キャリアを変えることはリスクです。決断を後悔するかもしれません。それでも新天地に飛び込んだ女性たちがいます。なぜその一歩を踏み出すことができたのか。連続インタビューをお届けします。今回は、40歳以上の女性7人の仕事を変えた理由について――。

※本稿は、「プレジデントウーマン」(2018年4月号)の掲載記事を再編集したものです。

母めし食堂「のうカフェ」店主
小林由紀子
さん 45歳 転職1回 独立

理学療法士からの転身。食の大切さを伝えたい

埼玉県熊谷市で古民家カフェを営む小林さんは、元理学療法士。20代は大病院を経てリハビリ専門病院で仕事に没頭していたが、30代で結婚、出産。これがキャリアを大きく見直すきっかけになった。

小林由紀子さん

「妊娠高血圧症候群で早めに産休に入ったので、仕事に穴をあけたという後ろめたさがありました。そのうえ低体重出産で、産後も思うように動けない。同僚から取り残されたという焦りもあり、この頃からセカンドキャリアを考え始めました」

育児休業から復帰後、仕事はパートに切り替え、野菜ソムリエの資格を取得。ビジネススクールに通い、自分の強みを見つけた。

「私の強みは小さいグループで強い信頼関係をつくること。大きい組織だと、自分の役割が見えにくく、いたたまれなくなってしまうんです。だから今は2~3人のスタッフと店を運営できてすごく心地いい。今後は理学療法士、野菜ソムリエ、働く母の相乗効果で、介護や子育て中のママを癒やせる空間をつくっていきたいですね」

▼小林さんの幸福度の変化
30歳:転職先のリハビリ専門病院でのストレスで円形脱毛症に -100%↓
35歳:ハードな出産を機に、セカンドキャリアを考える 0%←
44歳:起業。野菜料理メインの古民家カフェをオープン 100%↑

(文=池田純子 撮影=加藤 梢)
立教大学職員、ベリーダンサー(&インストラクター)
佐々木ルリ子
さん 56歳 Wワーク

家族に内緒で始めたベリーダンスが、ライフワークに

結婚と同時に義父母との同居がスタート。仕事と育児、家事をひたすらこなしてきた佐々木さん。「気づけばもう43歳。冷や汗と脂汗しかかいていない状況に、これではいけないと思って……」

佐々木ルリ子さん

気持ちのいい汗を思いきりかきたいと、友人にすすめられたベリーダンスを習い始めることに。

「姑(しゅうとめ)に『いやらしい』と言われたので、家でその話は封印(笑)。でも、イベントで海外に行った際本場の踊りを見て、私もこんなふうに踊れるようになりたいな、と」

「始めたからには10年続けよう」と家族にも打ち明け、習い始めてから10年、53歳でベリーダンスの講師として独立。職場公認でWワークを行っている。

「仕事とは別の世界を持てたのがうれしくて、今まで続けられたのだと思います。10年後の目標は、3年前から始めたアラブの楽器、ウードをマスターして教え子たちの踊りに合わせて演奏すること。その様子を想像すると今からワクワクしてしまいます」

▼佐々木さんの幸福度の変化
24歳:職場の先輩と結婚。夫の両親との同居スタート 30%↓
43歳:課長に昇進。仕事帰りにベリーダンスを習い始める 80%↑
53歳:ベリーダンス講師として独立し、スタジオレッスンを開始 80%↑

(文=堀 朋子 撮影=加藤 梢)
八百屋「瑞花(すいか)」顧問、寺院運営
矢嶋文子
さん 41歳 転職2回 独立 Wワーク

「心と体を元気にする」八百屋とお寺で夢を実現

学生時代のアルバイト先だったチョコレート店に就職。売り上げを3倍にして自信をつけたが、転職先の教育ソフト開発会社は激務だった。体調不良に悩む矢嶋さんの心に刺さったのが、「体は食べたものの歴史」という言葉。料理学校に飛び込み、「食に関して学び、気づきが得られる施設をつくりたい」と考えるようになる。

