女子大英文科卒が泣きながら勉強し34歳で司法試験合格
「君かね、社内で波風を立てている社員とは?」――東京の女子大を卒業して、地元・札幌の大手情報通信会社に就職したとき、役員に言われた言葉です。マーケティングや広告宣伝を任され、仕事はそれなりに楽しかった。でも“言われたことを黙ってやっていればいい”という保守的な社風になじめませんでした。
たとえば、総合職なのに女性だけ制服を着用させられるのがどうしても納得がいかない。もちろん制服のほうがいい人は着ればいいのです。だけど私は、社会人にもなって制服を強要される意味がわからなかったので着るのをやめました(笑)。就業前に行われる朝のラジオ体操も拒否したら、問題児扱い。そんな新入社員のさまつな反抗を気にするより、もっと仕事で生かそうとするほうが建設的だと思いませんか? 積極的に仕事のアイデアを出したりしましたが、受け入れられないことが多く、ますますモヤモヤしていました。
▼知人がいない土地なら、勉強に打ち込める
こんな状況を打破したくて、ウェブデザインや好きな美容の道で資格を取るなど考えましたが、「その資格を取って一生働き続けられるの? 親を安心させられるの?」など、ネガティブファクターが次々と浮かんできて踏み出せなかったのです。
そんなときに夫と知りあって結婚。彼は大阪で勤務していたので、退職して知人が誰もいない場所に行ってしまえば、ゼロにリセットできる。そこで何かに100%専念できる環境をつくれると思ったのです。そんなとき、たまたま司法試験のパンフレットを書店で見たときにピン!ときました。それまでと違って、ネガティブなものが何も浮かんでこなかったからです。組織に向かない性格だから、弁護士として独立できれば、人生を自由に生きるための強い武器になるはずだと決意しました。
大阪に移住して4カ月後には、当時の旧司法試験を受けるための予備校に通い始めました。夫には事後報告でしたが「あ、そうなん?」とおおらかに受け止めてくれてありがたかった。それからはひたすら勉強の毎日。大好きな化粧品を買いたくても、デパートには行かなかった。買える身分じゃないから、行っても惨めになるだけ。同世代の女性がキラキラして見えて、外に出てもうつむいて歩いていました。大学は英文科で法律に関して何の知識もないし、自分で決めた道だけど、地獄でした。
「悩みなさそうな顔をしている」と声をかけられます
法科大学院に進学してからは、同じ目標を持つ仲間に出会えて、気分が楽になりました。でも司法試験で多くの仲間が1回で合格するなか、私は落ちて孤独な浪人生活に。泣きながら勉強して、2回目の挑戦で受かり、ようやく弁護士への扉を開くことができました。
弁護士になって6年間は刑事事件の弁護が専門でしたが、それは法科大学院の先生の影響が大きい。先生はある有名な殺人事件の被疑者の弁護人でしたが「物事を縦から見るのと横から見るのとではまるで形が違って見える。偏見や先入観を持つと真実を見失うし、99%クロと思える被疑者でも、思ってもみなかった角度から光を当てるのが刑事弁護人のスピリットだ」と教えてくださった。
まさに目からウロコ。実は大学時代、本当は東京で新聞記者になりたかったんです。面接で「あなたに、こんな地べたをはうような仕事ができますか?」と言われました。地味な仕事は嫌いじゃないのに、外見で判断されてしまう。前職でも波風を立てる「問題児」扱い。そんな私だからこそできる仕事なのじゃないのかなと思ったのです。
今はもう1人の弁護士と事務員を入れて、3人体制の小さな事務所を構えています。経営は大変な面もあるけれど、自由に仕事ができているので幸せ。裁判所で知り合いの弁護士さんに会うと「いつも悩みがなさそうな顔をしているね」なんて声をかけられます。そんなふうに見えているのならうれしい! 弁護士になる前は下を向いて暗い顔をしていたけれど、ほしかった自由をやっと手に入れられたからかな。
1997年 22歳
札幌の大手情報通信会社に総合職として入社。マーケティング、企画、広告宣伝等に携わる。保守的な社風になじめず、働きながら違う職業を模索する
2000年 26歳
結婚退職し、大阪府へ移住。偶然見つけた司法試験予備校のパンフレットにピン!とくる
2001年 26歳
司法試験予備校へ通い、寝る間を惜しんで勉強する
2005年 31歳
大阪市立大学法科大学院入学
2008年 34歳
司法試験に2回目の挑戦で合格
2009年 35歳
大阪弁護士会に登録
2010年 35歳
大阪パブリック法律事務所に入所。刑事事件や離婚事件を200件以上担当
2016年 41歳
法律事務所「エクラうめだ」を開設