愛する人を失うことは、人生の最大の逆境。次々に訪れる愛する人の闘病、介護、別れ、そして自分のがんをも乗り越えた作家の荻野アンナさんに、逆境の乗り越え方と、その出来事で自身が得た学びを聞きました。

困難な状況は、必ずいつか終わる

自分が困難な事態に巻き込まれたときは永遠に続くような気がするけれど、どんな厳しい状況であろうと、いつかは終わるんですね。それは私も越えてきた道でした。

荻野アンナさん●作家、慶應義塾大学文学部教授。1991年『背負い水』で芥川賞受賞。2007年フランス教育功労章シュヴァリエ叙勲。近著に『カシス川』。

5年前、介護が必要な母を抱えて自分が大腸がんになったときは、本当にどうしたものかと落ち込みました。手術のため10日ほど入院する間、母を1人にしておけないと。母はヘルパーさんが家へ入ることを嫌がったので、かかりつけの病院で相談し、母と私の2人で入院させてもらったのです。

さらに退院後1カ月ほどで抗がん剤治療が始まると、全身のだるさで厳しい状態になることがありました。よく“押しつぶされたゴキブリ”のような気分と言っていましたが、とにかく手足がしびれて動けなくなるのです。実家から5分ほど離れたマンションに住んでいた私は、母のもとへ食事を届けるためだけにタクシーを呼んだこともありました。

それでも母の世話で手いっぱいだったから、自分自身のことはあまり悲観的に考えずに済みました。大腸がんと告知されたときも、パートナーの彼を食道がんで亡くしていたので、心の準備ができていました。食道がんの大変さを思えば、手術も大がかりではないし、正直なところ、これで私も休めるという気持ちのほうが大きかったのです。

もし自分が倒れ、リハビリが必要な状況になったら、母の介護どころではなくなります。でも、大腸がんというのは患部を切れば日常生活に戻ることができる。あとは母にできることを具体的に考えれば済みます。

とはいえ介護の日々は先が見えないし、真っただ中にいるときは残りのわずかな時間も長く感じてしまう。でも、物事には必ず終わりがあり、耐え難い状態が永遠に続くというのはありえないことなので、いろいろ体を動かして対処していると何とかなるものです。

だからこそ自分が倒れ、先に亡くなるようなことになっては困る。そのためには自分自身が生き延びるためのわがままをうまく身につけることがコツだと思いますね。

私がそのコツを身につけたのは、50代半ばで逝った彼と過ごした日々のなかでした。例えば、彼が入院した病院の近くに爬虫類専門店があり、そこで爬虫類がもぞもぞ動いているのを見るのがすごく癒やしになるのです。特にナガクビガメ。彼には「ちょっと売店へ行ってくるね」と言って病室を抜け出し、カメを眺めてから売店へ行く。わずか数分間でも気分を変えられたのです。

仕事という逃げ場があってよかった

そうして彼を見送り、続いて父を看取った頃に思いついたのが、「起こったことはみんないい事」という“マイことわざ”でした。突然の天災などはとても無理ですが、小さなことは気分ひとつでマイナスをプラスに変えることも不可能ではありません。電車を一本逃しても、ホームでイケメンを眺められたからよかったとか(笑)。無理やりにでも、よい方向に考えていくというのは、もうクセになっています。

私は介護のストレスからうつにもなってしまいました。そうすると器いっぱいに張った水が最後の一滴であふれたときのようにパニック状態になることも多かったのですが、だんだんと自分の心の在り方を柔軟に保てるようになりました。

実は父の介護も大変でした。父は90歳になって心不全で倒れ、歩くことが難しくなった。それでも容態が安定すると退院を迫られ、リハビリの病院へ転院したものの、米国人の父は「元気なのにこんなところに入れておくのか」と英語で怒り、そのたびに「娘さん来てください」と呼ばれる。病院の後は自宅へ帰りましたが、ほどなく家族で看ることは絶対に無理とわかったのです。

「七転び八起き」ではなく「79転80起」

ヘルパーさんを頼むと母は気疲れしてしまい、父も思うように動けない状態でぎりぎりまで我慢する。全員がもう限界と思ったときに、父は英語が通じる老人ホームへ移ったのです。それも本人が納得して入ってくれたことで、父自身がとても穏やかに変わりました。

そして母の場合は最後まで自宅で看ることができました。母は長期入院したのを機にヘルパーさんを拒むことがなくなり、訪問看護などを利用しながら、在宅介護の体制を整えたのです。そうやって何が起こっても早急に答えを出そうとせず、具体的に考えていけばよい方向へ進んでいくものですね。

人生は「七転び八起き」というけれど、私のモットーは「79転80起」。何回転んでもまた起きあがればいいのです。私の場合は仕事があることもありがたかった。いろいろ問題が起きると“もう辞めちゃおうか”と弱気になりましたが、あのとき辞めずに、仕事という逃げ場があったことは、振り返れば私にとっては幸いでした。

私も介護が終わるまでは“もうダメだ……”と何度も爆発していましたが、今はごく穏やかな日常です。まさに「起こったことはみんないい事」。体も心もゆったりしていて、それを楽しんでいます。

▼アンナさん5つの格言

研究室に張ってある直筆の格言。机に向かうと、この言葉がしっかりと目に入る。
(左上から時計回り)
・マイナスに見える出来事もプラスにとらえる。
・うつでもお酒や買い物を楽しんでOK!
・眠ることこそ、心の安定には必須。
・無理を通すこともアリだと思おう。
・何回転んだって立ち上がろう!