矢嶋文子さん

そんなとき、「日本一の八百屋がいる」と知人に紹介され、築地御厨(みくりや)の内田悟氏に弟子入り。氏のもとで修業するうちに、「無農薬野菜がすべてよいとは限らない」といった仮説が次々と確信に変わっていった。これをいち早く世の中に発信したいと、東京・牛込柳町に小さな八百屋を開業したのが32歳のときだ。「3坪八百屋の女主人」とメディアで注目され、5年後に店舗を移転・拡大。今は経営を知人に譲り、顧問を務める。

「実家の寺を継ぐため僧侶とご縁を頂きました。檀家さんのお話を伺うことや境内整備など“寺嫁”の仕事は多岐にわたりますが、『心と体を元気にする』のは八百屋も寺も同じ。両方自分のやりたいことなので、満足しています」

▼矢嶋さんの幸福度の変化
27歳:チョコレート店から教育ソフト開発会社に転職。体調を崩す 50%↓
32歳:師匠の反対を押し切り、3坪の八百屋「瑞花」を開店 30%↑
38歳:結婚を機に瑞花の顧問となり、“寺嫁”とのWワークに 70%↑

(文=池田純子 撮影=加藤 梢)
サイボウズ 企業広報、業務支援本部
江原なおみ
さん 46歳 転職1回

16年の専業主婦を経て再就職。毎日が刺激的!

江原さんは、新卒で入ったソニーの第一線で活躍したあと、専業主婦に。16年のブランクを経て再就職したという経歴の持ち主だ。

江原なおみさん

「ソニー時代は得意の英語を活かせる海外営業で、すごく充実していました。でも結婚してしばらくすると、仕事とプライベートのバランスが取れず、思い悩むように。平日は海外出張に残業、週末は山のような家事を夫婦でこなしヘトヘト。今思えば、何事にも手を抜くことができず、自分を追い詰めていたんですね」

夫が海外転勤になったのを機に退職。帯同先のイギリスで出産し、これまでやりたかった料理や育児に全力投球する。だが帰国後、長男が小学校に入学し、子育てが一段落すると、ある思いがわいてきた。「社会復帰したい!」

次男が小学校に入学するタイミングで本格的に再就職を考え始め、活動開始。人材サービス会社からサイボウズのインターンプログラムを紹介されて参加、そのまま入社したのが2年前のこと。知見が広まっていく毎日が刺激的だ。

「実は、入社前から夫とは別居していたので、家事・育児はワンオペ状態なんです。でも、以前よりも手の抜きどころがわかってきましたし、長年モヤモヤしていた夫との関係も別居でほぼ解消。仕事も楽しい。今が一番幸せです」

▼江原さんの幸福度の変化
28歳:ソニー時代は海外出張や残業が多く、家庭との両立に苦労 -80%↓
29歳:夫の転勤に伴い退職。専業主婦になる 80%↑
38歳:長男が小学校へ。社会との接点が減り、孤立感を覚える 40%↓

(文=桜田容子 撮影=遠藤素子)
国内大手自動車メーカー 調査部
松田明子
さん 40歳 転職2回

「残業少し」でもOK。職住近接の幸せを満喫

20代の頃は市場調査会社のデータ分析業務などを担当。31歳で結婚し、夫のバンコク駐在を機に退職すると、現地の大学院でビジネス経済学の修士号を取得した。

松田明子さん

そのキャリアを活かし、帰国後はシンクタンクのコンサルタントに。完全成果主義の会社で、自分を追い込むように働いた。

だが37歳で産休・育休を取得後、待っていたのは過酷な日々。

「復職しても出産前のように働けない自分がもどかしく、娘がぐずると本気で怒っていました」

転職を考え始めた頃、仕事で関わった女性から、「今は人手不足だから、子どもがいる女性でも転職で不利にならない」と聞き、思い切って行動することにした。

「残業はあまりできません」と正直に伝え、40歳で今の会社へ。

「前職を活かして調査・分析部門で働いていますが、今のところ、ほぼ定時に上がれています。自動車業界は初めてですが、実直な社風がいいですね。新しい世界を知ることも楽しく、充実しています」

