全く違う世界からキャリアチェンジを成功させた3人の女性たち。彼女たちは「あのとき、あの決断がなかったら、今の自分にはたどり着けなかった」といいます。一体なにが転機になったのか。3人目は、事務職からNHK朝ドラの脚本家へとキャリアチェンジした大森美香さんです――。(第3回、全3回)
大森美香さん●脚本家、演出家、監督。1972年生まれ。青山学院女子短期大学卒業。手がけた作品は「ブザー・ビート~崖っぷちのヒーロー~」(フジテレビ系)、連続テレビ小説「風のハルカ」「眩~北斎の娘~」「この声をきみに」(NHK)など。

短大を卒業後、名古屋テレビ放送の事務職に就きました。次第に制作への憧れを持つようになっていた私に、最初の転機が訪れたのは23歳。

ラジオ局主催のディレクター講座に通っていたのですが、その講師陣の中にフジテレビの当時の第一制作部の部長がいらっしゃった。長瀬智也さん主演のドラマ「白線流し」の苦労話とか、チームで番組を作り上げる熱い情熱や達成感を聞いているうちに、うらやましくてしょうがなくなって。帰り際にその方を追いかけて「私もその現場で働きたいです!」と直訴したんです。「気の迷いだから、よく考えなさい」と諭されながらも、名刺をいただきました。翌日から電話を掛け続け、あまりにしつこくて根負けなさったのか(笑)、代理の方から「そんなにやりたいなら、一回話を聞きにきたらどうですか?」と言われたのです。

面談で、「仕事はいくらでもあるけれど、現場はキツくて辞める人が多い。契約は番組ごとだし、条件がよくない」と厳しい現実を聞かされました。でもその頃の私は脳からアドレナリンが出ていたのか「やります!」と即決。3カ月後に名古屋テレビを退職しました。簿記の資格を取っていたし、ダメだったら派遣で働けばいい。セーフティーネットもあるからやれると思ったのです。

怒鳴られっぱなしのAD時代

最初はAD(アシスタントディレクター)の一番下っ端の仕事を任され、お弁当配りとか、その日撮るシーンの台本をコピーして車にのせるとか、ありとあらゆる雑務をやりました。でも、撮影現場でどう動き回っていいのかわからないので、いつも大声で怒鳴られっぱなし。俳優さんが泥水に顔をつけるようなシーンでは、代役になりリハーサルで何度も顔を水につけさせられるので、寒い時期は辛かったですね。

名古屋テレビ時代はテキパキと仕事をこなして、しゃんと背筋を伸ばして歩いていたのに、あまりにも怒鳴られるので、萎縮して猫背になってしまった。一方で私のアイデアが監督に採用されたり、最終回だけはエンドロールにスタッフ全員の名前が出るので私の名前を見つけたり、とちょっとした進歩と喜びが出てきて。とても怒られてヘコんだり、「やるぞ!」と奮起したり、振れ幅が大きすぎる毎日でした。

そのうち脚本家の先生からファクスで送られてくる原稿をこっそり見て、次はどんな話になるんだろうとワクワクする楽しみを見つけました。たいていのADは監督を目指すことが多いので、上に上がるには、脚本を書けたほうがいい。そこで、一回きりのチャンスをいただいて書いたのが「美少女H」の第12話「十七歳の記録」です。

それからフリーランスのAP(アシスタントプロデューサー)の道へ。タイムキーパーさんに「こういう脚本の仕事があるよ」と紹介された脚本のリライトをやったり、プロットライターとして話のアイデアを出したり、大先輩の脚本家の先生との重要な番組の打ち合わせにも参加したり、といろんな経験を積みました。

演出や映画監督の仕事も。着実にステップアップ

「カバチタレ!」というドラマでは、1話でダメだったらすぐ降ろすとプレッシャーをかけられたので、「人には書けないものを書こう」と頑張り、全話書かせてもらいました。その後順調に脚本家としての仕事が増え、同時に演出や映画の監督もやらせていただけるようにもなりました。人とのつながりを大切にし、チャンスがあると聞けば飛びつき、“わらしべ長者”のようにステップアップできたように思います。ADのような過酷な仕事も、今の自分の血肉になっていますから、経験は何ひとつ無駄になっていません。

高校時代の文化祭でミュージカルの脚本と演出をしたのが原点。「将来、こういう仕事をやりたいなあ」と同級生につぶやいていたそう。だから、夢はかないました。

脚本家は年齢、性別、経験問わずトライできる仕事ですが、下手でもいいから最後まで書き通す力がある人が向いていると思います。でも、どんな仕事であろうと、ゴールまでやり続ける力は絶対に必要ではないでしょうか。

▼HISTORY
1992年 20歳
名古屋テレビ放送・東京支社業務部に入社。総務、経理、人事などを担当
1995年 23歳
次第に番組制作に憧れ、アフター5にマスコミのディレクター講座に参加。担当講師にテレビの制作現場に関わりたいと直訴
1996年 24歳
名古屋テレビ放送を退職。フジテレビジョン第一制作部の契約ADとなり、激務に追われる。ディレクター、監督志望だったが、脚本の面白さに目覚める
1998年 26歳
「美少女H・十七歳の記録」(フジテレビ系)で脚本家デビュー
2005年 33歳
「不機嫌なジーン」(フジテレビ系)の脚本で史上最年少で向田邦子賞を受賞
2011年 39歳
結婚、出産。東日本大震災以降、脚本で描くテーマに変化が出る
2016年 44歳
連続テレビ小説「あさが来た」(NHK)の脚本が、橋田賞を受賞