限定スペシャルプライス版Blu-ray2759円、DVD1833円/バップ スタジオ地図作品

※本稿は、「プレジデントウーマン」(11月号)の特集「大人の教養『本&映画』ガイド」の掲載記事を再編集したものです。

松尾依里佳(まつお・えりか)
バイオリニスト・タレント
1984年生まれ。4歳からバイオリンを始め、京都大学在学中にステージデビュー。2006年のテレビドラマ「のだめカンタービレ」(フジテレビ系列)に「のだめオーケストラ」の一員として参加。10年から7年半、「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送系列)の秘書を務めた。