▼松田さんの幸福度の変化
22歳:市場調査会社に入社。環境変化のストレスでアトピーが悪化 -50%↓
38歳:復職したが余裕がなく、自宅に仕事を持ち帰る日々 -80%↓
40歳:自動車メーカーに転職。飾らない実直な社風に好感をもつ 50%↑

(文=新田理恵 撮影=伊藤菜々子)
NPO法人AfriMedico 代表
町井恵理
さん 40歳 独立

アフリカの医療を変えようと、MRから起業家に

外資系製薬会社では社長賞を受賞するほど優秀なMRだった。だが、発展途上国で働きたいとの想いがつのり、27歳で青年海外協力隊に。これが退職の引き金となる。

町井恵理さん

「『感染症対策』の枠でニジェールへの切符を手にしたのですが、両親は『安全は保証できるのか』『将来のことも考えるべき』と大反対。辛かったです」

3カ月にわたる説得の末、ようやく現地の土を踏むが、赴任先では身近な人が突然亡くなり、自身も栄養失調で倒れた。

「念願のアフリカでしたが、無力感にも苛(さいな)まれました。いくら感染症対策の啓発をしても、現地には治療薬もない場所があるんです」

帰国後はビジネススクールに通い、持続可能な医療支援の方法を模索。そこで出会った仲間と現在のNPO法人を設立した。

「アフリカ行きを反対されたことがバネとなり、今の私がいます。いつも励ましてくれる夫と、あの時私を送りだしてくれた両親に感謝しています」

▼町井さんの幸福度の変化
27歳:アフリカに渡る前に親から猛反対され、説得に苦労する 10%↓
32歳:ビジネススクールでアフリカでの医療貢献の道筋が見える 80%↑
37歳:あきらめていた結婚をして精神的安定を得る 90%↑

(文=桜田容子 撮影=伊藤菜々子)
花王 コーポレートコミュニケーション部門 企画グループ
大谷純子
さん 44歳 転職1回

転職後にカルチャーショック。周りの力を借りて一歩ずつ前進

「転職した直後は、『早まったかな?』と思いました。前職とはカルチャーが違いすぎて」

大谷純子さん

笑いながら、当時を振り返る大谷さん。20代は大手マスコミで海外ドキュメンタリー制作に携わっていた。やりがいの大きい仕事だったが、労働時間は長く、生活はハード。「いったん生活を変えてみよう」と花王に転職した。未経験の業界だったが、真摯(しんし)なものづくりの姿勢に惹かれたという。

「私の使命は、企業理念を海外の社員に伝え、事業のサポートをすること。中途入社の私に、周りからは“お手並み拝見”という空気も伝わってきました。ただ、文化の違う相手にどう伝えればいいかということは、マスコミの仕事で経験済み。一つ一つ積み上げて、認めてもらえるようになりました」

一番苦しいときに踏ん張れたのは、入社からお世話になったリーダーのおかげだという。「私の強みを理解してくれて、より進めやすい環境をつくってくれました。仕事をするうえで私が大事にしているのは、周りの人の力をたくさん借りること。そして自分も周りへの協力を惜しまないことです」

今は経営戦略に関わる仕事を兼務し、社長とともに現場をまわる。

「2018年は花王の新しいメッセージの浸透・実践というミッションもあり、今からワクワクしています」

▼大谷さんの幸福度の変化
22歳:海外ドキュメンタリー番組の取材を通じて人生の師を得る 100%↑
38歳:花王に転職。当初は企業風土になじめず自分の選択に後悔 -20%↓
40歳:企画グループに異動。経営サポート部門も兼務 60%↑

(文=池田純子 撮影=遠藤素子)