最期まで息子を思い、待っていてくれた母
いつも家族を思い、支えてくれた母でしたが、今年の6月に亡くなりました。86歳でした。私は、父を29年前に亡くしていまして、そのときは研修医だったので仕事を休めず、最期を見送れませんでした。母のときはなんとか最期までそばにいてあげたいと思っていたのですが、海外が多い仕事なので、母の容態が悪くなっていったときも出張中……。でも母はちゃんと待っていてくれて、私が帰国した日の翌朝に亡くなりました。それがまさに私の母のすべてを物語っていると思います。私はずっと母に支えられてきたのです。
父が58歳で亡くなってからもしばらく、母は父がのこした工場を1人で経営していました。私は社会人になっていましたが、アメリカに留学したりと、まだまだ親のスネをかじっていましたし(笑)、姉もそのころ教師をしていて仕事が忙しく、子どもたちを母に預けたりしていました。私も8歳上の姉も母には感謝の気持ちしかありませんね。
私は町工場が集まる東大阪で育ちました。実家はミシンの部品工場を営んでいました。工場の仕事で忙しかったせいもあると思いますが、母はそんなに教育ママではなかったと思います。勉強しなさいと言われたこともありませんでした。
両親は朝出かけたら夕方まで帰ってこないので、それまではほぼ私1人。姉と年齢が離れていて、私が高校生のときにはすでに嫁いでいたので、家では1人で過ごすことが多かった。母に教育方針があったとしたら、日ごろから「なんでも自分でしなさい」と言っていたので、子どもの自主性を育てようということだったのだろうと思います。私自身もあまり寂しいと感じたことはありませんでした。
母は特に食事のことはよく考えてくれましたね。学生時代、私は柔道やラグビーなどのスポーツに熱中していて、体力も消耗するので、朝晩にはしっかり栄養のある食事を工夫してくれました。好き嫌いが多く魚や野菜が苦手だったのですが、スープにして食べやすくしてくれたり、ホウレンソウがしょっちゅう食卓に出ていた記憶があります。
実は、母の生い立ちについてはよくわかっていませんでした。先日亡くなったときに初めて、母が大阪出身だということを知ったほど。母方の祖父母が大分の別府温泉で土産物店をやっていたので、すっかり母も大分の出身なのだと思いこんでいたのです。が、生まれたのは大阪で、祖父母がのちに大分に移ったことがわかりました。大分へは春や夏の長い休みのたびにしょっちゅう遊びに行っていました。叔母やいとこたちと一緒に、大勢で大阪港からフェリーに乗り一晩がかりで行ったことも、母との懐かしい思い出のひとつですね。
生き方を教えられた、忘れられない事件
母のことで40年ほど経った今も記憶に鮮明な事件がひとつあります。中高ではずっと柔道をしていて、ケガが多かったのですが、高校生のとき、大学の教育実習で来ていた学生さんで柔道部の人がたまたま稽古をつけてくれたことがあったのです。
私は投げられるのがイヤで、きちんと受け身をすればケガなどしないのに、抵抗して手をついたりしたんですね。そのせいで肘を骨折。実習で生徒にケガをさせたというので、その人は責任を感じてずいぶん心配してくださいました。
夜になると家に謝罪の電話がありました。母は電話口で頭を下げ、「うちの息子が受け身をしなかったからに違いないので、先生のせいではありません。かえってご迷惑をかけて申し訳ない」と、一生懸命謝っているんです。自分の子どもが投げられて骨を折ったのに、相手を責めずひたすら謝る姿を見て、自分の母ながら「立派な人だな」と思いました。母はどんなときも、「いいことはおかげさま、悪いことは身から出たサビ」という精神の人で、他人を恨まない潔い生き方を教えてくれた気がしています。
運命を変えた母からの電話
1990年代の後半、アメリカ留学から帰国して、日本の大学で研究生活を始めたのですが、思うようにいかない時期がありました。相当追い詰められ、もう研究はあきらめて臨床医に戻ろうと考え、民間病院の整形外科医に就職しようとしたとき、母から電話がありました。「昨日、お父ちゃんが夢枕に立った。伸弥にもう1度考えなおすようにと言っていた」と言うのです。
“夢枕”だなんて、私は科学者ですから「そんな非科学的なことを言われても……」と思いましたが、母がそう言うのならもう1度考え直そうと思っていたところ、奈良先端科学技術大学院大学で研究室を持つチャンスを得たのです。これがのちにiPS細胞の研究成果につながることになりますから、あのとき父と母が助けてくれたのだなと、今でも感謝しています。
母とノーベル賞授賞式に。大きな親孝行を果たす
研究成果が認められて、2004年に京都大学再生医科学研究所の教授に就任したときには、母は「そんな偉い先生ばかりのすごいところに入って、伸弥は大丈夫なのか、やっていけんのとちゃうか」と言って、ずいぶん気にしていました(笑)。そんなふうに40を過ぎた息子の心配をするなんて、母親というのはありがたいものですよね。
さんざん親に心配をかけてきましたが、12年にノーベル賞を受賞し、やっと親孝行ができました。最初、母にノーベル賞の受賞を報告したときはとても驚いていました。スウェーデンでの授賞式に一緒に行ってもらおうと誘ったのですが、「よう行かん」と言うのです。母は60代で仕事を引退してからは、友だちと海外旅行に行くのが好きでよく出かけていましたが、その当時はもう80代。長時間飛行機に乗るのがイヤだったようです。なんとか説得して、いざ行ってみたら1番楽しんでいたのは母でした(笑)。
晩さん会が夜遅くまでありましたが、母は疲れも見せず、目をパッチリ開けて、料理を楽しんでいました。受賞者の家族は、グランドホテルに宿泊するのですが、母の部屋は窓からの眺めがよく、街の風景も、海も見えたので、とても喜んでいて「部屋の窓から見えるストックホルムの光景が忘れられない」と、帰国してからもずいぶん長い間、楽しそうに思い出話をしていました。これが母との最後の海外旅行になりましたが、まだ元気で一緒に行けるときにノーベル賞を受賞できて本当に幸運だったと心から思っています。
私の母の時代は、子育てや家事は女性の仕事で、女性は支える側でしたが、時代は変わってきています。子育ても家事も夫婦で協力してやっていけばいい。アメリカの女性の研究者を多数知っていますが、彼女たちの夫はとても協力的。日本でも女性を支えるパートナーがもっと出てきてほしいなと思いますね。私たちの研究所でも女性研究者が多数活躍していますが、残念なことに女性の教授はたった2人。世界的に見ても極端に少ないのです。ただし、アメリカで起こっていることは、日本でもいずれ必ず起こるはずです。多くの女性研究者の活躍が心から楽しみです。
1962年大阪府出身。神戸大学医学部卒業後、大阪市立大学大学院医学研究科修了。米グラッドストーン研究所博士研究員、奈良先端科学技術大学院大学教授などを経て、現職。